突然、背後からのしかかられ、フィアスは前のめりによろける。
 おつかれおつかれー、と軽い言葉で労いながら、真一が上機嫌にもたれかかってきたのだ。
 まるで自分の手柄のように、にこにこと笑って、
「ほらな、俺の言った通りだろ? あんたはフィオリーナに勝った。めでたし、めでたし!」
ばんばんと威勢良く肩を叩いてくる。
「何がめでたしだ。お前は国外追放されるところだったんだぞ」
「えっ、なんで?」
黒い目を丸くする真一。その腕から逃れると、きっぱりとフィアスは告げる。
「能天気で、うるさいからだ」
「前向きで、明るいって言ってくれよぉー」
「前向きで、明るい、能天気さが、うるさいんだ」
「後ろ向きで、暗い、神経質な、無口野郎よりよっぽどマシ……って、痛っ! 何撃ってんだよ! 痛いっつーか、服が汚れるっ!」
フィオリーナは後ろ手に二人の会話を聞きながら、くすくすと笑う。
「良いコンビだよな」シドに同意を求められて頷いた。
「ええ。本当に……ホンゴウさんには感謝してもし足りませんね」
「もしかして、俺のこと褒めてない?」と真一が歩調を早めて、横からフィオリーナの顔を見やる。麗しげな笑みに当てられると、得意げにフィアスの元へ引き返していく。
「フィオリーナも俺の方が好きだってさ」
大胆に解釈した真一の言葉尻を継ぐようにペイント弾の銃声。
 シドは微かに笑った後で、声を潜めて言った。
「……しかし、フィオリーナ。貴女が負けるとは思わなかったぞ。今回の戦いも、その手の上に築かれたものとばかり思っていたんだがな」
シドの言葉にフィオリーナは静かに首を振る。
「わたくしは、弱くなったのでしょう」
さくさくと廊下を歩きながら、その声はいつも以上に穏やかだ。
「誰かの優しさを知って強くなる人間もいれば、誰かの優しさを知って弱くなる人間もいる。彼は前者で、わたくしは後者でした」
 深い笑みを湛えながら、彼女はシドを見上げる。
 屈強な大男も深い眼差しで、その瞳を見つめ返した。
 フィオリーナの赤い目。それは初めて目にするものだったが、驚きも、恐れも、疑問すら湧かなかった。それはただ、そこにあるものとしてシドの目に映った。海に沈む夕陽のように。地球に近づいた満月のように。原始に燃やされた焔のように。ごく自然的な現象のように感じられた。
「この弱さを、手に入れられて良かった」
「フィオリーナ……」
シドは自身の編み込んだ髪に触れながら、ひとりごちるように言った。
「俺は、弱いとは思わない。貴女はとても芯の強い女性だ。そして尊敬できる上司だ……少々、秘密めいた部分はあるがな」


 アジトの入り口が近づいて、異変をいち早く察知したのはフィオリーナだった。微かだが、廊下に柑橘の残り香が漂っている。
 振り返り様、フィアスと目が合う。
 瞬時にフィアスは駆け出した。懐から実弾が装填された銃を取り出し、入り口近くで敵を探る。気配がしないと分かると、扉を乱暴に開け放った。
 共用リビングは、訓練場へ行く前と変わらなかった。物の配置もそのままで、罠が仕掛けられている様子はない。
 凛の私室のドアを開ける。ここにも敵の気配は感じられない。洋服や雑誌が散乱した部屋に、しかし、彼女の姿もない。
「リン!」
 次々と部屋の扉を開けて、彼女の名前を呼んでみたが、アジトのどこにもその姿は見当たらない。
 自室の扉を開けたとき、私物が引っ掻き回されていることに気づいた。特に洋服。気に入らなかったものをその場に投げ捨てたらしく、数枚のシャツが折り重なって落ちている。
 敵は、いない。
 彼女は自分の意思で出て行ったのだ。
「衛星で周辺一帯を見てみよう」とシドが廊下に消える。
「慶兄ちゃんに連絡して、笹川組の若い奴らに凛のことを探してもらうよ」と真一が電話を掛ける。
左手に銃を構えたまま、つかつかと出口へ向かうフィアスを、フィオリーナは呼び止めた。
「フィアス。貴方が動くのはまだ早い」
「リンは自分の足で出て行った。そう遠くへは行っていないはずだ」
「落ち着いてください。闇雲に探し回っても体力を消耗するだけです。シドとホンゴウさんが横浜一帯を調べてくれています。わたくしは支配人に連絡して、リンさんに似た特徴の女性がホテルにいないか、隅々まで調べてもらうようにしました――そこで、わたくしたちは頭を使って、行方を追ってみませんか?」
