むしりとられた毛皮のように薄い雲が月を隠す。夜の気配が満ち満ちて、街じゅうに深海の色が漂う。コートの襟を掠めてゆく夜風。ウェーブのかかった長い金髪が微かに揺れる。たくさんのマネキンが飾られた巨大なガラスケースに自分の姿が映っている。
 胸のあいた萌黄色のコートに、麻のブラウス、黒と白の幾何学模様が刷り込まれたペンシルスカートに青いエナメルのヒール。女性の服装として何ら不自然なところのないこの格好も、閉店後のショッピングモールには不似合いだ。命を持ったマネキンが人のいない時間を見計らって、哀しいワルツを踊りに来たように見える。人形の瞳は赤い。燃えるほむらというよりも、様々な情報を呑みこんだ血液のように深く、赤い。
 フィオリーナ、と名を呼ばれて彼女は人間に戻る。
 再び月が顔を出すと同時に、音もなく少年が現れた。彼はフィオリーナより二十センチほど背が低い。少女のように細い体に、白いワイシャツとブルージーンズをまとっている。足元はえんじ色のバスケットシューズ。世界中のティーンエイジャーと変わらない格好をしている。
 ジーンズのポケットに手をつっこんだまま、フィオリーナと同じ色の目を細めて微笑む。
 彼らは兄妹だ。
 同じ遺伝子を分かち合い、同じ環境で幼少期を共にした。外見に似つかわしいところがないのは、遺伝子移入トランスフェクションの時期に差があるから。胎芽の段階で手を加えられた兄は、妹よりも早い段階で成長・老化が停止した。色素や顔の造形にも違いが出た。
 思春期の頃に外見のデータを取られ、盛んに兄と比較されて嫌な思いをしたことをフィオリーナは思い出した。そんなことを思い出している場合ではないにも関わらず。
「久しいですね、貴方に会うのも」
「四半世紀ぶりかもね。まるで彗星のような出会いだ」
「長らく待ちわびた雨期のように私は思います」
「それも素敵な例えだ」
ネオはハグをせんばかりに両手を広げた。そして鈴のような声で高らかに告げる。
「今宵の巡合を僕は尊ぶ。生涯の敵であり友である人よ。かけがえのない、我が妹よ」
 ネオの顔は喜色満面だ。フィオリーナは一歩後ずさり、両腕を組んで彼との精神的な距離を保つ。昔からそうだ。彼は魔術的な話術で周囲の人間を自分の世界に引きずり込む。先天遺伝子より先にもたらされた天賦の才覚。生まれ持っての独裁者だ。
 遠くからサイレンの音が聞こえる。
 前方の高層ビルで航空障害灯が点滅している。
 雲の切れ目から降り注ぐ月の光。
 深呼吸して、真っ直ぐに彼を見つめる。
「貴方を殺す」
フィオリーナは低い声でつぶやく。
「両手が使えなくとも……」
「それは僕だって同じさ」
 両腕を羽衣に包まれたかのような緩やかな動きでネオはジーンズのポケットから拳銃を取り出した。玩具のような外見の、護身用の小さな銃だ。弾が一発装填されているだけだが、引き金を引けばたちどころに音速を超える弾丸が発射される。
 標的に向けて銃を構えるが、一秒もしないうちに両手が震え出し、銃を取り落としてしまった。ネオは銃を拾うと安全装置を元に戻し、再びポケットにしまう。拳を固めてフィオリーナに近づこうとするが、分厚い空気の壁に囲まれたように足も手も定められた地点からは前へ出ない。
 戦闘態勢を解いて、おちゃらけた態度で肩をすくめる。
「こんなんじゃ兄弟喧嘩もできない。僕はルディガー先生・・・・・・・を恨むよ」
フィオリーナは震える拳を握った。彼女もこれ以上彼の傍へ近づくことが出来ない。先天遺伝子の持つ深刻な本能、少しでも殺意を持てば体中にロックがかかる。息を止めて自殺できないのと同じだ。
 元は先天遺伝子たちが組織を構成しないようにと講じられた策だ。化学者たちが執るはずだった主導権が失われた今となっては互いの抹殺を阻止するもどかしい鎖に他ならない。この本能のせいで幾度も決着を先送りにしてきた。だがそれもおしまいだ。
「私の後天遺伝子が貴方を滅ぼす……そして私も。我々はようやく無に還れるのです」
「残念だけど、僕のカードの方が強い」
ネオは微笑んだ。
「フィオリーナ、同胞のよしみに僕は忠告をする。間もなく僕の後天遺伝子が〈BLOOD THIRSTY〉を壊滅させる。皆殺しにするか、あるいは貴女だけを特別に生かし足下に傅かせるかもしれない。どちらにしても、僕の知ったこっちゃない。好きにすればいいさ。凛さえ無傷で引き渡してくれるならそれでいい」
 フィオリーナは反射的にヒップホルスターに手を伸ばした。右手が小刻みに震え始めた。駄目だ、ブレが大きすぎて命中しそうにない。
「君が力になってくれれば、君の身の安全を保障する。友達にも手荒な真似はしない。僕たちはまた家族に戻れる。子どもの頃みたいに、二人だけで幸せに暮らすことができるんだよ」
ネオは目を閉じると、全身の力を抜く。そして、ゆっくりと小さな一歩を踏み出した。まるで空中を歩くように、一歩一歩慎重に前へ進んで行く。
 進行を阻んでいた空気の層が道を開けると、月の光を全身に浴びたネオは天使のような微笑みを見せた。赤い瞳から夜露よりも澄んだ涙が零れ落ちる。彼は細い腕でフィオリーナ肩を抱くと、慈愛に満ちた抱擁をした。
「頼むよ。僕はまだ君の兄でいたいんだ」