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 果てのない暗闇の中で誰かに名前を呼ばれた気がして、彼は深夜に眼を覚ました。その瞬間から、分かっているのだ。自分は夢を見ていたのだと。隣には小麗シャオレイしかいないのだと。半円型の大きなベッドの上、小麗は彼を抱きかかえるようにしてすやすやと眠っている。小麗のむき出しの肩に月の光がさして、彼は起き上がり様、彼女に毛布をかけてあげる。月の光を浴びて、小麗の美しい寝顔がよく映える。この女と出会ったのはいつのことだろうか。彼は考える。
 確か、「東洋の魔窟」と恐れられていた九龍城砦が解体した直後だったと記憶している。イギリス政府による、二十世紀最後の大がかりな住民移動の際に、両親と離れ離れになったのか、それとも見捨てられたのか分からない。とにかく雑多な人込みの中で、小麗が膝を抱えて泣いていたのだ。
 彼女を引き取ってから、二十年余り、今では小麗の方が背も高い。
 彼は目を細め、小麗の頬を撫でる。途端、弾かれたように小麗が目を覚ました。長い髪の毛を振り乱して辺りを見回す。小麗は無意識のうちに傍にあった小刀を掴んでおり、彼は自分の軍事教育が見事な成果をあげていることを知る。
 小麗は彼の姿を見止めると、肩をなでおろした。
「起こしてしまったようだね。こんな危ないもの、いつまでも持っていてはいけないよ」
彼は微笑みながら、小刀を取り上げる。小麗は泣きそうな顔で微笑むと、長い身体を綺麗にくねらせて、彼を抱きしめた。彼女の身体を覆っていたシーツが床に落ち、小麗は生まれたときそのままの、一糸まとわぬ姿になる。
「恐しい夢を見ました……幼い頃の夢を……」
小麗は彼の首筋に顔を埋め、目を閉じる。親のように長い間共に暮らしていた彼の身体に触れると安心するのだ。いつだって彼は揺るぎない。小麗は心が落ち着くまでじっとしたまま、彼の身体から離れなかった。
「あなたは、眠れないのですか?」
小麗が問うてきたのは、全身の冷や汗が外気にさらされ、すっかり乾ききった頃だ。
「ああ、興奮で眠れなくてね」
「コウフン?」
 彼は含み笑いを漏らすと、そろりとベッドから滑り降りる。長いローブを身に纏うと、そのまま部屋の隅に歩いて行く。彼らの眠っている、名もないビルの60階は壁一面がガラス張りになっているのだ。ガラスの外側では美しい横浜の夜景が海の上を走る夜光虫のように、小さな粒となって浮いている。彼は窓ガラスに左手を添えると、宝石のように散らばるそれらを見下ろした。まるでおもちゃ箱を覗き込む少年のよう。
 小麗は彼の傍に行き、背後からそっと抱き締める。彼は小麗よりずっと小さい。出会った頃は、山のように大きく見えた彼も、今では幼い子供のようだ。
「何をご覧になっているの?」
小麗は聞く。
 彼はふふ、とひめやかに笑うと小さな声で呟いた。
「彼らを探しているんだよ。この夜景のどこかで、お姫様が泣いていると思うと、嬉しくてね」
「お姫様?」
一瞬誰のことか分からず、小麗は返答に逡巡したが、やがてある女性に行き当たり、思わず独りごちる。
「龍頭……凛」
そんな小麗の呟きを聞いて、彼は益々笑みを深くする。
「さて、そんなお姫様を見た騎士ナイトはどんな気持ちでいるだろう?」

 彼の眼はネオンライトの海の中で怪しく底光りを始めた。
 まるで血のように、彼の瞳は赤かった。