ルーツ


 レジャースポットを通過し、元町中華街を抜け港の方へ。十代前半に、彩と遊び回っていた街並みが流れゆく。
 見覚えのある店や建物を目にするたび、凛の心は大きく揺らいだ。引き返したい、と思う気持ちが胸の中でどんどん膨らむ。
 引き返したい。引き返さなきゃ。この状況、どう考えても間違っている。これが罠でないはずがない。今ならまだ間に合う。
 フィアスがいる、安全な場所へ帰らなきゃ。
 でも……、と凛は考える。あたし、どんな顔をして会えばいいの?
 自分がアジトを抜け出したことに、そろそろ彼も気づくころだ。否、既に血眼になって行方を捜しているかも知れない。そこへ戻ったら、彼はどんな反応を見せるだろう? 無事を確かめて、安堵してくれるだろうか? それとも、無茶なことをするな、と親みたいに叱ってくれるだろうか?
 怒る? 泣く? 笑う? 呆れる?
 しかし、そうじゃなかったら?
 〈サイコ・ブレイン〉に再び寝返ったと思われたらどうしよう?
 あたしは今や、〈BLOOD THIRSTY〉の内情をかなり知ってしまっている。態度には出さなくても、部屋に閉じ込められたり、監視するような素振りを見せられたら、どうしよう?
 タクシーの後部座席で、祈るように手を組み合わせながら凛は考える。
 そもそもあたしは正宗の情報を得たとき、どうして誰にも相談しなかったのだろう。フォックスは「これは個人取引だ」と言った。その言葉を真に受けたわけじゃない。誰にでも話そうと思えば話せた。だけど、それをしなかった。
 それは、心のどこかで、境界線を引いていたからじゃないの? フィアスや真一くん、フィオリーナやシド……彼らと同じ場所にいても、違う。
 あたしは仲間じゃない、と無意識のうちに線引きをしていたんじゃないの?
「正宗……」
 自分の考えに受けたショックを、父親の名前をつぶやくことで和らげる。
 母親を失って、父親と彩と三人で生きてきて、父親もいなくなって、彩と二人きりになって、そして彩もいなくなった。
 家族、血を分けた姉妹、掛け替えのない親友、恋をしてきた男たち、〝この人しか愛せない〟と思った男たち……この二十三年の人生で嫌というほど死に別れ、誰かと新しい関係を築くことにも疲れた。
 残されたのは、六歳のあたしが求めている頼るべき存在だけ。しかし、正宗に会えたからと言って絶望が希望に変わる当てはない。彼自体が絶望の引き金になる可能性もある。
 それでも……。
「これがあたしに残された唯一の道。そうよね、彩?」
胸元のリングを握りしめ、凛は固く目を閉じる。

 目的地に到着した。電話の女が指定した場所――それは海沿いに造られた高級ホテルの広場だった。複雑な意匠の鉄門を通って、広場へとたどり着く。西欧風の、なかなか洒落た作りの場所だ。
 白い石畳の地面の先に、噴水がしつらえてある。何かのイベントが開催されているらしく、広場に配置されたテーブルを囲んで、人々の賑わいが騒々しい。どの人もパーティードレスを着ている。同い年くらいの女の子たちが、色とりどりに着飾ってすぐ傍を通り過ぎた。通り様に、人気俳優のゴシップについて噂しながら。
 目立たなさを考慮して身につけてきた洋服も、ここでは場違いだ。凛はそろりと場所を移動し、天使の像がてっぺんについた支柱の影に身を隠す。
 その近くにも同年代の女の子がいて、楽し気におしゃべりに興じている。意識しなくとも聞こえてくる。
 流行のファッションや、恋人と行ったカフェテリアの感想、テレビドラマに出ているアイドル、職場にいる好きな人と嫌いな人、ダイエット、コスメティックス……話題は多岐に渡った。というよりも、お互いが自分のことを喋ろうとするので、会話の中心は常に定まらない。
 あたしと同じくらいの年の子たちはこんな風にお喋りをするんだ。」凛は胸を射抜くようなカルチャーショックを受ける。
