ライターがしけっていて中々火が灯らなかったこともあり、場内が明るくなるのに一分弱の時間を有した。火が灯ったとき、隣にいるアンナは直樹の腕をぎゅっと握って、少し体を仰け反らせていた。ホラー映画を見るときのような態勢だ。
汗臭いオヤジが倒れているのを見るのはなんとも思わないが、美形な外人が変わり果てた姿になっているのを見るのは少し度胸がいるようだ。
白煙をあげながら花火が辺りを照らし出す。
「う、うそ!」
直樹は思わず叫んでいた。
何であの男が少しも体勢を変えず、そこに立っているのだ!? 男の体には殴られたり、蹴られたりした痕跡は愚か、服の乱れもない。
唯一、先ほどまでと違ったところは、その男の口には焦げ茶色の煙草が銜えられていることだった。顔は至って無表情。煙草の独特な白煙が男の周りを取り巻いている。男は、口から煙草の煙を吐き出した。そして左手に挟んだ煙草を、大岡川の方向に差す。煙草の先を目で追って、直樹はまた仰天した。
 川には先ほどまで男を取り巻いていた部下四人が浮いていた。全員ピクリとも動かない。ただ、風呂場にあるアヒルの玩具のように、波と風に上下左右に揺られている。
これは、どういうことだ……?
男が一仕事終えた後のように、スーツの肩口の埃を払うしぐさをした。シャツの襟の部分も軽く整える。そして直樹の方を向いて、
「気絶しているだけだ。命に別状はない」
さらに口の端を吊り上げて微かな笑みを見せて、
「……うつ伏せで川に浮いている奴は知らんが」
その一言に脱兎の如く、川の近くにいた部下が四人を引き上げに向かった。シンとした空間に、じゃばじゃばと部下の立てる波音が直樹の心を掻き乱す。
この男がやったっていうのか!?嘘だ……だって、暗闇だった時間は一分もなかったはずだろ?
直樹の動揺を感じ取ったのか、男はきっぱりと言った。
「俺の言うことに従え。さもなくば、十分以内にお前たちを全員、川に捨てる」
 場内の空気が凍りついた。五分前の、緩い空気とは全く逆。部下達の余裕の笑みは絶え、あるのはただ怯えと恐怖、ライオンでも見るような顔つきで男を見ている。
一瞬間の静寂の後、悲鳴をあげながら部下の三分の二が凄まじい勢いで踵を返し、男から逃げた。部下の背中を目で追いながら直樹は、総長が哲司さんだった頃は、いくら相手が強くてもこんなに大人数が逃げ出すことはなかったんだけどなぁ、と舌を巻いていた。新・総長の力不足が垣間見えた瞬間だ。目頭に熱いものがこみ上げる。
 男は逃げ出した部下には目もくれずに、スタスタと早足で直樹の方へと足を向けた。ライオンが獲物を狙うとき、前足を折り曲げて足音を隠すと聞いたことがあったが、それと同様に男の靴音も聞こえてこない。
三分の一になった部下のさらに二分の一が、男の取った行動に危機感を感じて逃げたが、「美麗」の中には血気盛んな連中もいて、自分の得物である木刀や鉄パイプを振りかざし男に突進した。
「ざけんなや、こらぁーっ!」
血の気の多い部下が八人、特攻隊のように風を切って男に向かっていく。が、男は目にも留まらぬ速さで、一番最初に襲い掛かってきた部下を殴り倒して木刀を奪い、他の七人に切りつけた。
その間わずか十秒足らず。正確に人体の急所を突かれた七人は呻きながら地面にうずくまる。
刀を片手にした男の足元に転がる八人の部下達……まるで時代劇のワンシーンである。
男は微かに血のついた木刀の茎あたりを眺め、
「こんな所に、まだサムライの血が流れているのか」
いかにも国外の人間らしいことを言った。
今までの声より、やや音程が高い。感心しているようだった。後先考えなく飛び出した部下に「潔く散る」武士道精神でも感じたのだろうか。
「刀という武器は……難しいな」
木刀さばきも無駄なく完璧だったのに、男は首を捻る。あっさりと木刀を足元に捨てると、男は直樹を睨んだ。
既に花火は消え、あたりは闇に包まれていたが、暗闇になれた直樹の目はぼんやりとだがその男の姿を捉えることが出来た。闇の中で、男の青い瞳がサファイアのように暗く底光りをしている。
