誰かに名前を呼ばれて、フィアスは目を覚ました。上体を起こして辺りを見回すが、誰の気配も感じない。
当たり前だ、それぞれに割り振られた個室の、ここはベッドの上なのだ。誰かが部屋へ入って来たらすぐに分かる。それでも夢の中で聞いた幻聴だと片づけるには違和感があった。強力な電波に乗って受信された信号のように、その声ははっきりしていた。
手を伸ばして、サイドテーブルに置いてある携帯電話をとった。
しばらく逡巡したあとで電話をかけた。
――どうしましたか? 
冷静沈着な声が返ってくる。いつものフィオリーナだ。
「深夜二時に、それも貴方の方からコールするなんて、輪をかけて珍しいですね」
「愚問を投げかけてもいいか?」
「何でしょう」
「今、俺の名前を呼んだか?」
「呼んでいません」
「愚問だったな」
「貴方には珍しく」
「すまなかった」
電話を切って、ベッドに寝転ぶ。
それから一分もしないうちにフィアスは再び起き上がると、長机の上に放置されていた言語も様々な五種類の新聞を手に取った。特に目を引く記事はない。世界各国のニュース番組をザッピングしても似たような結果だ。
電化製品の光を受けて蒼く変色したプラチナブロンドを掻く。
気のせいか、とつぶやきかけて口を閉じる。
変わったことは何も起きていない。それなのに、この胸騒ぎはなんだ?
……分からない。
思考に濁りを感じた彼は、軽く身体をならしたあとで、地面に手をつきかなりハードな筋トレを始めた。三十分間無心に身体を動かしたあと、シャワーを浴びていつものスーツを身につける。
再びベッドに腰をおろす。
 前かがみの態勢で、膝の前で手を組み合わせて目を閉じる。
視界を消した瞬間、全身に触れる空気が厚みを持って覆いかぶさってくる。耳の奥で微かに響く耳鳴りのような金属音以外の全ての音がいなくなる。
身じろぎもせずにじっとしたまま、フィアスは意識を集中する。今までの行動と照らし合わせて違和感の正体を掴みに行く。
……。
……。
……。
……そうか。
……どこにいるかを、聞くべきだったんだ。
その答えにたどり着いたとき、彼にはその過ちが取り返しのつかないひどい失敗に感じられた。
あの電話は、決して無意味な行為ではなかった。自分は正解に手を伸ばしかけていた。詰問して、無理にでも口を割らせるべきだった。彼女が今、どこにいるのかを。
そう、彼女の元へ向かうべきだったのだ。
だがそれも、もう手遅れだ。
フィアスは自室のドアを開けてリビングに赴いた。部屋に溢れ返っていたシドの筋トレグッズは跡形もなくなっていた。片付けたのだろうが、あれだけの量をどこに押し込んだのか気にならないでもなかった。
壁沿いに設置されている共用の冷蔵庫を開くと、テキーラばかりが狂ったように押し込まれている。シドが母国から持ち込んだ地酒の瓶を一本拝借すると、部屋へ戻りかけた足を止めて、三日間開かずのままになっている扉を見る。
無意識のうちに気配を探りかけていた。
紫煙を大きく吸い込んで、水のように揺らいでいた空気を元に戻す。
「……俺の周りにいる女は、問題のあるやつばかりだな」
苛立ち気味につぶやく。その苛立ちの根源が自己嫌悪であることを認めたも同然だと分かっているにせよ。


翌日、自室から外へ出ると一瞬だけ凛の姿を視界に捉えた。
彼女は野生の猫のような素早さで座っていたソファから飛び出すと、自分の部屋の中に消えた。
真一はあっけにとられた顔で、力任せに閉められたドアを見つめる。
「見事に無視を決め込んでる……女の子って、恐いよな」
フィアスは何事もなかったかのように真一の隣へ腰掛ける。カップの縁についていた赤い口紅をぬぐって、飲み掛けの珈琲に口をつけた。カフェオレだ。甘ったるくて珈琲よりもミルクの分量の方が多そうだ。
向かいの席ではシドが大きな手で口を覆って笑いをこらえている。
「そろそろ謝った方が良いんじゃないか?」
「謝る? 謝るって何を? 誰に?」
「相変わらず、頭が固いな。謝罪にも理由がなきゃいけないのか」とシド。
「いや、心では分かっているんだと思うよ」と真一。
「ただ、感覚的に分かっていることを理解しようとする柔軟性がコイツにはない。世界は数字と説明文でできていると思っているんだから」
「重病だな」
「そうだな」
「疲れるな」
「俺は見ていて面白いけど」
おい、怒気を含んだフィアスの声に二人は苦笑して顔を見合わせる。
いつの間にか見えない徒党が組まれている。この絆は室内ボクシングが原因か。
「フィオリーナはどこにいる?」
「上司に相談してもこればっかりはなあ」
「その件からひとまず離れてくれないか。俺は上司に用があるんだ。最後に会ったのは二日前だ。彼女はどこにいる?」
「フィオリーナならずっと調査室にいる。ネオの動向を調べると言ったまま出てこない」
「シドがそう聞かされているのなら、まずいな。今朝、地下にある部屋は全室調べた。どこにもフィオリーナはいない」
「……」
赤茶色の目を鋭く細め、シドは真剣な顔でフィアスを見た。
「お前がジョークを好まないのはよく知ってる」
「嘘だと思うなら自分の目で確かめてくればいい。彼女は地上に出たんだ。いつものように隠密な用事で。正午までに戻らなかったら探しに行こうと思っているが……」
フィアスは携帯電話を取り出すと、再びフィオリーナへ電話を掛ける。
膝の前で手を組んだまま、深刻な顔で床を見つめるシドを横目に見やりながら、フィオリーナの声を待つ。
「……俺は信用されていないのか?」
シドはつぶやきには自問自答の響きがあった。
フィアスはちらっとシドの方に目をやったがすぐに電話に集中した。
ワンコール、ツーコール、スリーコール……。
――フィアス。
自分の名前を呼ぶ彼女の声は、いつもとまったく変わりない。
――長らく指令を与えず、申し訳ありません。わたしたちの最善の動き方を考えるあまり、礼を失していました。
それどころか、いつもは頼もしく感じる冷静さが極まって、人寄せつけない、ある種の礼儀正しさに変わっているように感じた。
「フィオリーナ、これは野暮な質問じゃない……怪我はないか?」
電話を奪おうと伸ばしたシドの手をかわしながらフィアスは通話を続ける。
「貴女のことが心配だ、フィオリーナ。貴女は今、深刻な立場に立たされている。俺にはそう感じられる」
――部下に心配されるようでは、わたくしもまだまだですね。
「違う。俺は部下の立場から心配しているんじゃない」
――それなら、貴方はわたくしの何? なんなの? はっきり言ってちょうだい……と若い女性ならば言うのでしょうね。
大暴れするシドと、その脅威から逃れるため片隅に避難した真一をリビングに残し、フィアスは自室の鍵を閉めた。反射的にポケットを探るが煙草の箱は出てこない。すったもんだの騒ぎとともに、リビングに置き去りにしてきてしまったらしい。
軽く息を吐くと、フィアスは言った。
「俺たちは同胞だ。同じ種族、同じ血統。例えこの遺伝子が、貴女の精密なレプリカだったとしても、この気持ちは本物だ」
――……。
「俺の名前を、呼んだだろう?」
厳しい彼女の息遣いが、少しだけ震えたように感じた。
それは微かな笑い声にも泣き声にも聞こえた。