 この子たちは銃の使い方を知らない。誰と寝れば良い情報が手に入るかなんて考えない。そして、この子たちは、自分の死が五十年とか六十年先のことだと思っている。
 それが健全に生きてきた、罪も業も呪いも背負っていない女の子たちの「ふつう」なんだ。
「なんだか、涙が出そうだわ」
思わずつぶやいた一言に、凛は自嘲する。そして感じる……大丈夫。まだ笑い飛ばせるだけの余裕はある。
 広場に賑やかな音楽が流れたとき、鋭い視線を感じた。真っ直ぐに自分を目指して歩いてくる。凛は石柱に背中を預け、ヒップホルスターから銃を取り出す。周囲の人々はある一点の方向へ目を向けていて、背後の石柱には目もくれない。
 ただ、凛だけが銃口の先に佇む男を、睨むように強く見据えた。
「フォックス……」
彼女の前には赤髪の殺し屋が立っている。両手を軽くあげて、ホールド・アップの態勢で。
 今日の彼は深緑のシャツにグレンチェックのベスト、ベストと同じ柄のワンプリーツのスラックスを履いていた。派手好みの普段着は、この会場にいる人々と比べても見劣りしない。フォックスは何か言いかけたが、もどかしげに口を閉じた。言葉が通じないことを思い出したらしい。
 代わりに凛は言ってやる。
「ドン・ムーブ。オッケー?」
フォックスは頷いた。しかし、ここから先に続く英語を凛は喋れない。フォックスと同じ苛立ちを感じながら、銃を構えていない方の手で手ぶりをして、日本語と英語が混ざった曖昧な言葉を紡ぐ。
「正宗はどこ? マイ・ファーザー。ユー・プロミスド・ミー。約束、覚えてるでしょ?」
フォックスはホールド・アップ状態のまま、動かない。
 凛は素早く周囲に目を走らせる。近くにフォックスの仲間らしき人間の気配はない……そして、正宗の姿も。
 ということは、これは罠だったのだ。父親の名を使って、自分をおびき寄せるための罠。
「だましたわね」
凛は静かに安全装置を外す。
「ここに正宗はいない。そうでしょ?」
フォックスは喋らない。ただ唇に人差し指を当て、「お静かに」という仕草をした。楽しげに視線を広場の先に向ける。
 凛も彼の視線にならった。
 人々は、いつの間にか広場の向こうの教会の周りに集い、荘厳な扉が開くのを今か今かと心待ちにしていた。そして、今まさにファンファーレが鳴り響き、ハート型の風船や、色とりどりの紙吹雪が舞い上がり、その中からゆっくりとした歩調でウェディングドレスの女性とタキシード姿の男性が歩いてくるのが見えた。
「結婚……式?」
あっけにとられた凛の一瞬の隙をついて、フォックスは間合いを詰めた。
「Button it, Lady.(静かにしな、嬢ちゃん)」
悲鳴を上げようとした凛を大きな手で引き寄せ、強引に口付けする。その間にもう片方の手が銃を握っていた手首をぎゅっと捻り上げた。
 流れるような、ディス・アーム。
 抵抗にもがく凛の身体は、熱烈な抱擁にカモフラージュされたフォックスの抑制の前になす術を失う。キスの後、すぐさま胸に顔を押し付けられた。これでは助けを呼ぶことが出来ない。
 彼のシャツからは強すぎるムスクのにおいがした。
 凛の耳に唇を近づけると、フォックスは静かな声でささやいた。
「リン、俺ニ従エ。サモナクバ、死ヌ」
胸元を、取り上げられたばかりの銃が圧迫する。
「You know what I'm saying? (意味、分かるか?)」
凛は静かに頷いた。痛いくらいに強く肩先を掴まれ、回れ右をさせられる。胸元に押し付けられていた銃は背中に回った。歩け、と突かれて、凛はゆっくりと歩き出す。
 背後ではフォックスが、端正な顔を不快に歪め、地面に唾を吐き捨てた。
「I can't stand a ho....」
独りごちて、舌打ちする。
 教会では相変わらず、人々が新郎新婦を祝福し、笑いと拍手と賑やかな音楽が鳴り響く。
 それは今や別の世界から届く、遠い福音になり果てていた。