破壊の子供たち


教会に住みついていた子供時代に、人々は俺を天使アンジェロと呼んだ。誰もが互いの名前と職業を知っている閉鎖的な山村で、自分が誰なのかを知らず、誰 に産み落とされたかも分からず、古びた教会に根を張る捨て子たちの集団はすべて天使アンジェロと呼ばれていた。
 村の人間は、俺たちの存在をひた隠しに していた。この土地で起こる現象はすべて神からの啓示であるというのが村の通例で、彼らは自らの手で天使アンジェロの存在をどうにかしなければならな いと考えているようだった。
 アンジェロなんて、大仰な名前をつけてくれたものだ。
 種 明かしをすれば、どうってことはない。近隣の町に住まう娼婦たちが村の風習を逆手にとって、殺しきれなかった失敗作を隠ぺいしているだけにすぎなかった。
 天使アンジェロが数を増すと、敬虔な村人たちは教会に集い、夜中を待って何人かの子どもをひっそりと殺した。祭壇の前に置かれた死体を、片づけるのは 天使アンジェロの役目だった。
 天使アンジェロは大人になることはない。定められた運命というよりは、自然の摂理に近い形で子どもたちは納得しているようだった。愚かだ、と俺は思った。教会や村が、世界のすべてだと思っていやがる。この土地に住む者たちは、大人も、子ども、みんな愚か者だ。
 十の年に十二人の仲間を集めて世界に反逆を起こした。村に火を放ち、村人の護身銃を奪って皆殺しにした。近隣の娼館を巡って、娼婦も根絶やしにした。俺たちは自らを「新しい起源」と名づけ、日の昇る前に表舞台から姿を消した。
 それから俺はありとあらゆる手段を使って生き延びた。街のごろつきから、夜盗の一味になり、マフィアの子飼いとなって、専門の殺し屋になった。人殺しなんて 大したことじゃない。捨て去るには長年の努力が要り、人によっては発狂の原因ともなる道徳心を、俺は最初から持ちあわせていなかった。殺しは、俺が人間の 形を保つための、合理的な手段の一つにすぎない。
 二十の年に十二人の仲間を探しだして皆殺しにした。危険な職に就いている人間が大半だったが、中には堅気の職に就き、いっぱしに家庭を持ったやつもいた。十二人と、そいつらの家族全員を殺し終え、俺はようやく過去から解放された心地がした。
 心を改めて、これからは正義のために生きようと決意した。
 フィオリーナという名の女性に出会ってから間もなかった。


 頭がはっきりしないまま、一時間ほど室内の壁を見つめていた。麻酔なのか麻薬なのか分からないが、術後の特殊な薬品が残っているのだと感じる。深く息を吐いて、太い管に繋がれた右手首を持ち上げる。窓ぎわの陽光に照らされて指先の血潮が赤い。
「ずっと、傍にいてくれたんだな」
窓辺を見つめながらフォックスはつぶやいた。
「そんなわけないでしょう」
冷静沈着な英語が返ってくる。フォックスは微かに笑いながら声のする方へ首を向ける。
 彼 のベッドの横には細い腕を組んで小麗が立っていた。勤務外と見えて、彼女の服装は漆黒のスーツから青いチャイナドレスに変わっている。細い身体のラインを 艶やかなシルクの布で覆って、左胸には蝶を模した銀の刺繍が施されている。不機嫌そうな彼女の瞳の上にはエメラルドグリーンのアイシャドウ。アジアの女も 悪くない、とフォックスは思う。
「私は、ネオの命令を実行しているだけに過ぎません」
「ほう、一体どんな命令だ?」
「〝友達の見舞いに行け〟とのことです」
鍛え上げられた軍隊のように真顔で質問に答える小麗を見て、フォックスは思わず噴き出した。
「そりゃあいい!」
あはははははっ、と大笑いする彼を混乱した顔で見つめる小麗。不機嫌な顔に益々不機嫌な皺が寄り、ぶすっとした顔のまま、近くの丸椅子に腰かけた。どうして笑われなくてはいけないのか、彼女には全く分からなかった。
 そういえば、命令を受けたときにネオもいつもとは違う笑い方で笑っていた。男という生き物は、まったく意味が分からない。
緑色の瞳の端に浮かんだ笑い涙をぬぐってフォックスは、感心したように溜息を吐く。
「お嬢ちゃんは、純真なんだな」
「どういうことですか?」
「口説き甲斐のある女だってことだよ」
「その言い方、不愉快です」
「イタリア人の褒め言葉だぜ」
