細く編みこんだ髪の毛先をくるくると回しながら、シドはううん、と唸る。言葉を発しようとするが、思い浮かぶ単語がない。俺は日本語を忘れたわけじゃないよな? と考えるときの言語が日本語なので、喋れなくなっているわけじゃない。
 髪を触る手を止めて、腕を組む。
 厚い唇を微かに開くが、言葉ではなく溜息が漏れた。
 ……まったく、⁠強引にも程がある。
 ……お前が死んだら、この青年は一生後悔しながら生きることになるんだぞ。
 ⁠……相手の気持ちを、少しくらい理解してやれ。
 そう思うものの、生死をかけたミッションを前に、穏やかな態度で人に接しろという方が無理な相談だ。
 増して、決意を固めた真一を押し留めようとするなら穏便なやり方では済まない。
 そして、大事な人を助けたいと願う、真一の気持ちやもどかしさも、シドにはとても良く分かる。
 このジレンマは深い……。
 考えるのはよそう。すべては決まってしまったことだ。
 今はただ、使命を全うするのみ……と思い直すものの、考えずにはいられない。
 まったく、なんて別れ方をしたんだ。

「シド」
 突如名前を呼ばれ、シドは顔を上げた。フィアスが出て行ってから、身動ぎもしなかった真一が立ち上がったのだ。つかつかと出入口まで歩み寄ると、扉の前に佇むシドを見上げる。
「あんたは知っているはずだ。フォックスが何を言っていたのか、教えてくれないか」
 この青年は、電話のことを言っているのだ。フィアスとフォックスの英語でのやりとり。その内容が鍵となることに気づいている。
 東洋人の黒い眼は、時として鋭い光を放つ。まるで、闇夜を照らす新月のように。
 その輝き⁠を見ていると、真実を見透かされそうだ。
 真一から目をそらし、シドは微かに首を振る。
「電話の内容を、君には教えるなと口止めされている。諦めてくれ」
「そこをなんとか……!」
拝むように顔の前で手を合わせ、ぱんぱんと二拍手する。それでも飽きたらないと思ったのか、真一はさっと体勢を変えて土下座した。
「頼むよ、この通り!」
「馬鹿な真似はよさないか。泣き落としが通じるほど、俺の口は軽くな……」
土下座の状態からクラウチングスタートを切ると、真一は走り出す。廊下に出て、フィオリーナの元へ直談判じかだんぱんに行く気だ。
「こらこらこら!」
油断も隙もない。首根を掴んで引き止め、暴れる真一を羽交い締めにするが、全く大人しくならない。腕を振りながら、少しでもドアの近くへ行こうと、身をよじっている。
「良い加減に……しろっ!」
鼻から息を吸い込むと、シドは両腕に力を込めて青年を投げ飛ばした。クッション材で出来たソファに、衝撃を吸収してもらう算段だったが、頭から突っ込んだ真一は、ソファごと派手にひっくり返った挙句、部屋の隅まで吹っ飛んだ。
派手な破壊音が響き終わると、気まずい静寂が部屋に沈む。
 やり過ぎた……シドは頭を掻く。
「すまん。大丈夫か?」
おそるおそるソファの裏側を覗き込むと、壁際に丸まった真一を見つけた。
 手を差し伸べる前に、よろよろと起き上がる。先程と打って変わって静かだ。音もなく立ち上がると、真一は地面を見つめたまま、つぶやくように言った。
「フィアスは、俺のことを信用していないんだ」
「そんなこと……」
「あるだろ!」
シドを遮り、真一は怒鳴る。ミステリックな新月の瞳は、⁠怒れる鉄の刃へと輝きを変えた。
「全然伝わらない! 俺や凛がどれだけ心配して⁠、どれだけ力になりたいと思っているかなんて、アイツにはどうでも良いんだ! ネオに殺されかけたときでさえ、フィアスは自分の気持ちを話してくれなかった。それは俺たちが役に立たないからだって、話しても無駄だって思っているからだろ? 今だって俺⁠のことを無視して、一人で戦いに行っちまった。これが最後の別れになったら……」
ぐっ、と喉を詰まらせて、真一は口を閉じる。目に浮かんだ涙をリストバンドでごしごし拭う。
シドは黙ってその仕草を見つめていたが、やがて静かに言った……甘いな。
「君の考えは、⁠とても甘い。⁠生まれてから、いかに平和な人生を⁠、歩んできたかが伺える。⁠いいか、よく聞いておけ。戦場の兵士たちは、⁠命を賭した仲間にしか本音を打ち明けない⁠。弱い者に弱音を吐いたら、積み上げてきた強さが打ち砕かれてしまうのを知っているからだ⁠。だから⁠フィアスは、何も語らない。弱者の前では黙するしかないんだよ」
「……」
うなだれたままの真一の肩を叩く。⁠シドは入口の扉を見つめた。
 廊下の先に続く、コンピューター室に篭った彼女の背中を思った。
「⁠俺も、君と同じさ」


 ⁠シドは、倒したソファをテキパキと片付けると、再び元の位置に戻った。そのソファに座り直⁠すと、真一はぼんやりと机を見つめ⁠た。
 頭の中では、シドの言葉が⁠、繰り返し反芻されている。
 〝弱者の前では黙するしかない。〟
⁠ 膝に乗せた手に力が入る。いつの間にか、掌に食い込むほど硬く拳を握りしめていた。
