凛が目を覚ますと、あたりはしん、と静まり返っていた。ベッドから起き上がり、部屋の窓を覗く。辺りは真っ暗だ。どのくらい眠っていたんだろう。凛は記憶をたどったが、それは昼にフィアスと話をしたところからぷつりと途切れていた。最後に見たのは、熱に浮かされた自分を不安げに覗きこむ、フィアスの顔。
 凛は額に手を当てる。前髪は汗で濡れているが、熱は引いていた。ぐっすりと眠ってしまったのが良かったらしい。それでも気分は優れない。その原因はキョウヤの死が大部分を占めていたが、他にもなんとなくイヤな感じがする。イヤな感じ、というか、何か予感のようなもの。名状しがたい。
 気分転換に、部屋に取りつけてある洗面台で凛は顔を洗い、歯を磨いた。思えば、キョウヤが死んでから自分の身だしなみに気を配る余裕がなかった。自分の顔を鏡に映すと、とてもひどい。目の下にクマができているし血色も悪いし唇も渇いているし髪の毛なんか浮浪者みたいにぼさぼさ、みじめな女の顔だ。
 一時間や二時間で治せる程度のものではなかったので、凛は顔の手入れを諦め、リビングへ向かう。リビングにはフィアスがいる。彼と話をしたら、このイヤな気持ちも少しは晴れる筈。
 フィアスは真紅のソファに腰かけて、何やら電話をしていた。相手は誰だろう、と考えるより先に本郷真一だと分かる。というか、フィアスが本郷真一以外の人間に電話をかけているところを見たことがない。
 フィアスは相変わらずコンピューターみたいな冷徹な表情で、淡々と話をする。この人、仕事以外の電話はしないのかしら、と凛は思う。彩がいなくなった後、毎晩のように掛け合っていた自分とキョウヤみたいな、とりとめのない長電話を……たぶん、しないだろうな。
 凛が向いのソファに座ると、「凛が起きたみたいだ。またかけ直す」と言ってフィアスは突然電話を切ってしまった。そんな風だと今に友達がいなくなるわよ、と凛は思ったが、口には出さないでおく。
「気分はどうだ? 熱は?」
コンピューターの表情が少しばかり不安げに歪む。「大丈夫よ、下がったみたい」と返すと、フィアスは、そうか、と安堵した顔でかすかに笑った。それからすぐにテーブルに視線を落とし、何やら考え込んでしまったので、仕方なく凛も口を閉じる。
 沈黙、沈黙、沈黙。
 言葉の支配を免れた部屋で耳を澄ますと、遠くから船の汽笛が聞こえてきた。低いラッパのような音。
 それも数秒で部屋の中を通り過ぎる。
 時計の秒針。
 部屋の空調。
 二人の息づかい。
 あまりにも静かすぎて、どんな小さな音も耳に入る。
 相手の心臓の鼓動まで聞こえるかと思うほどの長い静寂の後、フィアスは口を開いた。
「話があるんだ」
「何よ……改まって。愛の告白?」
突然、凝固した部屋の空気に、冴えない気分のまま冗談を言ってみたが、案の定フィアスはぴくりとも笑わない。切れ長の青い瞳は真剣な眼差しで凛を見据えている。凛は背中がぞくぞくと鳥肌立つような感じがした。先程のイヤな感じは、このことの予知だったのかも知れない。じわじわと不安が覆っていく凛の顔を見て、フィアスは一瞬躊躇する素振りを見せたが、すぐに切り出した。
「少しの間、俺はリンのガードを外れる」
 ……ガードを外れる?
 凛は呆然としたまま首を振る。何を言っているのか分からない。
 フィアスはソファから立ち上がると凛の傍へ来て、腰をかがめる。まるで忠誠を誓う騎士みたいに。
 凛の目の高さに視線を合わせると、灰青色の瞳で真っ直ぐに凛の瞳を見つめた。迷いや油断の一切ない、強い光。
「信じてくれ。俺がいなくなっても、君を〈サイコ・ブレイン〉に触れさせない」
「ちょっと待ってよ……なんで突然、そんなの……納得できないわ」
ガードを外れる。それはつまり、フィアスがいなくなるということ。この横浜から。
 何故? どうして? 強い疑問が頭をもたげる。フィアスは目を伏せると眉間にしわを寄せ、悔しげに言葉を紡ぐ。
「どうしても行かなきゃいけないところがあるんだ。本当に、すまないと思ってる」
「あたしを、一人にしないで」
「一人じゃない。その間、真一と笹川のヤクザに君をガードさせる」
「違うっ! あたしが言いたいのは、そういうことじゃない!」
思わず怒鳴った拍子に、堪えていた涙がどんどん溢れだした。怒りと悲しみが渦巻いて、凛は唇を噛んだ。
「一人にしないで……!」
 初めから、凛の言葉の意味をフィアスは理解しているようだった。フィアスは眉間に皺を寄せたまま、辛抱強く凛の気が鎮まるのを待っている。その潔い態度は、凛が駄々をこねたところで、彼の決意が少しも揺らがないことを意味していた。どうにもならない。凛は両手で顔を抑える。ひとたび流れた落ちた涙は、自分でも止められない。どうすればいいの? 悪い予感は、早くも頭の中で残酷なイメージを描き出している。キョウと似た結末の、フィアスの最期。東京湾の波に浮いた無残な死体。
〈サイコ・ブレイン〉は必ず成し遂げる。
「リン、俺は……」
根拠のない否定の言葉は聞きたくない。凛は耳を抑えると、あらん限りの大声で叫んだ。
「あんただってきっと〈サイコ・ブレイン〉に殺されちゃうわ。キョウも彩も、みんなあたしの前からいなくなった。だから、あんただって……っ!」

