一瞬でも気を抜くと、間合を詰められる。物影に身を潜めても、わずかな呼吸を聞きつけて居場所が特定される。遠距離の攻撃は通用しない。狙いを定めて発砲する、その刹那に彼女はもう攻撃の段階に移っている。
 勢いをつけたハイキックがM5906を吹っ飛ばした。右足を軸に後回し蹴りのコンビネーションが続く。首筋に触れ掛けたハイヒールの爪先を腕時計でガードすると、時計盤にヒビが入った。身を沈めたフィオリーナが地面に手をついて、側転に近い動きでミドルキックをお見舞いする。避ける必要はなかった。肉を切らせて骨を断つってやつだ。意識をサイドアームに集中させていたので、太ももに走った熱い衝撃も気にならなかった。足元に向けて引き金を引くが、既に彼女はいない。地面に弾けた青色のペイントが広がる。
 前腕をバネのように弾ませて体勢を元に戻すと、目にも止まらぬ速さで銃を持つ腕を掴み、正面から遠のける。窓を開くように懐へ割って入ったフィオリーナの重い拳を、みぞおちに届くより先にフィアスは掴んだ。両者睨み合った体制のまま、血管の浮くほど強く握りしめられた互いの手が小刻みに震えている。これ以上の攻撃はできない。
「ムエタイ、テコンドー、カポエイラ……まるで格闘技のカタログを見ているみたいだ」
「軍隊式の格闘術は貴方も心得ていると思いましたので、スポーツ格闘技を応用してみました」
 その心得えているはずの軍隊式格闘術で、三日前は完膚なきまでに打ちのめされたことをフィアスは思い出した。今回はドロー。フィオリーナは余裕綽綽の様子だが、進歩した方だ。
「どうしたら良いのでしょう……」
構えを解くと、フィオリーナは困ったように腕を組んだ。
「銃の特性上仕方のないことですが、狙いを定めてから発射までの間にわずかな隙ができる。一般人には付け入ることのできない隙もネオは見逃さない。困りましたね」
片手を頬に添えて小さく溜息を吐く。クローゼットの前に立って、パーティに着ていくドレスを選ぶような可憐な仕草である。
「このままだと、貴方は99.9パーセント殺されてしまいます」
「平然と恐ろしい予言をしますね」
「真実なので仕方がありません」
 フィアスは〈ベーゼ〉の庭で、ネオと戦ったときのことを思い出した。得意の早撃ちは役に立たず、結果的にダメージを喰らわせたのは本能に従った回し蹴りだった。身体能力の高い先天遺伝子に動作の多い銃撃は不利なのかも知れない。
 ネオもフィオリーナも銃を持たない。しなやかな体を駆使して独特の格闘術を仕掛けてくる。かといって、こちらも体術で応戦するには分が悪い。フィアスが用いる格闘術は相手の攻撃を逆手に取った護身術の要素が強いものや、地の理を生かした対テロ用のものだ。肉弾戦に持ち込んだところで防戦一方を強いられるのは火を見るより明らかだ。
「今日のところはこれくらいにしておきましょう」
「フィオリーナ」
防音措置が施された分厚い扉に手を掛けたフィオリーナをフィアスは呼びとめた。
「次に会ったとき、フォックスを殺す。事前報告だ」
灰青色の瞳が真っ直ぐに彼女を見つめる。
「貴女の庇護を離れた時点でアイツが生き残る術はない」
フィオリーナは納得のいった顔で頷いた。
「貴方は以前に彼の仕事場イタリアを訪れたことがあると言っていましたね」
「ああ、最悪だったよ。どれも女絡みの怨恨だ。貴女の囲いが外れた瞬間、イタリア中の悪党があいつを八つ裂きにするだろうな」
「それでも彼は組織を離れたことを後悔していないでしょうね。むしろ、新しい地位を確立したつもりでいるかも知れません」
「まったく、救いようのないバカだな」
どこか寂しげにフィオリーナは笑った。

 秘密の訓練場のある地下施設から長い廊下を歩いて部屋に戻ると、真一がシドからボクシングを教わっていた。シドの構えるミットに風を切った強いパンチが小気味良い音を立てている。二人とも顔は真剣そのもので、髪が汗のつぶで光っている。フィアスは部屋のドアを開け放つと廊下に出て煙草を吸った。紫煙の甘い匂いに気づいて二人が顔を出した。
「何やってんだ、こんなところで?」
「換気」
「副流煙に配慮するとは殊勝な心がけだな」とシド。
「頭のおかしな二人組が生活空間でボクシングをしているせいで部屋が汗臭いんだ」
「だって退屈なんだよぅ」
繰り出した真一の右ストレートを難なくかわすとフィアスは部屋中を見回した。席を外していた短い時間の間によくこれだけ運び出せたと感心するほどに辺りは筋トレグッズで溢れ返っている。恐らくシドの持ち物に違いない。罠のように張り巡らされた鉄アレイを皮靴の裏で転がしながら、フィアスは溜息を吐いた。
 地下での生活を始めてから三週間が経過している。
「気が狂いそうな気持ちも分からないわけじゃないけどな」
 上着を脱いでソファに掛ける。シャツの袖をめくると腕中に痣ができていた。打撲の痕というより、原因不明の病原菌に侵されたように見える。今日のトレーニングでできたものだが、昨日はその二倍もの傷が利き腕を中心に染みていた。フィオリーナのことだから上手く加減をしたのだろうが、腕の骨が折れていないことが不思議なくらいだった。到底一日では完治できない怪我を負ったはずなのに跡形もなくなっている。
 真一もシドもフィアスの怪我を見て息を呑んだが、フィアスが驚いたのはむしろ自己回復の早さだった。
 シャワーを浴びたあと、あらためて体中の傷を確認したが、わずかな皮膚の黄ばみを残してどの怪我も治っていた。もう一晩眠りにつけばどこを怪我したのかすら分からなくなっているに違いない。
 髪をかきむしるとたくさんの水沫がベッドの上に飛び散った。左腕を部屋のライトにかざす。
「後天遺伝の能力を発見するたびにどんどんあんたを嫌いになっているぞ」
ルディガー、と頭の中でつぶやく。
 閉じられた記憶の中から見つけ出した思い出を天秤にかけても、今はその名を口にしたくない。
「唯一の血縁者なのに残念なことだ」