She is


take a picture

 伸ばした手は、彼の左手に届かなかった。ゆるやかに宙を彷徨い、自分の元へ戻ってくる。悟られないよう、後ろ背に隠す。
 あどけない顔に笑みをたたえて、戻ってきた彼を迎える。
 彼の顔は日差しが逆光になっていて見えない。大きな手は、邪魔なガラクタを無理やり押し込んだように、両ポケットにしまわれている。
 本当は、手を繋ぎたかった。
 しかし、その望みが叶ったとしても幸せは訪れないことを彼女は知っていた。
 鋭い閃光がほとばしる。
 三脚台に設置されたカメラが、ゆっくりと一枚の写真を吐き出す。
 雑草を踏みつけ、彼は再びカメラの元へ向かう。真っ白な白衣が風に乗ってひらめく。写真を見る目は真剣で、データ表を見ているときと寸分も違わない。
 彼女は堪えきれず、くすくす笑う。
「上手に撮れているかしら?」
「まあまあかな」とつぶやきつつも、困ったように頭を掻いている。その仕草も実験結果が芳しくないときにする癖と同じだ。
「君が納得してくれるといいけど、フィオリーナ」
渡された写真を見る。ピントが微かにぼやけているがきれいな写真だ。ポラロイド・カメラ特有の、白枠の中で二人が肩を並べている。
 金髪の少女フィオリーナ・ディヴァー、そして灰青色の瞳の青年ルディガー・フォルトナーの、最初で最後の記念写真。
 優しい笑みを浮かべるフィオリーナとは対照的に、ルディガーは憂鬱な顔をそらしている。自分で視線を外しておきながら、それがルディガーには気に入らないらしい。
「もう一枚、撮ってもいいのよ」
からかうようなフィオリーナの声に、
「勘弁してくれないかな」
ルディガーが弱々しげに答えた。
 それだけならまだしも、三脚台を畳むと早々に収納ケースへ片付けてしまう。ここまでくると筋金入りの写真嫌いだ。
「自分のことが好きじゃないんだ」
 いつだったか、ルディガーはそんなことを言っていた。自分のことが好きじゃないから、自分の姿を映す写真や鏡を好きになれない。
 その時のルディガーは暗い目をしていたので、フィオリーナとしてもどんな言葉を掛けたら良いか分からなかった。
 彼の過去について詳しく知らない。
 誰かに連れてこられたのか、それとも自ら赴いたのか不明なまま、研究所に来てから三年の月日が経つ。ルディガーは黙々と先天遺伝子について研究している。試験管の中で生まれ、試験管のような施設で悠久に近い時を過ごす、彼女の全てを彼は見ている。
 ルディガーのことをもっと知りたい、と思う気持ちがフィオリーナに芽生えたのはつい最近だ。と同時に、自分のことを知られたくない、と思う気持ちも芽生えた。
 好ましい気持ちと疎ましい気持ちが並行して育ってゆく。好きと嫌い。ルディガーのことが好きだからこそ、彼のしていることは嫌い。もっといえば、彼の見ている自分が嫌い。
 自分のことがとても嫌い。
「わたくしも、写真が苦手なの」
ルディガーに聞こえないよう、小さくつぶやく。
「でも、貴方と一緒に撮りたかったの」
 
 フィオリーナの自室には、古めかしい大きな鏡がある。葡萄ぶどうの彫り物があしらわれたフレームの中に、年端も行かない少女が見える。片手を上げると、少女も片手を上げる。悲しげに笑うと、少女も悲しい挨拶を返す。ぴったりくっついて離れない。
 小枝のように細い体躯たいくは、何年経っても成長しない。細胞分裂が正常な人間より遅いからだ。自分の身体はいわば休眠状態にあり、怪我や病気で細胞が負傷したときだけ、集中的に活性化する。
 対戦闘用に改竄かいざんされた遺伝子は、フィオリーナを少女の形に閉じ込めて、一歩も未来へ進ませない。
 健常な人間に比べ恐怖や悲しみを感じにくいという、生まれもった特質があるにもかかわらず、フィオリーナは恐怖を感じ、悲しみを感じた。目的のために作られた生命なら、人間らしい感情を持たずに生まれたかった。
 叶わない願いなど、救われない希望など、持っていても虚しいだけだ。
 