 フィアスは身勝手だ⁠、と真一は思う。
 ⁠フィアスは身勝手だ。個人主義で、合理的で、人の気持ちを考えない……そうやって、危険を一手に引き受けて⁠くれていた。
 彼が血を流さなければ、自分などとうの昔に死んでいただろう。⁠腕を切られて痛みを感じない人間がいないように、どんな凄腕の戦士でも傷つけられれば苦痛にうめく。そのうめきを、彼は一言も漏らさなかった。
 周りの人間を、軽んじていたわけではない。傷口を見せられるほどの相手が、⁠いなかっただけなのだ。
 本当は、様々な感情が渦巻いていたに違いない。⁠敵からの攻撃を受けるたび、どんな気持ちでいたのだろう。人間の心は複雑だ。いかに表層を繕っていても、コンピューターとは違うのだ。
 本音を語れないのだとしたら、抜け出さなければ。
 氷のように冷たい、彼の守りから。
 真一はポケットに収まっている、拳銃に触れた。
 そのとき、シドが顔を上げた。鋭い目つきで廊下を見やる。
 何かあったのか? 真一が尋ねるより先に、唇を塞ぐジェスチャーをした。携帯電話を取り出し、素早くタップする。筆談代わりのショート・メッセージを受信する。
――誰かいる。
 真一が銃を手にしたのを見て、シドは頷いた。彼も懐から銃身を短く切り落としたショットガンを取り出す。二人してドアの両脇に立ち、耳を澄ませる。
 確かに、廊下を歩く足音が聞こえた。さくさく歩くフィオリーナのピンヒールではない。右へ左へよろめく、不安定な足音だ。
身体を預けているのか、ずるずると壁を擦る音も聞こえる。真一は、ボロボロになった布を纏ったゾンビが歩くところを想像した。良い予感はしない。
 シドは自分の陰へ真一を手招くと、ショットガンをリロードする。開けるぞ、というハンドサインを真一に送り、閉めていた扉の鍵を静かに外⁠した。と、数メートル離れたところから聞こえていた足音が、いきなり間近に迫った。
 それは、人間業とは思えない素早さだった。
 ドアが開かれる直前、シドが内側へ引っ張った。ドアノブを要にして、突如開始された綱引きは、怪力自慢のシドをもってしても互角かそれ以上。徐々に開かれる隙間が広くなっていく。
「くっ……! 誰だ! そこにいるのは!?」
 誰何すいかしても、相手は答えない。
 今にも扉は開かれそうだ。
「構えろ!」
太い号令⁠に従い、真一は慌ててドアに銃を向ける。
渾身の力で扉を引きつけ、
「うぉらあぁっ!」
怒声と共にシドが扉を相手側へ押し開いた。壁とドアの間に挟みこむ。相手は銃を持っていた。扉の陰から突き出た手が、左右にぶれつつ発砲すると、壁に黒い穴が開いた。シドが相手の腕を思い切り踏みつけると、ボキッという嫌な音がした。
 金切り声が廊下中に響き渡る。大男の掌が相手の顔を覆う。思い切り壁に叩きつけると、目覚まし時計を止めたように声が止んだ。
 ⁠ふんっ、と荒く鼻息を吐くシド。
⁠(味方だけど、怖ぇ……。)
 銃を握りしめたまま、真一の頬を冷や汗が流れる。
 シドの足元で崩れている、気を失ったのか死んだのか分からない、謎の人物の顔を見た。自分と同じ日本人だった。二十代前半で、年齢も大差がない。ただ、⁠顔色はとても悪い。何を食べたらそうなるのか、土気色だ。
 まさか、本当にゾンビか?
「心当たりは?」
「ないよ。見たことねぇ」
「武器は銃が一丁。形の歪んだ粗悪品だ」
 うううむ、と唸るシドの傍で、真一はハッとし⁠た。その人物の半開きになった目が、真っ赤だったからだ。充血しているわけではなく、瞳の虹彩が血の色に変わっている。
 ネオと同じ色の瞳……!
 こいつも〈サイコ・ブレイン〉の一味だ!
 倒した相手に手錠をかけているシドを置き去りに、真一は駆け出した。
 こら! 行っちゃいかん! 背後から制止の声が聞こえるが、もちろん無視する。廊下の角を曲がり、いくつかの部屋を横切って、コンピューター室へ辿り着く。
「フィオリーナ! 開けてくれ、フィオリーナ!」
 返事はない。
 ドアも施錠されていて開かない。
 仕方なく真一は、持っていた銃でドアノブを吹っ飛ばした。初めて入るコンピューター室は、巨大なサーバーを冷却する風で冷え冷えとしている。数個の巨大なモニターが張り巡らされた一室は、まるでハリウッド映画に出てくる天才ハッカーの秘密基地みたいだ。
 部屋の中心、フィオリーナが驚いた顔で真一を振り返る。
 だが、それ以上に驚愕したのは真一の方だった。
「な、なんだよ、これ……」
 モニターに映し出された人工衛星からの映像。そこには俯瞰した角度から、二人の男が映し出されていた。
ブルーライトの光に覆われているが、彼らの特徴的な髪の色は失われていない。赤髪のフォックスと、金髪のフィアス。フォックスの太い腕が、フィアスの首元に伸びている。首を締め上げているのだ。
「フィアス!」
真一は叫んだ。
 その声に反応するように、フォックスの顔が微かに動いた。
 衛星カメラを意識して、上空を仰ぐ。
 その目は、髪の色よりも赤い。