「俺も忙しい、そろそろ遊びは終わりだ」
男のその一言に隣にいるアンナがびくっと肩を震わせた。化け物でも見るような顔で男を見ている。
ただ、恐怖の張り付いた顔でも、アンナの瞳が少し熱を帯びたようになっているのは気のせいだろうか……いいや、それは見間違えではない。なんて浮気な女だ!これではまるで、自分がヒロインをさらっている悪役のようではないか。
「お前、ちょっとどいてろっ!」
直樹は隣で、バイクに腰掛けていたアンナを強引にバイクから降ろした。突きとばされる形で、バイクから降ろされたアンナは、どすんと地面に尻餅をついた。直樹は109で買った洋服が入ったピンクの紙袋もその場に捨てる。
「ちょっと、直樹っ!?」
アンナが憤慨ふんがいの声をあげるが、直樹は呼応しなかった。嫌われたかもしれないが、まあいい。女など世に腐るほどいる。
「随分とナメた真似してくれるじゃねーかよ!もう容赦しねぇぞテメェ」
バイクの取っ手を捻ると、たちどころに唸り声をあげて、直樹の400ccの馬が命を吹き込まれた。スクリーン部分に取り付けられたカーライトも同時について、男を照らす。
ヘッドライトに照らされて、男は少しばかり目を細めた。
「轢き殺してやるッ!!」
バイクの騒音に負けないくらいの大きな声で直樹は言った。
もう、堪忍袋の緒が切れた。殺人は犯したことがないが、やってやろうじゃないか。怒りが直樹を奮い立たせる。
 顔を真っ赤にした直樹とは対照的に男は平穏である。自身の危機のくせに、ちっとも焦っていない。それどころか、手に付けたロレックスの時計に目をやり、時間などを確認している。
もう零時三十分か、と呟いてから男は、
「やめた方がいいと思うぞ」
「ウルセー! 好き勝手やっておいて今更命乞いなんて遅ぇんだよっ!」
「いや、そうじゃなくてお前が……」
直樹は、男の言うことを最後まで聞かずにバイクを発進させた。すぐ後ろではアンナが顔を青くしている。
「マジやめなよ直樹! アンタ犯罪者になるよっ!」
アンナの悲鳴に似た警告を無視し、直樹のバイクは風を切って男に突進した。犯罪者になろうが、この男が死のうが知ったことか。直樹は堕落だらくした総長の威厳を取り戻すことで頭が一杯だった。
「死ね!」
一段とバイクの速度を速める。轢き殺すからには一発で仕留めないと後味が悪い。
 遠くからアンナの叫び声が聞こえるが、直樹はアンナの方を振り返らなかった。男は逃げ惑うこともせず、その場に突っ立ったまま直樹を見据えていた。足がすくんでしまったのかと直樹は思ったが、男の顔は無表情から変わっていない。いや、少し疲れた顔をしている。
ため息を一つ吐くような動作をすると、男は懐からあるモノを取り出した。
バイクの光に照らされて男の手に握られたそれが、ギラリと銀に輝く。
拳銃。
間違いない、大きな銀色の拳銃が男の手に握られていた。男はそれを躊躇いもなく直樹に向ける。
銃口の黒い穴が直樹を捕らえた。
「こっ、殺される……!」
直樹は悲鳴を上げるがもう遅い。男はすぐ目の前だ。絶対に的は外さないだろうというくらいの至近距離まできてしまった。
『死ぬのはお前の方だ』
バン! という鋭い銃声の音と共に、こう男が呟いたような気がした。


ピシっ!
銃弾が一発直樹に当たった。どこに当たったのか、当の直樹にも分からなかったが、確かに銃弾を受けたような衝撃が走ったのだ。
「う、うわあああぁ!」
あらん限りの声で直樹は絶叫する。死というものの存在が体中を侵食する。
感じたことのない、未だかつてない恐怖だった。
ギャギャギャギャギャーーー!
物凄い爆音を発してバイクの前輪が弾けた。パンクだ。前輪に来たした異状により、後輪もバランスを崩す。勢い余ったバイクは、男のすぐ横を通り抜け、あろうことか大岡川に突っ込んでしまった。直樹もバイクから振り落とされて、川に頭から突っ込んだ。
ざっぱーん!
激しい水しぶきの音と共に直樹の体は大岡川の底へと沈んでいった……。