「直樹、直樹! ねぇ、直樹ってば!!」
誰かが頬を叩いている。小さな白い手、香水の香る手、何回も重ね、繋ぎ合わせた手、アンナの右手だ。直樹は目を閉じたまま、その小さな手を握った。
ああ、もう朝なのだろうか。昨日の夜、花火をした後にアンナを家まで送り届けるつもりだったが、何故かアンナが家には帰りたくないと言い出し、自分の家に招いた。そしてそのままイチャイチャしているうちに、自分は転寝をしてしまったらしい。
「ん……」
直樹が目を開けると、そこには心配そうな顔つきのアンナがいた。大きな目は涙をためながら直樹を見つめている。
「やっと起きた……」
アンナが安心したような顔をした。直樹はその頬を撫でる。
「ああ、ごめん。俺、うたたねしていたのかな。妙な夢を見ていた気がする……」
そう。あれは悪夢だ。黒ずくめの死神のような男と対峙していた夢……。死神に、命を狩られた。
「もう、朝か?」
「はぁ?」
穏やかに直樹は聞いたのだが、返ってきたのはアンナの素っ頓狂な声だった。
「直樹……アンタ大丈夫?」
「何が?」
「大岡川にバイクごと突っ込んだでしょうが!」
アンナの心配そうな顔が、直樹を変人でも見るような顔に変わっている。
「何寝ぼけてんの!?」
アンナに無理矢理抱き起こされ、直樹は上体を起こした。幾分か眩暈がしたので、首を振って元に戻る。そして、曖昧な夢からも一気に目が覚めた。
アンナの後ろで、金の髪に青い目、黒いスーツに身を包んだ男が呆れ顔で直樹を見ていたのである。そう、悪夢が具現化したようなあの男だ。あれは、夢の中の出来事ではなかったのだ。
「う、うわああああ!」
あらん限りの大音量で悲鳴を上げて、直樹は後ずさる。全て、思い出した。自分はこの男の銃弾を受けて、大岡川の水底に沈んだのだった。
「やっと目が覚めたか。いつまで待たせる気だ」
男が苛々した声で言った。腕につけた時計に目をやる。
「たかが川に落ちたくらいで、三十分以上気絶している奴があるか」
ちっと舌打ちして男は煙草に火をつけた。白い煙が藍色の空に立ち上っていく。
「半分は、フィアスのせいだろ」
男のものではない低い声が、まだ後ずさっている直樹の耳に届いた。死神男よりも高くて威勢の良い男の声。直樹が辺りを見回すと、男のすぐ隣にもう一人の男が立っていた。
 坊主に近いくらいに刈った短い髪の毛を濃い金髪に染めた男。隣のスーツの男とは違い、目が黒い。言うまでもなく、日本人だ。昇り龍の刺繍が施された青いスカジャンに、迷彩色のズボンという派手な上下、直樹の目線からコンバースのカーキ色のスニーカーを履いているのが見えた。年齢は直樹よりも一、二歳上の二十代前半だ。苦笑しながら、この場から逃げ出そうとしている直樹を見ていた。
「大丈夫か、直樹?」
「ま、真一さん……」
直樹は、半泣きの目をこすって男を見た。半年振りに見る「何でも屋」、本郷真一ほんごうまいちの姿に全てのことを忘れて驚いた。
「ま、ま、真一さーんっ!」
直樹はすっくと立ち上がり、川に飛び込んだせいでびちゃびちゃになったジャージの上下を引きすりながら真一の元へと駆け寄った。何故、ここに真一の姿があるのかは分からなかったが、嬉しいことには変わりない。
「お久しぶりです!」
