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 研究所を出てからの経緯を、持ち得る情報網を駆使して調べた。
 組織から追われる身となったルディガー・フォルトナーは、行く先々で私兵を雇いながら先天遺伝子の研究を続けた。そして最後の滞在先である日本で数年間の晩年を過ごし、アメリカへの逃亡の最中に殺害された。
 彼は、自身の研究記録を隠したはずだ。紙にまとめ、銀行の金庫にしまってあるのか。それともデータ化して、ネットワークの世界に放り込んでしまったのか。
 フィオリーナはその後も彼の遺産について調査を続けていたが、一向に手掛かりは掴めなかった。
 〈あの組織〉においても、この界隈では噂を聞かない。
 ルディガーの居場所を嗅ぎつけて、彼らが拠点を置いたのは日本だ。今頃は血眼になって、日本中を探し回っているのかも知れない。

 フィオリーナはテレビを消して立ち上がる。
 彼女の思惑通り、ルディガーの死はヨーロッパで悪事を働いていたマフィアの水死体事件として処理された。 数週間ほど動向を追っていたが、センセーショナルな事件として取り上げられたのは二、三日ほどで、刺激に飢えたマスコミの興味は大物政治家が横領した金の話題に移っていた。
 そろそろね、と彼女は思った。ルディガーの子供に会いに行くのは。
 ルディガーの軌跡きせきを調べて分かった事実。
 彼には子供がいた。父親とともに川へ突き落とされたものの、奇跡的に存命していた。
 フィオリーナが情報統制を敷いたおかげで、その事実は世間に出回らなかった。
 だからこそ〈あの組織〉は追跡を止めたのだ。秘匿された子供は、発見されなかった死者として、彼らの中で埋葬されている。
 フィオリーナは身支度を整え、自室の鏡の前に立つ。陰影の強いメイクをして、服装も大人びたものを身につける。ハイティーンに見えていた素肌の自分が、二十代前半の落ち着いた女性の姿に変わる。
 ようやく不自然でなくなってきたわ、と彼女は思う。鏡の中の少女は死んだ。時間の流れは平等でないにしろ、着実に生きとし生けるもの全てを成長という死へ導いている。一組織を抱える頭領としては不釣り合いも甚だしいが、大学関係者として顔を出すには申し分のない外見だ。
 ギブアンドテイクの関係にある知人を使って、検死官である時藤小百合のラボを訪れた。
 ミセス(あるいはミスかも知れない)トキトウに会ったことはないが、これからも接点を持つことはないだろうとフィオリーナは思う。彼女のスケジュールは調べがついていて、この日のこの時間帯は、手掛けている事件の会議に出掛けているはずだ。
 二、三回扉をノックすると、「はい」と高い声が聞こえた。
 まだ幼い子供の声。やがて細く開いたドアの隙間から男の子が顔を出した。
 彼女は息を飲んだ。
 男の子にはルディガー・フォルトナーの面影があった。色素の薄い金髪も、灰青色の大きな目も、繊細な顔の造形も、まさしく彼の血を受け継いでいた。
 彼が、ルディガーの子供。
 ハロー、と男の子は言い、フィオリーナもハローと返した。
「サユリはミーティングに出ていて留守です」
台本のセリフを読み上げるように、散文的な英語を彼は喋った。
 その間も好奇の眼差しは爛々と輝きながらフィオリーナの正体を探っている。
「お姉さんは、サユリの友達?」
いいえ、とフィオリーナは首を振る。
「貴方のダディの、古い知り合いなの」
「ダディ? ……アランかな」
「それが、父親の名前?」
男の子は瞳を宙に泳がせたまま、しばらく思案を巡らせていたが、やがてはっきりとした声で言った。
「アランはアランだよ」
「貴方は……」
何も覚えていないのよね、と言いかけてフィオリーナは口をつぐむ。その発言が、彼にどれほどのショックを与えるのか想像もつかない。案外、平然としているかも知れない。
 とにかく子供心は、長らく子供だった彼女にもよく分からない。
「わたくしは、貴方とお話しをしに来たの。アルド・ディクライシス、少しだけ中へ入れてくれないかしら?」
「Pardon?(もう一度言って)」とアルドは言った。
「僕、英語は得意じゃないんだ」
フィオリーナは言語を日本語に切り替え、同じ内容を繰り返した。途端、灰青色の瞳が光った。大きな目がさらに大きく開き、彼は恍惚こうこつに近い、憧憬どうけいの眼差しで彼女を見上げた。
 思わぬところで出くわした故郷の言葉に、
「入って!」
アルドはにっこりと笑った。
 アルドは机の上に散らばっていた本やメモ用紙を丁寧にまとめて脇に寄せた。その上から、子供が抱えるには重いはずの辞書を慣れた仕草でどすんと乗せる。辞書には日本語で「英和辞典」と書かれていた。
「日本語を話すのは、僕たちだけだと思っていたんだ。僕と、サユリと、二人だけ」
 Just the two of us ! と英語で繰り返して、クスクスと笑う。
 座って、と促され、先ほどまでアルドが座っていたらしい、背もたれ付きの椅子に座る。
 頑丈なマホガニーでできた、大人用のワークチェアだ。
 アルドはサユリの机から事務椅子をごろごろと引いてくると、その上へ身軽に飛び乗った。