ドーン。
突如、銃声のような音がした。

「やだ!」
 凛は顔をあげて真っ先にフィアスを見たが、撃たれた様子はない。絶妙のタイミングで銃声が聞こえたにしても、何が起こったのか分からない。彼にとってもこの音は予想外だったようで、凛と同じく驚いた表情で片手に銃を持ち、フィアスは音源のウィンドウを振り返る。

 ドーン。

 再び音がした。それも、たくさんの色鮮やかな火花と共に。
 赤や紫、黄色といったネオンライトのような光が一斉に二人を照らし出した。大きく花開いて、すぐに消える。消えたと思うと、また例の音がして、大きな花が咲き誇る。
「花火……」
銃声のような音の正体は色とりどりの大きな花。二人は暫く放心したように空中に飛散した火花を眺めていた。ホテルの二十二階からは花火がよく見えた。次から次へと打ちあがる……。
 金色のシャンデリアのような花火が一際大きく花開いて、第一幕が終了したようだった。かりそめの明かりが花と散って、辺りを暗闇が覆うと、フィアスは左手の銃を懐にしまい、立ちあがった。そのまま彼が部屋を出て行ってしまうような気がして、慌てて凛も席を立つ。
 待って! 行かないで! 
 言葉にならない凛の叫びを、その鋭い五感で彼は感じ取ったのだろうか、延ばしかけた凛の手を掴むと、フィアスは抱き寄せた。ワイシャツから漂う、煙草の乾いた匂いと、氷のように冷たい香水の匂い。フィアスの胸の中で、凛は目を閉じた。なんだか懐かしい。泣けてくる。この匂い、腕にこもった力、体温の温かさ。
 似ている、遠い昔に別れた大好きな人に。もう二度と会うことのない、あの人に。
 正宗……お父さん……。
「すぐに戻るから、泣かないでくれ」
〝すぐに戻るから、泣かないでくれ〟
 ああ、あの時も正宗はそう言ったわ。懐かしい言葉……だけれど、叶わなかった。あれから、二度と会う事なんてなかったもの。
 涙で滲んだ視界にフィアスの顔が在りし日の父親に一瞬かぶった。
 似ている。出会った時からずっと思っていたけれど、フィアスと正宗は、似ている。
「絶対に戻ってくる?」
凛が問いかけると、正宗の面影は消え去った。フィアスが強く頷いたからだ。もう一度強く抱き合うと、フィアスは凛の耳元で静かに告げた。
「一人にしない」



 午前零時、フィアスはホテルのラウンジに降り立った。深夜ともなると、ラウンジにいる人間の数も限られる。手っ取り早く宵を潰したい人間は自室で眠るか、八階にあるBARに行くためだ。
 ラウンジのソファには本郷真一が足を組んでうたた寝をしていた。その周りでは目つきの鋭い男たちが付かず離れずして忠実に若君を護衛している。
 フィアスが名前を呼ぶと、真一は大きな欠伸をしながら、寝ぼけ眼でフィアスを見た。
「待ちくたびれちまったぜ」
「ああ……、悪かったな」
フィアスが向かいのソファに腰かけると、真一は組んでいた足を解いた。前かがみに背中を丸め、眉をひそめる。
「それで、お前は本当に行くのか……ベーゼへ?」
「ああ。すぐに向かう」
真一は何か考えているようだった。少し間が開いて、
「凛は置いて行くんだな。どうするんだよ、お前がいない間に〈サイコ・ブレイン〉がやって来たら」
 フィアスの決断を非情だと思ったのか、怒ったように真一が言う。情に厚い真一でなくても、それはもっともな考え方だった。正論過ぎて、腹立たしい。自分だって、出来る事ならこのまま凛の傍にいたい。だが、そうもいかない。これはフィオリーナの命令なのだ。二日前、彼女に電話をしたときに言い渡された、問答無用の指令。ベーゼで、龍頭正宗に会う。
「龍頭凛が、〈サイコ・ブレイン〉に殺されるかも知れないんだぜ? それでもお前は行くんだな? 後悔することになるかも……」
「もう決まったことだ」
真一の言葉を遮ってフィアスは言う。
「リンが〈サイコ・ブレイン〉に殺される可能性はなくもない……だけど、フィオリーナが言っていたんだ。〈サイコ・ブレイン〉はリンを殺せない、と」
「〈サイコ・ブレイン〉は龍頭凛を殺せない? どうして?」
「理由は分からないが、俺はフィオリーナの言葉を信じようと思う。俺が戻るまで、きっと彼女は無事でいる……もちろんお前もな」
フィアスが左手を差し出す。真一がその手を掴むと、ぎゅっと握手を返された。銃のグリップの跡が焼きついているんじゃないかと思うくらいフィアスの左手はごつごつしていて、思わず真一は握手された自分の左手を見た。例えるなら、オオカミの硬い毛皮に触れたような、そんな感じ。
「リンを頼む……俺の代わりに、傍にいてやってくれ」
フィアスは席を立つと、ラウンジを後にした。