立てこもり事件


 結局、凛の唇の痕は内出血していた。それも、彼女がつけていたルージュのように真っ赤だ。色素の薄いフィアスの肌に、その毒々しいほど真っ赤な噛み痕は傷のように生々しく刻み込まれていた。自室の洗面台の鏡に自分の首を写して、フィアスは嘆息した。
 凛の胸の黒蝶が聖痕だとすれば、この首筋の痕は……
「呪いか」
執念深く付きまとって、一生消えなさそうに思えるところが恐かった。


 凛が姿を消してから次の日、フィアスはいつもより少しだけ神経を尖らせて、何でも屋へと向かった。アルミ質の階段を上り、同じ材質のドアを開ける。360度何でも屋の室内を見回すと、何のことはない、様々な珍品がひしめき合っているいつもの風景だった。今日も真一は部屋の一番奥にいた。事務椅子に王様のようにふんぞり返り、ハンドゲームに熱中している。それは以前茜に放り投げられ、バラバラに破壊されて生涯を終えたあのハードだった。また同じものを購入したらしい。微かな電子音が、室内のクーラーの作動音とともに耳に侵入する。
「……よぉ!」
暫くして人の気配に気づいた真一がフィアスを目に留めると片手を上げた。フィアスは軽く頷きを返すと、いつものソファーに座る。そこから頭上や足元に注意を払うが、やはり普段目にしている何でも屋と違いはない。
「昨日の今日だ。リンがいなくなってから、何か不審なことはなかったか?」
真一はゲームをする手を止めて、視線を宙に泳がせる。うーん、と唸ってから、首をかしげた。何を質問しているのか分からないといった表情だ。話の主旨がよくつかめていない真一に、フィアスは具体例を出す。
「前の歩道を行きかう人間の騒ぎ声が、やけに静かだったとか」
「別に」
「深夜、外で人の気配がした」
「ないね」
「部屋に薬品臭や刺激臭がする」
「なんだよそれ」
真一は困惑した顔で曖昧に笑うと、ゲームのスイッチを切って机の引き出しにしまった。フィアスと同じように、部屋中をキョロキョロ見回す。しかし、部屋の主である真一にも不審に思えるところはないようだ、また首を捻る。
「意味、分かんないんだけど」
やはり話の意図を掴めていない真一は、疑問符を浮かべた顔で後頭部をガシガシと掻くのみだ。真一なら、例え深夜に誰かが家に侵入してきても気づかないだろうな、とフィアスは思った。
「念のため、部屋を調べたいんだが」
「別にいいけど……〝念のため〟って何だよ?」
真一の質問に答えずに、フィアスは席を立つ。
そして、出口に足を向けた。ドアノブを捻り、開扉する。
「すぐに戻ってくる」
フィアスの背を見送りながら、真一は益々深く、首をひねっていた。