「おう、直樹。元気だったか?」
「そりゃあもう……!」
笑いながら真一と話しをする直樹だったが、ふと目をそらした瞬間、隣にいる男の姿が目に飛び込んできて、直樹は慌てて真一の背後に回りこんだ。
「ままま真一さん、コイツヤバイっすよ!」
盾にされた真一は苦笑している。直樹はアンナを手で招いて呼んだが、アンナは目を吊り上げて、直樹を睨むとフン! と鼻を鳴らしそっぽを向いた。
「直樹ビビリすぎ! 超カッコ悪い!」
アンナが明後日の方向を向いたまま言い放つ。その目には冷たい温度と呆れが浮かんでいる。直樹の情けない姿に、ほとほと絶望したようだった。
「だ、だってコイツ、拳銃で俺を……」
「直樹が悪いんでしょ! バイクなんかで轢き殺そうとするから!」
言い訳をした途端、アンナからの猛攻撃。真一の背後に身を隠しながら、直樹はしゅんと小さくなった。
直樹は昔から、人に怒られるのは苦手なのだ。そんな直樹を可哀相に思ったのか、真一は「お前もお前だ」と男を指差した。
「フィアスも悪いじゃねえか。あのまま放っておいたら、コイツ、大岡川の底で死ぬところだったんだぜ」
「だから、そうなる前に助け出しただろうが」
男が悪びれもせず答えた。どうやら、直樹を川から引っ張りあげてくれたのは、この男のようだ。見れば、直樹ほどではないが、男も腰辺りまで水に濡れている。
「とんだ茶番だ」
吐き捨てるようにそう言うと、男は煙草を地面に落とし、すり潰した。
「抵抗せずに、従っていればいいものを……」
男が直樹を睨みつける。直樹の体は恐怖に震えたが、わざとくしゃみをして、寒さのために震えているのだということをアピールしておいた。多分、アンナのために。
だが、そのアンナはキラキラと輝いた顔で、男の方を見ている。
「ごめんなさい。バカ直樹が超アホなことやっちゃって……」
アンナが直樹の変わりに男に頭を下げる。
おい、バカとアホはないだろう。仮にも「美麗」の二代目総長だぞ、俺は――直樹はそう思ったが、口に出して言える状況ではなかった。
「あの、怪我はないですかぁ~?」
語尾を猫なで声にしてアンナが男に尋ねる。媚びるような上目づかいも忘れない。
これはアンナが男を仕留めようとする時の戦略だった。直樹もこの可愛い声が好きで、総長の立場を利用し、アンナをモノにしたのだ。
付き合ってまだ一ヶ月だというのに、なんて変わり身の早い女だろう。世の女共は皆こんなものなのだろうか……。
「まあな」
ぶっきらぼうな声でそう答えて、男は直樹に詰め寄った。その間アンナには見向きもしなかったので、直樹はいささか安心したものの、男の鋭利な目に睨まれて安堵してもいられなくなった。
「大丈夫だ、直樹。コイツ……フィアスは俺の友達さ。ちょっと気性が荒いが、いいヤツだぜ」
真一が苦笑しながらその男――フィアスと呼ばれた外国人を指差したが、直樹は安心できるはずもない。ついさっき、この男に拳銃を向けられたのだ。
撃たれたのはバイクの前輪だったから良かったものの、少しでも狙いを外していれば今頃、直樹の健康的な体に穴ぼこが一つ開いていたかもしれないのだ。

「リーダーのお前に聞きたいことがある。〈ドラゴンヘッド〉についてだ」
唐突にフィアスが切り出した。
…………〈ドラゴンヘッド〉?
