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 AM2時きっかりに、フィオリーナ・ディヴァーは目を覚ました。真っ暗な闇の底からいきなり腕をつかまれて引っ張り出されたような、突然の目覚めだった。
 アルミ金属で出来た特殊なベッドから上体を起こし、部屋のカーテンを開ける。華々しいネオンライトとともに、63階建てのビルの最上階から見えるNYの絶景が飛び込んでくる。「100万ドルの夜景」とはよく例えたものだ。大小さまざまなビルを目下にしながら、フィオリーナは肌の上に、足首まで丈のあるロング・カーディガンを羽織った。無意識に腰まで伸ばしたブロンドを掻き揚げる。
 その足で寝室を後にすると、リビングにあるクローゼット大の3段式ワインセラーへと向かう。このワインセラーは特注品で、甘口から辛口、白ワインや赤ワインまで段ごとに、それぞれにあった温度設定をすることが可能になっている。フィオリーナは一番上の段からシャトー・マルゴー1990を取り出すと、グラスに注ぎ一口、口をつけた。柔らかく、濃厚な味が喉を掠め、初めて自分は喉が渇いているということを知った。
 そして、胸騒ぎがしているということも。
 渾沌としているが、確かに心の奥底から湧きあがっているこの不安感。それは、自分の第六感が何者かの存在を感じ取っているからだ。ずっと遠く、海を越える向こう側に。破壊願望の塊であり、モラルというものが一切なく、人を貶めること、殺めることを少しも厭わない、邪悪な者の存在を。
(眠れる獅子が目覚めた……)
 3分の2までワインを飲んだところで、グラスをテーブルに置く。
 真紅に揺れるワイングラスをそのままに、フィオリーナは自室のドアを開けると自分専用のエレベーターに乗り込んだ。躊躇もなく、「39」のボタンを押すと、エレベーターが微かに振動して、通常のものよりも少し速く落下し始める。
 豆粒のように見えていた足元の夜景が、少し大きな光の球に見え始めたころ、エレベーターは再び揺れて止まった。扉の上に表示されている1~63のボタンの39に橙の明かりが灯っている。
 漆の塗られた木材の扉が両側に開くと、フィオリーナの自室と同じような間のとり方をされた部屋が目の前に広がった。ただし、あちらこちらに筋トレ用のレーサースピンバイクやフラットベンチがあたかもインテリアのように配置され、部屋の中央には原寸大のボクシングリングがあることを除けば、だが。
 部屋の奥からは微かに金属の軋む音が聞こえている。荒い息づかいも一定の間隔で聞こえてくる。こんな深夜に一人筋トレに勤しむ男は、知る限り一人しかいない。
 フィオリーナが部屋の奥へと足を向けると、そこにはトレーニングベンチに寝そべってバーベルを機械的に上げ下げしているシド・バレンシアの姿があった。2m級の巨漢であるシドが扱うベンチはW170の特注品であり、バーベルの輪の部分にも60kgとの数字が振ってある。鍛え抜かれた屈強な肉体が汗と天井の照明で光っていた。
「シド」
 気配もないままにシドに近寄り、声を掛けたことが彼を驚かせたらしい。シドは危うく総計120kgのバーベルを床に落としそうになったが、どうにか持ちこたえた。肩で息をつくシドに、フィオリーナは頭を下げた。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「いや、大丈夫だ。人の気配に気づかないとは、俺もまだまだだってことさ。……否、貴方だからこそ気づかなかったのかも知れんが」
シドはベンチから上体を起こすと汗を拭う。そして、少し訝しんだ様子でフィオリーナに尋ねた。
「しかし、貴女がここに来るとは珍しい。何かあったのか?」
フィオリーナは頷く。
「彼が動き始めました」