 フォックスの言葉を無視して、小麗はフォックスの腕に取り付けられた点滴を外す。空になった薬剤バッグをゴミ箱へ捨てると、フォックスの太い腕に包帯を巻いた。 両手足の細かな筋肉を動かしながら、フォックスは自分の身体を点検する。手術を受ける前と比べて大した変化はないように思えた。筋肉が増強した感じはしな いし、頭が冴えているわけでもない。薬の影響か、精神はいつもよりずっと安定している。この調子だと、瞳も緑のままだろう。本当に俺は強くなったのだろう か。
 フォックスが訝っていることに気づいたのだろう、小麗は言った。
「貴方の身 体には紛れもなく後天遺伝子の細胞が組み込まれています。それも、貴方の同僚を拉致したときの研究データを元にした、改良型の後天遺伝子です。その強さ は、限りなく先天遺伝子に近い。精神安定剤の効果が切れれば、時期に身体の変化を感じとることができるようになる、とネオは言っていました」
「俺は、フィアスを超えるのか」
「まあ、理論上は」
「俺の身体に別の細工を施したりしていないよな?」
「そうならないための切り札を、貴方も用意しているんでしょう?」
「まあな」そう言ってフォックスは笑った。
 龍頭正宗は、なんて愚かな男だろう。ホテルの自室に残された正宗の服のポケットに、携帯電話が入ったままになっているのを発見した。恐らく、フォックスの洋服を奪い去った際に、誤って置き去りにしてしまったのだ。
 親切心で結びつけようとした父娘の糸が、思わぬところで自分に追い風を起こした。自分はまだ龍頭凛と繋がっている。病院の廊下で釘を刺しておいたので、彼女は携帯電話の番号を、誰にもバラしていないだろう。
 今にも切れそうなこの糸を辿れば、凛をおびき出すことができる。
 ネオと取引をしたときに、フォックスは正宗の携帯電話を確保していることを仄めかせた。後天遺伝子を投与してもらう代わりに、凛を捕縛し、生きたまま〈サ イコ・ブレイン〉に献上しよう。どちらにも好都合な交換条件を提示したが、言い換えればそれは、凛をいつでも人質に取ることができ、手術の際に下手な真似 をしたら凛を亡き者にするという脅迫の意味も込めていた。両組織が所有を望む女の弱みを握っている。
危ない交渉を持ちだした以上、一刻も早く凛を手に入れて、こちらの優位性を確固たるものにしたい。しかし今は焦る時期ではない。新しく手に入れたこの力を、存分に試してみようじゃないか。
「……ところで、見舞い品はないのか?」
はあ? という顔で小麗は眉をひそめる。
「病人の見舞いには付き物だろ。花とか、果物とか……俺は甘いものが好きだからチョコレートでも良いぜ」
「女の子じゃあるまいし、そんなもの持ってくるわけないでしょう」
「なんだよ。美人だけど気が利かない嬢ちゃんだなあ」
「貴方なんかに……」
言い掛けて小麗は息を飲んだ。フォックスが身をかがめて、痛みに呻き始めたからだ。荒く息を吐いて頭を押さえる。こめかみに太い血管が浮いている。手を伸ばしてベッドの鉄パイプを握るとミシミシと鉄の軋む音がした。フォックスの顔は高熱を出したように真っ赤だ。
「頭が、痛ぇ……! これが……後天遺伝子の影響か!?」
「まさか……そんな、どうして……」
「ぐああああ、頭が、頭が割れちまう!」
ベッドの上で身悶えするフォックスの身体を抑えつけようと小麗は身をかがめた……その瞬間、小麗は自分が無重力空間に投げ出されたような不思議な気持ちを覚え た。ふわっ、と抱きかかえられ、燃えるような赤い髪が視界の端をゆるやかに舞った。裸の半身から発する熱いフォックスの体温が腕に絡みつく。薬くさいキスの味が口の中に広がった。
 頬を叩こうとして振るった手を、フォックスの大きな手ががっちりと握り締めた。気が遠くなるほど長い間キスは続き、小麗は頭がくらくらした。酸欠になりそうだった。背中を支えていた手がそっと小麗を離れると、ベッドの上に尻もちをついた。フォックスの演技以上に荒く息を吐いて小麗はなんとかベッドから起き上がる。例えるなら時速300㎞の車に乗せられ、高速スピンをかけられたような感じだ。フォックスは頭に腕を乗せて、面白そうに混乱する若い女性を眺めていた。小麗はふらついたまま、へなへなと床に腰を落とした。心臓が、不気味なほど高鳴っていた。頭が熱くて死にそうだ。こんなときにネオの顔を思い出したくなかったが、思い出してしまった。
「ここまで初心うぶだと、口説くのも大変だな」
 フォックスに助け起こされ、小麗はゆっくりと立ちあがる。
 ありったけのキスをかまして満足したのか、
「良い見舞品だったぜ」
今度は素直に小麗に頬を叩かれた。