いきなりの質問に直樹が口ごもっていると、フィアスが苛々した口調で知っているのか? それとも知らないのか? と催促する。直樹は震えた。
「え、えーと……〈ドラゴンヘッド〉、〈ドラゴンヘッド〉」
頭をフル回転させて、〈ドラゴンヘッド〉という単語に関係あるものを導き出そうとする。どこかで聞いたことのある名前なのだが、しかし中々思い出せない。しどろもどろな直樹を見てフィアスは舌打ちした。
「知ってるのか知らないのか、はっきりしろ!」
恐ろしい。完全に痺れを切らしている。今にも拳銃を取り出して発砲しそうな雰囲気だ。まあまあ、と真一がフィアスをなだめなかったら今頃銃を向けられていただろう。
「ああ、俺たちは今ある事件について捜査中なんだ。この辺りの暴走族の兄ちゃん達に、片っ端から聞き込みしてるんだけどな、直樹の〈美麗〉がこの河川敷にいるってことを聞いて、来たわけ」
苛々しているフィアスの代弁をするように、真一が事の成り行きを説明する。
「〈ドラゴンヘッド〉は、〈美麗〉と同じように族の名前だよ。二十年くらい前にこの辺で走り回っていた奴らなんだけど、何か知らないか? 些細なことでも、なんでもいい」
「は、はあ……」
真一の言葉で直樹は少し思い出した。〈ドラゴンヘッド〉とはチームの名称だ。かつて伝説と呼ばれた、横浜が誇る最強の暴走族軍団。
――直樹、〈美麗〉を〈ドラゴンヘッド〉のようなすっげぇチームに作り上げてくれよ。それが俺の願いだ――
「哲司さんが、〈ドラゴンヘッド〉について知っているかも……」
直樹に〈ドラゴンヘッド〉という言葉を仄めかしたのは前総長、哲司さんだった。
哲司さんは古風を大切にする人で、何色にも染まっていないリーゼントに〈砂羅舞烈吐サラブレット・美麗〉との文字が刺繍された白の特攻服をはためかせ、バイクに跨っていた。その日――哲司さんが族を抜けなくてはならなくなった日も、トップクにリーゼント姿で、直樹にそう言い残して去っていったのだった。
「哲司ってのは、確か前の総長だった奴だよな。なんかこう……いかにも・・・・ってカッコしたヤンキー」
真一が言う。
直樹は、はいと頷いた。
「そいつに連絡取れないか?」
「ええっ!? 哲司さん、傷害事件起こして今鑑別所っすよ」
「そこを何とか」
「無理っすよ。携帯電話も没収されていると思うし」
哲司さんにコンタクトを取る手段がないことを知ると、真一は肩を落とした。
「残念だったな」
真一はフィアスを見る。その言葉はフィアスに向けられているようだった。フィアスはフンと微かに鼻を鳴らすと、挨拶もなしに去っていってしまう。
真一はその背中を見送りながら、肩をすくめた。
「直樹、俺らが今聞いたことは忘れてくれ。〈ドラゴンヘッド〉について調べようとしなくていいからな」
真一が直樹に念を押した。探究心のある直樹を知ってこその忠告だ。〈ドラゴンヘッド〉を調べた先に、何か悪いことが待ち受けているのだろうか。調べなくていい、と言われると調べてみたくなるのが人間の心理だったが、あの真一が念を押して言うからには、本当に嗅ぎまわると危険なのだろう。
「まあ、人づてに〈ドラゴンヘッド〉を聞くことがあったら、俺に連絡してくれ……もちろん、仕事の依頼も大歓迎だぜ」
真一がにっと笑い、直樹の背中をぽんぽんと二回叩いて背を向けた。
「じゃあな。彼女と仲良くやれよ」
真一はフィアスの後を追いかけ、闇の中へと姿を消した。
直樹とアンナは暫く、静まり返った河川敷に呆然と突っ立ったまま、二人が消えていった先を見つめていた。微かな光も見えない闇の淵。そこには言い知れない恐怖が、どっかりと大きな腰を下ろして待っているような気がした。
「直樹……」
アンナが傍へ寄ってきて直樹の手を繋ぐ。
「帰ろう」
アンナの言葉に直樹は頷いた。アンナの手をぎゅっと握り返した。ここにいても仕方がない。とりあえず、今日のところは引き上げだ。
しかし、直樹はあることに気づいた。今の騒ぎで忘れかけていた、とても重大なことだ。
「……俺のバイク……川ン中じゃん」

帰れない。

アンナがぱっと直樹の手を離した。