恐いくらい静かだ、初めにフィアスは思った。鬱屈とした森の中、鳥の鳴き声一つ聞こえず、風もないので木々もざわめかない。何も聞こえない。無音。静黙。この場所だけ時間が止まっているかのよう……否、どちらかと言えば死んでいるみたいだ。

 横浜から車を走らせて三時間ほど、ベーゼと呼ばれる施設はとある県の寒々とした樹海の中にあった。
 ベーゼの場所はフィオリーナが知っていたが、樹木に覆われた収容施設に人工衛星からの上空解析が届くはずもなく、一時間ばかり樹海の淵を彷徨わなければならなかった。地図にも載っていない。日本という小さな国で、ベーゼの存在が未だうやむやになっている理由はここにあるのだろう。
 フィアスは車のバックミラーでタイを結ぶ。フィオリーナがベーゼへアポイントを取る際に、検察庁の名を使ったのだ。今の自分は検察庁から派遣された、検察官ということになっている。ブラックスーツはいつもと変わらないが、シャツは血色の目立たないワインレッドではなく役人らしい白、おまけに普段は絶対に付けない黒タイまで結んでいる。きっちりとしたブラック&ホワイト。堅苦しい。検事というよりは葬儀屋みたいだ。いっそ葬儀屋でアポイントを取った方が自然だったんじゃないか、とフィアスは思う。
 BLOOD THIRSTYと葬儀屋、職務内容的にもあまり違いがない。
 車から降りると、フィアスは改めて収容施設を見渡した。ベーゼの外観は囚人が投獄されているとは思えないくらい清潔だった。周囲を覆う塀もなければ有刺鉄線も見えない。丸いドーム型の屋根が五つ連なって建てられ、どこも白く塗装されている。黒緑に覆われた森の中に白一色の近代的な建物。まるで自然と人工のパッチワークだ。ドームの側面には細い鉄筋が幾何学模様のように張り巡らされているが、それは円形屋根を支えるためだろう。野球場みたいだ。
 ベーゼの入口近くの壁に小さくバイオハザードの警告マークを見つけて、フィアスはこうも思う。
 または、化学工場か……。
 自動ドアが音もなく開くと、無菌状態を思わせる白い蛍光灯に色づけされたフロントに、若い女性が立っていた。フィアスも堅苦しいスーツだが、女性の方も黒で統一されたフォーマルなスーツを纏っている。年の程二十四、五だろうか。腰まである長い黒髪を後ろで一つに結わき、皮膚にナイフで切り込みを入れたかのような細い瞳が、流れるようにフィアスを捉えた。
「お待ちしておりました。貴方が検察庁から派遣された、武藤仁むとうじん様ですね」
女性は微かに微笑むような仕草をすると、滑らかな動作で受付を出た。相変わらず音がない、とフィアスは思う。それどころか、囚人の収容施設だというのにここには人間の生活臭がない。辺りを見渡しても、目に映るのは無菌状態の白色ばかりで、目に痛い。この違和感は、心に留めておいた方がいいだろう。ベーゼは国家の収容施設、という以外にも他の顔がありそうだ。
 女性の背後に続いてベーゼの奥へ足を踏み入れようとしたとき、背後から何者かの視線に気づいて、フィアスはそっと後ろを振り返る。もちろんベーゼの入口には誰の姿も見えない。
 実のところ、ベーゼに向かう前、横浜を出た辺りから誰かの視線は感じ続けていたのだが、フィアスは何事もないように無視していた。プロのにおいがする尾行の仕方だと思っていたが、なんとなく〈サイコ・ブレイン〉に関係する人間のものではないような気がしたのだ。そもそも〈サイコ・ブレイン〉は、尾行をしない。そういう組織だと思っている。増して、尾行の合間に、鋭い視線を投げかけるような攻撃的なことは絶対にないだろう。
 ストーカーの正体は同業者か、とフィアスは思った。ここ一年で〈サイコ・ブレイン〉以外の恨みを買った覚えはないが、過去の因縁ということもありうる。それならば脅威ではない。向こうから合図・・があった場合のみ、応えてやろうという心づもりでいる。