「貴方は、この部屋で暮らしているの?」
「違うよ。サユリの家とアランの家だよ」
「毎日、ここへ来ているの?」
「うん。本がたくさんあるから」
端に寄せた紙の中から一冊の本を見せてくれる。大人向けの分厚い書籍で、表紙には「少年犯罪−−心理とその傾向−−」とタイトルが記してある。検死官である時藤小百合の蔵書なのだろうか。
 彼が英和辞典を持っていたのは、この本の中に書いてある分からない単語を調べるためであるらしい。
 子供が読むには刺激的なタイトルだが、アルドは気にならないのか無邪気な顔でにこにこしている。フィオリーナは本のページを手早くめくり、見えたものを頭の中へ「転写」する。ページの形に画像化した記憶を思い出しながら、追想的に読書をするのが彼女のやり方だ。
 微笑ましかったのは、ページの余白にたどたどしい字で、内容を要約したメモが書いてあったことだ。子供の理解力とは思えないほど、上手くまとめられている。
 ルディガーにも似たような癖があったことをフィオリーナは思い出した。彼の持っていた本も、細かいドイツ語でびっしりと書き込みがしてあった。
 過去が断絶していても、この子供は父親の余韻の中で生きている。
 その衝撃をおくびにも出さず、フィオリーナは穏やかに微笑む。
「見せてくれてありがとう」
差し出した本を受け取りながら、アルドもにっこり笑った。
「他の本も見る?」
「また次の機会にね」
「指紋を取るキットもあるよ」
「ありがとう。その気持ちだけ、いただいておくわ」
そう? と物足りなさそうにつぶやいて、子供は床に届かない足をぶらぶらさせる。新しく出来た遊び相手に、自慢の部屋を披露できず不服そうだ。
「アルド」と呼びかけると、それでも彼は親しげな笑みを向ける。フィオリーナは席を立つ。
 ゆっくりと傍まで来ると、身をかがめて、小さな子供の目線に合わせた。
「あのね、アルド」フィオリーナは言った。
「わたくしと一緒に来て欲しいの」
「どこへ?」
「わたくしの家よ。一緒に暮らさない?」
 ルディガーの子供が生存していたことに〈あの組織〉が気づいたら、おそらく彼をさらいにくる。
 アルドの失われた記憶の中に財宝の手がかりが隠されているかも知れないのだ。機械の中から必要部品を取り出すように、彼らはこの子供を壊してでも父親に関する記憶を思い出させようとするだろう。
 フィオリーナとしても〈あの組織〉より先に情報を手に入れなければと思うが、もちろんアルドからではない。
 彼を保護する理由はひとえに、ルディガーが大切にしていたものを大切にしたいと思う気持ちからだ。
 真剣な顔のフィオリーナとは正反対に、アルドはきょとんとした表情で首を捻る。彼女の言葉の真意を、聡明そうめいな頭で汲み取ろうとしているらしい。それでも材料が足りないと感じたのか、細い眉を潜めて怪訝な顔をした。
「家が三つになるってこと?」
「違うわ。一つよ。帰る家は一つ」
 一つ、と小さな声で反芻する。つやつやの唇が、強張ったようにぎゅっと結ばれる。力の源にすがるように、困り果てた子供の目は机の上の本に向いた。
 「少年犯罪−−心理とその傾向−−」
 はく押しされたアルファベットを細い指がなぞる。少年。犯罪。心理。傾向。
「本を読まなくちゃいけないんだ」アルドは言った。
 本ならどこでも読めるでしょう、とフィオリーナの反論の先をついて、アルドは続ける。
「その椅子はね、サユリが買ってくれたの。大きくなってもここで本が読めるように。僕がいなくなったりしたら、誰も座らない椅子を見て、サユリは悲しむと思うんだ」
いやに大人びた言い方で、少年は言った。
「僕は好きな人を、悲しませたくないな」
 フィオリーナは灰青色の瞳を見、テーブルの向こうにある、意匠いしょうの凝った木製椅子を見た。子供が座るにしては立派すぎる。それにこの部屋の主であるミス時藤が使用している物より何倍も高そうだ。
 数週間の間に、愛情が形になって、この子の世界を取り巻き始めている。それは伸び始めた蔓草つるくさのように柔らかく、脆弱そうに見えてしぶとい。無理やり引き剥がそうとすれば、心に傷がつく。
 それはルディガーの望むことではないだろう。
〝壊していい真っ当な理由のあるものなんて、この世に一つもない〟
 そうね、とフィオリーナは思った。ルディガー、貴方の言う通りだわ。
「好きな人を悲しませるのは、良くないわね」
フィオリーナはアルドを見上げて微笑んだ。と同時に、あの日雪の闇に消えていった、ルディガーの背中を思い出した。
 彼と同じように自分もこの子供のもとを去るが、それは見捨てることじゃない。
 彼の遺した財宝は、誰の手にも奪わせない。
 部屋を出るとき、アルドは何度も「また遊びに来てくれる?」と日本語で尋ねてきた。本を読むのは楽しいけれど、たまに退屈しちゃうんだ。
 フィオリーナは、それは難しい、と正直に答えた。付け焼き刃の言い訳は、この子供に通用しないと考えたからだ。
 この場所で生きてゆくのであれば、今後の関わりを一切絶った方がいい。父親の因縁に、振り回される必要はないのだ。
「どうか幸せでいてね」
 うつむく子供の頭を撫でながら、フィオリーナは言った。