 それから20分も立たずにフィアスは戻ってきた。顔はいつも通り無表情。出て行った時と同じ格好だが、いち早く真一の目を引いたのは、左手に提げているナイロン生地のような柔らかい光沢を放つ鞄だった。カーキ色の四角形で、辺の部分に沿ってジッパーの金属線が敷かれている。鞄の側面にも3本のジッパーが取り付けられ、あちらこちらに携帯電話入れのようなポケットが付いていた。どことなく、釣り人の鞄というイメージがある。
 フィアスは鞄を自分の座っていたソファーの前の机に置く。鞄に取り付けられた一番長いジッパーを外すと、鞄の側面がぺラリと紙のように捲れる。そして、現れたのは、
「何だよ、それ」
黒い棒だった。四角い鞄の表面に対角線を引くようにしてしまわれている、長さ40cmほどの黒い棒。警棒に見えるが、それにしてはグリップが付いていないし、細い。代わりに、棒の先にはコードがついており鞄の奥に繋がっている――一見すれば、掃除機の延長コードみたいだ。
どうやら鞄の中に本体が隠されており、この棒はその端末機器のようである。
「気休めぐらいにしかならないが……」
なにやら独り言を呟きながら、フィアスは鞄に手を突っ込み、本体のスイッチを起動させる。そして端末を握った左手を左右に揺らしながら、端末を部屋のあちらこちらに漂わせる。まるで、電子棒が反応するところを見つけているかのように。
「それ、何かの探知機か?」
フィアスが真一の事務机に電子棒を当てたとき(反応はない)、椅子から立ち上がりながら真一は聞いた。
フィアスは頷く。
「Ion mobility spectrometer……イオン易動度分光測定式探知器」
「……もう一回」
「イオン易動度分光測定式探知器」
すらすらとややこしい専門用語を述べ、フィアスは向きを変える。天井や、物の影、クーラーの近くなど、抜け目ない。
「要するに、爆弾探知機だ」
爆弾!? と目を丸くして、真一は叫ぶ。
「俺ん家に爆弾あんのか?」
「まだ分からない。この部屋には反応がないが……次は外に出るぞ」
何でも屋を隅々まで調べまわり、ついでに半径5m内の敷地も調べ、イオン易動度分光測定式探知器がうんともすんとも言わないのを確認すると、やっとフィアスは鞄に端末をしまった。一仕事を終えたように息をつき、煙草を口に銜える。カチリと音がしてZippoのライターに灯がともった時には肩を震わせたものの、真一もふぅと息をついて事務椅子にふんぞり返った。
「爆弾、なくてよかったな」
安堵しきった真一の声に、フィアスは首を振る。
「まだ油断はできない。イオン易動度分光測定式探知器は、市販に売られている爆弾と幾つかのテロ爆弾しか感知できないんだ。〈サイコ・ブレイン〉の中に爆発物のスペシャリストがいたら、警察犬でも嗅ぎ付けられない程の精密な爆発物を作っているかもしれない」
「じゃあ、性能のいい爆弾だったら、そのイオンなんとかじゃあ分かんねぇのかよ?」
フィアスは溜息をついた。
「……だから、気休めだと言っただろ」
「えー」
真一は不満そうな声を上げる。しかし、すぐに椅子の背もたれに仰け反って、気だるそうに伸びをした。〝まあ、しょうがないか〟というような妥協を含んだ伸び。自分の店に爆弾が仕掛けられているかも知れないというのに、またもや他人事である。自分が死傷するかもしれないという危険性をちゃんと認識していないのか、それとも死を恐れていないのか。NYにいた時もそうだったが、どうもこの男には一般人とは一線を画した図太い神経がある。ファースト・コンタクトから今まで、1年ほど真一と共に仕事をしてきたが、未だにこの男の危険認識の度合を把握しきれていないフィアスだ。
「これから〈サイコ・ブレイン〉が何か仕掛けてくるかもしれない。暫く何でも屋から離れた方がいいかも知れないな……」
フィアスはぼそりと、独りごちたつもりだったのだが、
「嫌だ!」
真一はその提案に猛反対した。
「この店を手放すくらいなら、俺ぁこの店と一緒に吹っ飛ぶぜ」
断言して胸を張る真一。「無謀」と「かっこ良さ」を勘違いしているのか、やや誇らしげだ。益々、この男の考えが分からない。
「手放すんじゃない。暫くの間、店を閉めるだけだ」
「休業ってことか?」
「ああ」
「なら別にいいけど……どこへ身を隠すっていうんだ? 俺、この店以外頼れる場所がないぜ」
「あるじゃないか、ちゃんと」
フィアスが言うと、真一は、えっ? という顔で首をかしげた。数秒間脳に考えを張り巡らせたが答えが見つからず、顔をしかめる。
仕方がないので、フィアスは言った。
「笹川の邸宅だ。暫くそこに身を置け」
「……俺を、この店と一緒に吹っ飛ばさせてくれ」
そう言った真一は虚勢を張るでもなく、むしろ懇願するような感じだ。祖父である笹川毅一に世話になるくらいならこの店と命を共にするというのである。よほど笹川家が嫌なのか、その後も真一はフィアスが何か言おうとする度、頑なに首を横に振った。
「あの家に行ったら、ヤクザの棟梁にさせられちまう!」
「だがこのままここにいれば、敵に殺してくださいと言っているようなもんだぞ」
「極道に走るくらいなら、ここで殺されるのは本望だ!」
きっぱりと真一は断言する。どうあっても動かない、という事をアピールするためなのか、椅子に居直ると腕を組んだ。二つの黒い目は既に明後日の方向を向いている。ここまで拒否反応を取られると、フィアスは何も言えなかった。本人が嫌だと言っている以上、力ずくで笹川家に向かわせても何の解決にもならないし、そこまで手配してやるほど自分はお人好しでもない。
ここは時間の経過と共に、真一の考えが変わるのを待つしかなさそうだ。