笹川組を抜けたときのことは、あまり話したくない。
 笹川の兄貴の涙が、今も記憶の底に焼き付いて、ときどき夢にまで見る。ケジメで俺が失ったものは、奥歯と両手のツメ……アメリカンマフィアがファミリーを抜けるときのことはよく分からないが、ヤクザのケジメっていうのは今も昔も変わらない。まあ、俺の身体のことはどうでもいい。奥歯が欠けても物は食えるし、剥がされたツメもすぐに生えてきた。
それよりも葵を失ったこと、笹川組の信頼を失ったことの方が、俺にとっては何にも代えがたい、大きな損失だ。
 俺はネオの命令を聞きながらヤツを殺す隙をうかがっていたんだが、葵が死んでからというものネオは俺の前に姿を現さなかった。連絡はいつも郵便や携帯電話を通して行われていたし、書面で伝えられない用件のときはネオの手下らしい屈強な男どもが家にやってきた。
 そいつらがくるときは、大抵、娘を連れてベーゼに来いという合図だった。
月に一、二回、俺は言われるがままにベーゼへ彩と凛を連れて行ったよ。ベーゼでもネオには会わなかったが、どうやら彩と凛はどこか違う部屋でネオと会っているみたいだった。葵の死んだ地下で時間をつぶしながら、俺はいつも冷や冷やした。いつ、彩と凛がネオに殺されるか……毎日そればかり考えていた。


「……お前はNYで彩と暮らしていたんだってな。彩から子供時代の話は聞いたか?」
正宗が聞いてきたので、フィアスは首を振る。彩とは二年ばかり一緒にいたが、彼女は〈サイコ・ブレイン〉の名前すら出さなかったのだ。彼女がどういう人生を歩んできたのか、知らないことだらけだった。
そのことを正直に告げると、正宗は少し驚いたようだ。
「フィアス、お前も面白いヤツだな。何年も一緒にいて、彩の過去が少しも気にならなかったのか?」
「興味はあったが、尋ねなかった。知られたくない秘密があることは、お互い様だったから……」
正宗は微かに笑った。
「なるほど。お前たちは似たもの同士だったんだな……」


 もっとも、俺が笹川組を抜けてネオの手下になったのは、彩と凛が六つのときだ。もしかしたら、あの頃のことを覚えていなかったのかも知れない。むしろ、あいつらがあの忌まわしい記憶を忘れてくれていることを願うばかりだ……話を戻そう。
 彩と凛を連れて逃げだせなかったわけじゃない。ベーゼから横浜に戻るときは、いつもそればかりを考えていた。ネオと今すぐに手を切ってやるって。
 だけど、横浜に着くとその考えをどうしても実行に移すことができなかった。笹川組のことがあったからだ。俺たちが行方をくらましたと知った瞬間、ネオはきっと笹川組に恨みを持つ他の組織に例の合図を送っただろう――笹川組をぶっ潰す号令を。
俺はもう笹川組の部外者だが、世話になった組を犠牲に自由を手に入れられるほど、非情にはなれなかった。
彩や凛に、俺のいない間ベーゼで何をしているのかと尋ねると、二人とも「遊んでいた」と答える。ウサギさんみたいな赤い目のお兄ちゃんと遊んでいたの、と。
 二人は葵のように拷問を受けている様子はない。俺はネオの意図が分からないまま、とにかく仕事を続けるべきだと考えた。彩と凛が無事でいるなら、まだ逃げる必要はない。一番の最善策はネオを殺すことだ。一刻も早く……。

 あの頃の俺は先の見えない暗闇の中で必死にもがいていた。なんとか血路を見出そうと、死に物狂いで仕事をしていた。仕事の合間を見計らってネオにコンタクトを取ろうともした。為すべきことは、ネオを殺すこと。やつを血祭りにあげれば全てが終わる。
……だけど、またしても先を越されちまった。二度と取り返しのつかない、大失態だ。

 その日、妙な胸騒ぎがして早めに仕事を切り上げた。なんだか彩と凛がいなくなっちまうような気がしたんだ。俺の手の届かない、どこか遠い場所へ行ってしまうような気がした。
自分で言うのもなんだが、俺の勘はよく当たる。不安に駆られながら、家路を急いだよ。しかし俺の心配は杞憂で、彩も凛もちゃんと留守番をしていた。外に遊びに行くこともしなかったし、戸締りもしっかりしていて、家にはいたんだ……家には。

 事件が起こったのはその日の深夜だ。奴らめ、寝首をかいてきやがったのさ。


 窓ガラスが割れる音が盛大に響いて、俺は目を覚ました。
 すぐに銃を取り出して応戦したが、向こうは多勢、こちらは無勢。一人か二人撃ち殺したような気がしたがそれまでだった。彩と凛の泣き声が部屋中に響き渡って、俺は慌てて二人の姿を探したが見つからない。誰かが二人を家の外に連れ去っちまったらしい。遠ざかる二人の声を追いながら入口まで走ったが、玄関のドアの前に小さな人影が立ちはだかった。暗闇の中でそいつの赤い眼が焔のようにギラギラ輝いていた。
ネオだ。俺が殺すべき相手。
 咄嗟とっさに銃を発砲したが、外れた。いや、的は確実に当てていたが、ネオは大胆にも銃を構えた俺の懐に飛び込んできたんだ。
それは銃弾を動体反射で見極めて、かいくぐってきたようにも見えた。まさか、と思ったよ。どう考えても、人間のなせるわざじゃない。ネオが接近してすぐ、バチバチと何かが弾けるような音がして、左の脇腹に痺れるような激痛が走った。俺は床に崩れ落ちた。左半身が激しく痙攣していた。
スタンガンか電気銃か、とにかく50万ボルトの電流が体中に流れて身動きが取れなくなっちまったんだ。
「ネオ……! 殺してやる……!」
左手には銃を持っているのに、その指が一ミリも動かないなんて皮肉なもんだ。俺は心の中で何回も喝を入れたが、身体に力が入らない。うつぶせに倒れたまま顔を上げることも出来ず、眼球だけを動かして目前の大犯罪者を見ると、ネオは相変わらず無表情をくるんだ薄笑いを浮かべて俺を見下ろしていた。
「滑稽だね、正宗」
「ネオ! 彩と凛を……どうする気だ!」
「安心してよ、殺しはしない。むしろ彼女たちが僕には必要なんだ。今までの計画の全てが彩と凛を手に入れるためだったといってもいい。彼女たちは驚くべき可能性を秘めているんだよ」
「可能性……だと?」
「ああ、そうだよ。正宗、君も父親として知りたいだろう? 彼女たちのかけがえのない価値を。ぜひ知っておいた方がいい」
新しく手に入れた玩具を自慢するような口調でネオは滔々と語り始めた。
 とてもおぞましい、人間の理解の範囲を超えた、狂言を……。