〝彼〟という言葉を聞いて、シドはワインレッドの瞳を大きく見開いた。額から吹き出た汗が頬を滴って、床に付着する。十秒程シドはまじまじとフィオリーナの顔を見つめた。そしてゆっくりと、確認するかのように言葉を発した。
「彼とは……やはり、アイツのことか?」
「他に誰がいると言うのです?」
シドはふむ、と唸ると立ち上がる。そして自分よりは40cm以上背の低いフィオリーナを見つめた。ブルーヒューの輝きを放つ、一点の曇りすら見当たらない清らなる瞳。落ち着き払った表情もいつもと変わりないが、それでも平生のフィオリーナとは少し様子が違うように、シドには思えた。わずか――ごくわずかだが、彼女の心は不安に揺れている。
「一寸、待っててくれ。シャワーを浴びてきてもいいか?」
稀に見る彼女の感情のぶれに、掛ける言葉が思いつかなかったシドは、一端その場から退いた。


 フィオリーナの自室で、彼女は静かにリビングのソファーに腰掛けた。それに習ってシドも真向かいのソファーに腰を掛ける。
 部屋の時計は短針が2から3へと傾き始めている。無音の部屋に、静かに秒針の音が鳴る。フィオリーナはテーブルに置かれていたワインボトルを軽く持ち上げた。
「オールド・ヴィンテージと名高い、シャトー・マルゴー1990です。いかがですか?」
「いや、遠慮しておこう。俺のオールド・ヴィンテージはいつでも故郷のテキーラなもんでね」
フィオリーナは微かに微笑むとワインボトルをテーブルに戻した。ボトルの底から浮上した4,5個の気泡が窓の外に見えるNYの夜景に溶け込むように消えていく。フィオリーナはしばらく窓の外に目をやっていたが、やがて静かに話し出した。
「先ほど、渾沌とした闇の中で何十年も前の夢・・・・・・・を見ました。私がドイツにいた頃の夢です。照明のおびただしい研究所で、共に苦難を分かち合ったあの人の顔が一瞬、はっきりと映りました。は無邪気に笑っていましたが、夢の中で私は言い知れない恐怖を感じました。夢自体は脈絡もないものでしたが、私には分かります」
フィオリーナは真摯な眼差しでシドを強く見据えた。
「〈サイコ・ブレイン〉が動き始めました。のちに組織を挙げて、BLOOD THIRSTY我々と全面戦争に出るつもりです」
日本に身を潜めている組織〈サイコ・ブレイン〉が初めて表に姿を現し、渾身の力を以ってBLOOD THIRSTYを潰そうとしている。
「いつかそのような事態が発生するだろうと貴女は言っていたが……№2の行動が火種になったのか?」
「きっかけを生んだのは、フィアスに与えたミッションに他なりませんが、以前から〈サイコ・ブレイン〉は我々と接触する機会を伺っていました。我々と手を組みたいのか亡き者にしたいのかが不明な所でしたが……しかし、今なら分かります。〈サイコ・ブレイン〉は、はっきりとした敵意を抱いています」
〈サイコ・ブレイン〉の敵であった本郷真一をBLOOD THIRSTYが保護したことで相手側から敵と見なされたのか、それとも元から彼らはBLOOD THIRSTYを敵と見なしていたのか、今となっては些細なことである。
「№2は大丈夫なのか?〈サイコ・ブレイン〉が真っ先に手を出すとしたら、まずは奴だろう?」
〈サイコ・ブレイン〉の一番手近にいるBLOOD THIRSTYであり、本郷真一の海外逃亡の手助けをした№2のフィアスは、〈サイコ・ブレイン〉が今一番憎んでいる相手だ。何より、かつて組織から逃げ出してきた龍頭彩との関係もある。
「〈サイコ・ブレイン〉の力は驚異的ですが、私はフィアスをそれほど懸念けんにょしていません。むしろ私が気にかかっているのは、本郷さんです。フィアスが一筋縄では倒せないと分かると、〈サイコ・ブレイン〉は本郷さんを狙ってくるはずです」
「またしてもホンゴウマイチをガードしなければならなくなるということか」