「武藤様、本日はどのようなご用件でお越しくださったのでしょうか? わたくし、詳しいことはうかがっておりませんの」
龍頭正宗の収容所に向かいながら女性が言う。
「〈3・7事件〉の遺族から、事件の概要を詳しく聞かせてほしいとの強い要望がありまして、当局総出で事件の洗い直しをしているのです」
フィオリーナとの打ち合わせの際に決められた設定をありのままにフィアスは告げる。妥当な理由付けだ。まあ、と特に何の感情もこもっていない女の相槌あいづちが前方から聞こえた。
「それは、容疑者のことにつきましても、ご遺族様にお伝えするということでしょうか?」
龍頭正宗の生存を世間に公表するのか、ということを聞きたいのだろう。そんなことになればベーゼの存在も一気に表沙汰になるだろうし、ベーゼに関係する人間にとっては少々厄介な問題も派生してくるのだろうと思う。
「それは上層部次第ですね。私は上司の命に従っているだけですから」
BLOOD THIRSTYの自分にも共通するような台詞を吐いて、フィアスは内心で溜息をついた。どの職業の人間でも、動くのは上司の命令次第だ。
 入口から五分ほど歩くと、ステンレス製のエレベーターに突き当たった。女性は下矢印のボタンを押す。この施設は地下にも根をはっているらしい。女性がB3のボタンを押すとエレベーターはひどくゆっくりとした走行で地下を降りてゆく。
「お気に触りましたらすみません。武藤様のお名前をお伺いしたときに、わたくしはてっきり黒い髪の方がお越しになると思っておりましたの。少々、意外でしたわ」
 確かに、偽名といえども日本人名では不自然のような気がしたが、急を要したので実際に検察庁に努めている人間の名を借りるしかなかったのだろう。今回は全てフィオリーナが手配したので、細かいことは自分にも分からない。この女性とも会うのは一度きりなので、適当な嘘を並べてフィアスはごまかした。
 それにしても、この受付嬢はよく喋る、とフィアスは思う。氷のように冷たい瞳からは何事に対しても無感動な人間の印象を受けたが、実際のところそうではないのかも知れない。どちらにしてもミステリアスな雰囲気の女性だ。
 エレベーターが止まると、またもや抗菌な廊下が見えた。地下だというのに仄暗い部分が一つもない。囚人の脱走を防止する目的にしてもやりすぎている。こんな場所に長くいたら目が痛くなりそうだ。長い廊下を歩きながら、またもや女性が話し出す素振りを見せたので、これ以上詮索されてはたまらない。
 フィアスは先手を打った。
不躾ぶしつけだったら申しわけない……私の方からも一つ、質問を宜しいですか?」
女性は微かにフィアスを見ると、すぐにまた前方に向き直る。
「何でしょう?」
「貴女は日本人ではありませんね」
女性は振り返らない。
「どうしてそう思われたのでしょう?」
ただ前方を歩きながら話を進める。やりにくいな、と思いながらフィアスは続けた。
「貴女はとても流暢な日本語を使いますが、言葉の端々にアクセントが不自然な部分がある。しかし、私とは違い、貴女はアジア圏の顔つきだ。出身は韓国ですか?」
 前方にステンレス製の頑強な扉が見えてきた。あの扉の向こうに龍頭正宗がいる。フィアスはタイをわずかに緩めると、小さくため息をついた。意識を全て扉に集中していたためか、前方にいる女性が小さな声で呟いたのをフィアスは聞き逃した――香港ですわ、武藤様。
女性が振り返る。腰まである漆黒の髪を揺らしながら。
 女性は扉の取っ手に手をかけ、ほほ笑んだ。
「お待たせいたしました。この扉の向こうが正宗様の面会室でございます」