 その晩、異質な物音を感じて、フィオリーナは目を覚ました。窓を開けるとルディガーがこちらを見上げていた。その顔が緊張にこわばっているのを見て、フィオリーナは飛び出した。別階の窓枠や壁の凹凸を足掛かりにしながら、音を立てず地上に降り立つ。
 昼間降った雪が積もって、辺りは銀色に染まっていた。
 夜明け前の薄暗がりの中に、二人の息が白く弾む。
「行かないで」
小さな手で、洋服の裾を掴む。ルディガーのコートは夜よりも黒い。闇の中に溶けてしまいそうだ。
「行かないで」
頭上に大きな手が乗せられる。
 よしよしと頭を撫でられて、乱暴にその手を振り払う。
「やめて。わたくしは子供じゃないの」
「ごめん」
「わたくしも連れて行って」
「ごめんよ」
「ルディガー、お願いよ」
「ごめん」
「ルディガー……」
 か細い声で名前を呼びながら、何を言っても無駄だとフィオリーナには分かっている。ルディガーは、一度決めたことを曲げない。そして、誰一人として、自分の進む道へ同行させる気はないのだ。
 ルディガーは子供の背丈に合わせて身をかがめた。灰青色の瞳は、音もなく降り続く雪のような静謐せいひつさを湛えている。静かにルディガーは話し始めた。
「僕はこの研究を破棄するためにやってきた。政府からの特別要請で。最初からそれが目的だった。しかし君と触れ合ううちに、壊していい真っ当な理由のあるものなんて、この世に一つもないことを知ったよ。誰かの望みは誰かの悲劇で、誰かの平和は誰かの虐殺と表裏一体なんだ。君の愛情を感じるたび、幸福と不幸を同時に感じた。僕の中で何かが裂けて、ひずみはどんどん大きくなった。これ以上、騙しおおすことはできない。君に、僕の人間性を壊されたくない」
ルディガーはそこで言葉を切った。フィオリーナを抱きしめると、その唇にキスをした。
「こんな僕を、愛してくれてありがとう」
逃げ去るように、闇の中へ消える。
 彼が幻でないことを裏付けるように、足跡だけが残される。


 尖らせた聴覚に、割れるほどの銃声が轟く。六発。その後で撃針げきしん空薬莢からやっきょうを叩く金属的な音がした。
 フィオリーナはきびすを返し、銃声が聞こえた方へ駆け出す。途中、大きな物体が落ちたときの派手な水音がこだました。彼女の心身はより焦燥へと掻き立てられた。
 真っ暗な街路を抜けると橋が見えた。欄干に取り付けられた街灯が、数名の人影をぼんやりと照らしている。彼らは一仕事終えていた。武装を解除し、どこかへ向かおうとしているところだった。
 フィオリーナは手にした銃で、一番端を歩いていた男の頭を吹き飛ばした。反射的に振り向いた共犯者の顔面にも風穴を開ける。残党は、飛び込むように地面に伏せる。そのとき既に彼女は橋の中央に――彼らの陣営に向けて跳躍している。二丁の銃で散弾の雨を降らせると、殺し屋たちは断末の呻きすら上げることなく絶命した。
 一人だけ、フィオリーナの狙い通りに銃弾をまぬがれた人間がいる。彼は生き絶えた仲間と同じように地面に倒れ、身悶えしている。
 あらかじめ、握っていた銃を指ごと吹き飛ばしておいたからだ。
 フィオリーナは、浮浪者とも見間違うような身なりの男の胸ぐらを掴んだ。
 殺し屋は、浅黒い肌のアジア人だった。
「依頼者に伝えなさい」
こめかみに銃を突きつけ、低い声で命令する。
「標的は死んだ。この土地での狼藉ろうぜきは、わたくしが許さない」
 乱暴に突き放すと、男は右手を庇いなら、そそくさと闇の中へ消えた。
 周囲に横たわる死体の血は、幾本もの支流となって、やがて橋の淵に溜まった大量の血液に流れ着く。
 その中に二発の弾丸が、踏みつけられたガムのように地面にこびりついている。
 ホローポイント弾ですら貫通するほどの至近距離で、ルディガーは射殺されたのだ。
 フィオリーナは来た道と逆方向に橋を渡り、自車に取り付けていた固定電話機から電話を掛ける。警察が騒ぎ出す前に、橋の上にはびこる死体を処理する必要がある。ニューヨークには、どんな職業にもプロがいる。
 公的機関に嗅ぎつけられないように、上手く事件を仕立て上げなければならない。彼の正体、彼の行なってきたこと、そして我々の秘密を、表に出してはいけない。
 計画を練っているうちに、彼女は所有するビルの、自室の部屋に辿り着いた。
 ここでもハンドフォンから様々な人物へ電話を掛け続け、
「それでは、計画通りに」
通話を終える頃には、日付が変わっていた。ふっと息をつく。強烈な喉の渇きを感じていた。
 椅子から立ち上がり、大きく伸びをしたあとでキッチンに向かう。
 キッチンには個人収納用のワインセラーが置いてある。
 扉を開け、ワインボトルを取り出す。
 瞬間、ボトルが割れた。
 緑色の破片が掌から弾け飛び、部屋中に飛散する。粉々になったガラスの破片が手のひらに突き刺さり、ワインとは違う赤い液体が滴り落ちる。
 フィオリーナはぼんやりと手を見つめたまま、いつまでもその場から動かなかった。