フィアスは後ろ髪を引かれるように、外へ通じる扉をしばらく見つめていたが、諦めて首を振ると、銃を懐へしまった。
 ソファへ腰かけ、プラチナブロンドをぐしゃぐしゃと掻きむしる。そのままきっかり五秒、頭を抱えたまま動かずにいた。
 ふっ、と息を吐き、顔を上げる。
 まばらな前髪の隙間から、青い瞳がフィオリーナを見据えた。
「……警察組織にいたころの、やり方で構わないなら」
フィオリーナは頷いた。
「もちろんです」
 フィアスは立ち上がると、フィオリーナを連れて凛の部屋へ向かう。そして部屋の中をぐるりと一巡した。
 その間に喋り続ける低い声は、何かをそらんじているようによどみなかった。
「部屋に入って、まっ先に目につくのは試着された服の山だ。彼女の部屋は散らかっているが、この場所だけ物の荒れ方が違う。つまり、部屋を発つ前に彼女が触れたものだと考えられる。
クローゼットの中身が全てばらまかれているが、彼女は俺の洋服を物色している。動きやすいものがなかったからだ。おまけにここにある服はどれも、ビビットカラーの、意匠いしょうの凝ったものが多い。俺の洋服を着ていったのは、外見で周囲の目を引きたくなかった、という理由もあるだろう。
リンは衝動性しょうどうせいがかなり高いが、今回の失踪しっそうに至っては計画的だ。全員が居なくなった隙を見計らって、服装にも気を遣っている……ただし、心に迷いがある。完全に勝利を確信しているわけじゃない。
机の上に、蓋のしまっていない口紅がある。どの化粧品も口が開いている。洋服選びは入念だし、俺の部屋を物色していく時間もあった。それならば、気持ちに余裕がなかったと見るべきだ。
彼女は、ある目的のためにアジトを出ていって、その目的について、俺たちは聞かされていない。そしてその目的を達成できるか、彼女自身にも分からない」
 「マフィアの勘」――かつてFBIに所属していた頃、周囲の人間から、彼がそう呼ばれていたことをフィオリーナは知っている。
 マフィアの一味として認識されていたルディガー・フォルトナーにちなんで付けられたあだ名だ。犯人の視点に立ってプロファイリングを行い、事件解決の糸口を探る。実際に目にしてみると、「勘」というより、巻き戻した過去をその目で見ながら、話しているように感じられる。
 これが本来、彼に授けられた天賦てんぷの才覚なのだろう、とフィオリーナは思う。
 フィアスは腕を組むと、じっと女上司を見つめた。
「俺が気づいたのはこんなところだ。貴女の意見を聞かせてくれ」
フィオリーナは、部屋の中央へ歩み出ると、ぐるりと部屋を見渡した。
「わたくしも、この時点でのリンさんの感情はまだらだったと思います。しかし、ベッドに香っている香水の匂いは強い。眠りから覚めて、すぐに行動を起こしている。明確な目的意識を持っています。リンさんの洋服の好みや、外見のこだわりは、貴方と出会ってから変わっていませんか?」
「あまり変わっていないと思う。彼女は、どんなときも女性らしい服装を好んで着ていた。アクセサリーは身につけていなかった」
「メイクはどうですか?」
「俺には難しい質問だな……たぶん、変わっていないと思うが」
「彼女は、赤色が好きみたいですね。わたくしと会ってから、常にこの色のアイシャドウをつけていました」
フィオリーナは化粧品を手に取ると、くすんだパッケージの表面を撫でる。
「ここにあるものは、リンさんが普段使用している化粧品で、特別な思い入れはなさそうです。服装についてですが……」
フィオリーナはそっとフィアスを見上げる。
「貴方の洋服を着ていったことに特別な意味があると思います……本当は、貴方についてきて欲しかったのではないでしょうか」
「それなら、なぜ黙って出て行ったんだ」
フィオリーナは宙を仰いで、一瞬だけ考えごとをした。そのあとで、一つ一つの単語を吟味するように、慎重に言葉を発した。
「リンさんは、心の中に、とてつもない猜疑さいぎを抱えているのだと思います。両親と離れ離れになってしまった過去を持ち、嘘と裏切りが日常茶飯事の世界で生き延びてきたのですから、自己防衛機能として、無意識のうちに自分と他者を切り離して考える癖がついてしまっていても、無理はありません。そして、わたくしたちの意図しないところで、深く彼女を傷つけることがあったのかも知れません」