 これでは一年前のミッションに逆戻りだ。〈サイコ・ブレイン〉の上部の人間は、表だった戦いに絶対に顔を出さない。本郷真一を狙うのは幹部以下の、使い捨て同然の駒ばかりだ。現に一年前、真一を襲った刺客を生け捕りにした時も、彼らは〈サイコ・ブレイン〉の内情を一切知らなかった。
 こうなると重要な手がかりも掴めないまま、〈サイコ・ブレイン〉の歩兵との攻防戦が繰り返されるだけ。言わば戦いの堂々巡りだ。
 しばらくの沈黙の後、フィオリーナが口を開いた。
「我々も日本に赴かなければなりません。しかし、まだ時期が早すぎます。我々が日本にいることが彼に知れたら、〈サイコ・ブレイン〉はこれまで以上に慎重に行動するようになるでしょう。そうなると彼が表舞台に姿を現すことすら、難しくなる……もう少し様子を伺って、タイミングを見極めねばなりません」
それに……、と呟いて、フィオリーナは口をつぐむ。無表情を保っていた表情が少しだけ悲しげに歪む。BLOOD THIRSTYを牛耳る者の僅かに示した負の感情に、シドはまたしても何も言えなかった。
 いつもなら一切の私情を挟まず淡々と職務をこなしていく彼女が、今夜はややナーバスになっている。それは何故だろうか。シドには予想もつかない。
 フィオリーナは3分の1程赤い液体の入っていたワイングラスを持ち上げると上品な手つきで飲み干した。一息ついて話し出す。
「龍頭彩の殺害から始まったこの一連の事件は不思議です。あらゆる所で、様々な人間同士が繋がっている。まるで神に手引きされたかのように、〈サイコ・ブレイン〉に関連のある者たちが一堂に介し、動いている。私はこれほどまでに運命を意識した事件に出会ったことはありません。勿論、私が手を引いた所もなきにしもあらずですが、今や私でも知り得なかったコネクションが全容を現しつつあります」
 コネクション……。シドはつぶやく。
 №2であるフィアスは殺害された龍頭彩の元・恋人。
 そのフィアスにガードの依頼を申し込んだ本郷真一は〈サイコ・ブレイン〉に命を狙われていた。
 本郷真一の情報網の中に、龍頭彩の父親の所属していたチームの手がかりがあった。
 ここまでは、フィオリーナの把握するコネクションだ。だからこそ、巧みな誘導術を用いて〈サイコ・ブレイン〉に被害を受けた二人を「打倒・〈サイコ・ブレイン〉」の駒へと仕立て上げた。本郷真一はともかくも、フィアスに至っては五年前、龍頭彩が〈サイコ・ブレイン〉に殺された瞬間から、もうこの運命は決定づけられていたといっても過言ではない。全く、フィオリーナの人を御するやり方には舌を巻く。まるで彼女そのものが「運命」であるかのように、どんな人間も思い通りに動かしてしまう。他者からの干渉や束縛を嫌うフィアスが、フィオリーナに畏怖の念を覚える最大の理由はここにあるのではないだろうか。
 そんなフィオリーナでも予想のつかなかったコネクションとは一体なんだろう。今のところ、彼女はこの状況を全て把握しているように思えるのだが。
「もし、神が今回の件に手を加えているのなら、他にも〈サイコ・ブレイン〉と、誰かしらの過去が繋がっているかも知れない。過去にその人間の人生をも変えてしまうような繋がりが、あったかも知れませんね」
ヒューの瞳を細め、フィオリーナは窓に視線を移した。その瞳には、全知得ている、老婆のような深みがあった。この世の哀歓を全て知り尽くした瞳。
 シドは、フィオリーナにはその繋がりとやらも全て知っているように思えた。現にシドも、〈サイコ・ブレイン〉によって人生を変えられてしまった人間なら、一人は思い当たる。
 
龍頭彩がそうだったではないか。

「とにかく」フィオリーナは言葉を続けた。
「とにかく、明日にでもフィアスに連絡を取りましょう。話はそれからです」