 かつて、孤独が嫌い、と言っていた彼女をフィアスは思い出した。一人にしないと誓いを立てた晩、腕の中で小さく震えていた彼女の肩先を。それから、このアジトの部屋で自分の肩に頭をもたれ、うっとりと目を閉じていたときの長い睫毛を。
〝あたしのガードを外れてどこへ行っていたの?〟
 あのとき、凛が尋ねてきた質問に答えなかった。彼女の精神的なショックを考えて一時保留にした。妥当だとうな判断だと思った。それがかえって不安をき立て、孤独を感じさせる結果に繋がっていた。
 そして、そのことに気づいていたのに、何もできない自分がいた。
「俺が、リンを傷つけたんだ……」
絶望的な声でフィアスは言った。
「彼女を守っているつもりで、孤独の中に閉じ込めていた」
「それは、わたくしも同じです」
静かにつぶやいたフィオリーナの声に、暗く陰った灰青色の眼差しが注ぐ。
 フィオリーナは、そっと肩に手を置いた。
「貴方に打ち負かされて、わたくしは忘れかけていた、人の心の機微に気づかされました。心の移ろい、繊細さともろさ……元をたどれば、それは、リンさんが気づかせてくれたことです」
ブルーヒューの優しい目で、フィオリーナは微笑んだ。
「彼女に会って、謝らなくてはなりません」
「ああ……。そうだな」
フィアスは微かに首を振る。ゆっくりと一呼吸したあとで、毅然と頷いた。
「捜査を続けよう」
 凛の部屋を出て、自室に続く扉を開ける。
 整然と片付いた部屋に侵入した形跡は顕著けんちょだった。洋服を筆頭に、専門書や学術書がばらまかれ、クローゼットにしまってあった武器や防具がベッドの上に投げ出されている。
 武器を調べると、銃が一丁欠けていた。小さな護身銃とホルスター。凛が持っていたらしい。
「危険を察知していたにも関わらず、誰にも助けを求めなかった」フィアスはため息を吐いた。「きつい証拠だ」
「彼女の行動の目的について、貴方の見解はいかがですか?」
「人……だな。リンは誰かに会いに行った。過去に会ったことのある人物で、彼女にとって重要な意味を持っている。計画的な行動と、危険を冒して外に出る理由は、それ以外に考えられない」
「わたくしも異論はありません。さらに言えば、リンさんがその人物に好意を寄せているにしても、恋人や、かつて恋愛関係に陥っていた異性とは考えにくい。それは、彼女のメイクに特別感がないことと、貴方の洋服を身につけていったことからも考えられます」
「友人でもない。彼女は以前にもこんな風に出て行って、親友の少年に会いに行った。そしてその少年は殺された。似たような関係性の人物に対して、同一行動を起こすとは思えない」
 やはり……、フィオリーナは小さな声でつぶやいた。
 それはフィアスも、捜査の過程で頭に浮かんできたことだ。

 凛は、家族に会いに行った。
 唯一の肉親――龍頭正宗に。

「携帯電話だ」
 その答えに行き着いたとき、ほとんど反射的にフィアスは口走っていた。
 〈ベーゼ〉を出るときに正宗に渡していた、自分の携帯電話。今までに何度も電話を探知して正宗の行方を探したが、電源が入っておらず、逆探知は不可能だった。ずっと音信不通だった電話が今になって作動し始めたことに違和感がもたげたが、リンに繋がる唯一の糸を辿らないわけにいかない。
 フィオリーナは調査室にいるシドに電話を掛ける。
 すぐさま、パソコンを操作する音が聞こえた。
「ビンゴだ」
数分ののち、スピーカーフォンから、野太い声が聞こえてきた。
「今から一時間前に、公衆電話から着信が入っている。今も電源が着きっぱなしだから、場所を特定出来るぞ……少し待ってくれ」
 二人を追って部屋に入ってきた真一に、フィアスは状況を説明する。
 真一はしばらく何かを思い出そうとするように、こめかみを指で突いていたが、やがて悔しそうに首を振った。
「何か引っかかっているんだけど、うまく思い出せないな」
「それは、リンに関することか?」
「うん。病院にいたとき……」
いいか? とシドが割って入る。電波の出所を特定出来たようだ。
「ここからあまり遠くない。横浜のホテルの一室だ」
「そこに、マサムネが潜伏しているのか?」
「分からない。ホテルの管理データにも侵入できたが、登録されているのは英名の、聞いた事のない名前だ。おそらく、偽名だろう」
 フィアスはフィオリーナと顔を見合わせる。
 互いに思っていることが一致しているのを確かめるように。
「フォックス」フィアスは呟いた。
「その部屋は、フォックスの寝ぐらだ」