事件の結末は、ありきたりと言えばありきたりだった。子供の父親である水死体はドイツで指名手配中の逃亡犯だったのだ。数年前にヨーロッパ全土を騒がせた某マフィア抗争の火付け役であったらしく、〝ファミリー間の破壊活動分子〟としてヨーロッパ中のマフィアから命を狙われていた。彼の逃亡経路はアジア、アフリカと、全世界を股に掛けるほど広範囲にわたっていた。しかし、ここ数年間は日本に身を潜めていたと推測される。(日本滞在中に子供ができたとすれば、子供が日本語を喋っていたのにも納得がいく。)
 そして先日、子供をつれてアメリカへ亡命しようとした矢先、某の人間に始末された……、というのが、警察が予測した今回の事件のあらすじだった。
 男を殺したという黒人の殺し屋は捕まり、事件は無事に一件落着したように見えた。
 が、どうもアランには納得がいかなかった。論理的根拠はないが、長年の警察の勘がどうしてもこの結果に満足していないのだ。本当に、あの水死体はただのごろつきだったのか? 本当に、数年前のマフィア抗争に関わっていたのか? 簡潔に整い過ぎた、側面だけの事件に思えてならない。
 まだ何か裏があるような気がしてならなかったが、こうして犯人も捕まり、犯行の手順や動機も、被害者である男の身元も明らかになったのだから、これ以上の捜査は望めない。
 すっきりしたような、しないような……なんとも後味の悪い事件だった。
 事件上の被害者は、水を吸えるだけ吸って膨らんだ風船男だが、本当の被害者は、記憶を失った〝小さな彼〟だ。あれから、かなりの数の心理カウンセラーや精神学者、さらには催眠術師が少年の記憶修復を試みたが、少しも彼の記憶は戻らなかった。
 疲れ果てた学者達が出した結論は、「あまりにもショッキングな出来事に、今まで全ての記憶が少年の意思に関わらず、脳の深い部分に封印されてしまった」ということだった。
 つまり今後の生活の中で、いつかその扉が開くかも知れないし、一生開かないままかも知れない。
 学者にしてはなんとも曖昧で文学的な表現だ、とアランはせせら笑った。所詮人間の育んできた学問など、己の「無知」に「理屈」という難癖をつけるためだけの、エゴイズムでしかないのだった。

「あらーん!」
サユリのラボの扉を開けると、子供が猛突進してきた。危ねぇ! と言いつつもアランは笑いながらそれを抱きとめる。子供もにこにこと笑いながらアランを見上げた。
「ボク、分かったー。ちょっとだけ」
「あ? 何が?」
「いんぐりっしゅー!」
クスクスと笑いながら、アランから身を離すと子供はラボの奥へと一目散に駆け出した。その先にはサユリが両手を広げて待っていた。すっぽりとその腕の中に納まると、子供はサユリの耳元で何やら囁く。
研究室の窓から差す陽光に、子供の金の髪の毛はキラキラと輝いている。まるで、ルネッサンス時代に描かれた天使が額縁から飛び出してきたようだ。
「相変わらず、訳分かんねぇガキだな。いや、ガキってのはみんなわけの分からん生き物なのか?」
アランはサユリに言う。サユリは子供の頭を撫でながら、
「ものの二ヶ月で、ここまで英語力が身についたのよ。これは驚くべき事柄だわ」
アランの質問の答えとはまるでとんちんかんなことを言った。子供の事も分からないが、同様に科学者の応対もよく分からないアランだ。
 確かに、二ヶ月前河川敷で会った時よりも格段に言語能力が発達しているが、他の子供に比べたらまだまだだし、サユリが感心するほど子供の言動は利口には見えない……と言うより、彼のとる行動は奇怪なものばかりで、度々アランを動揺させた。今の子供はみんなこんなに能天気でチャランポランなのか、それともこの子供が知能指数135の持ち主だからか。子供のいないアランには判断がつかない。
 子供はサユリの腕の中から離れ、今度は研究室にあった肘掛け椅子に座ってぐるぐる回っている。本当に、子供というのは何でも遊び道具にしてしまう。
「それで、あのガキはこれからどうなるんだ? ずっと、サユリの下で生活していくわけにはいかないんだろ?」
アランが言うと、サユリは頷いた。
「そうね。今は一応、検査期間と言うことで私と一緒に生活しているけれど、そのうちに保護団体があの子を、親の代わりに育ててくれる人を探すかも知れない」
まるで捨て犬扱いだ。アランは少し苛立った。それはサユリに対してではなく、何物にも変え難い大事なものを違う何かで埋め合わせてしまおうとする、保護団体のどこまでも合理的な思想に対してだ。
 記憶を失っているにしても、見知らぬ人間を両親と思い込んで生活していく事が、あの子供に出来るだろうか。果たして、それで全てが上手く機能していくのか。
「リッキー、やめなさい!」
回転座席でスパークしすぎている子供を、サユリが制した。子供は不満げな顔で「いえーす」と言うと、椅子から飛び降りた。
「なんだ、そのリッキーってのは?」
「あの子の名前。貴方は偉そうに〝ガキ〟なんて呼んでるけれど、名前がないと不便でしょ。私が小さい頃に飼ってたゴールデンレトリバーの名前、リッキー」
「おいおい、やめろよ」
不便というよりは不憫だ。まさに犬ではないか。
 栄冠あるゴールデンレトリバーの名を受け継いだ子供は、物欲しそうな目で暫く回転座席を見ていたが、しぶしぶとこちらにやってきた。
「遊ぶー。もっともっと!」
「おい、ガキ。ちょっと大事な話があるから聞いとけ」
アランは子供を抱き上げる。今の英語は彼にとっては少し難解だったようで、戸惑った表情でサユリに通訳を求めた。日本語に変換した言葉を聞くと、ようやく子供は頷いた。
「お前なー、そんな能天気なことばかりやってるけど、この先、自分がどうなるか、知ってんのか?」
サユリは少し眉をひそめた顔でアランを見たが、従順に通訳してくれる。
 子供は首を振った。
「全然、知らない家に連れて行かれるんだぞ。そんで、全然知らない人間を〝パパ〟とか〝ママ〟って言わされるようになるんだぜ」
「えーーっ?」
「驚き」を強調したいのか、子供は目を大きくして両手をホールドアップした。その行為は演技力に欠けるとしても、眼差しは早くも悲しみと焦燥で満ちている。子供は叫んだ。
「ここで遊ぶ! もっともっともっと!」
「そうかそうか。じゃあ、おれの子供になればいい。そうしたらいつでもここで遊べるぞ」
涼しい顔でそんな事を言ってのけたアランに今度はサユリは目を丸くした。一秒ほどパクパクと口を金魚の如く開閉していたが、やがて凄まじい勢いで捲くし立ててきた。
「本気で、この子を養子に貰いたいとでもいうの? 同情心からなら止めた方がいい。世間からひんしゅくを買うわよ!」
アランはうんざりといった表情で片耳を塞ぐ。予想していたとおりのサユリの反応だったが、いざ言われてみると中々迫力がある。
「いいから通訳しろ。今は世間なんか関係ない、肝心なのはこのガキの判断だろ。そういう、つまらんいざこざは後で解消すればいい」
馬鹿! とサユリから大喝を受けたが、しぶしぶサユリはその旨を伝えた。いつもより早口で、いつもよりつっけんどんだったが、悲しみに暮れていた子供の顔が段々と希望に満ち溢れていく様をアランは見逃さなかった。上機嫌になった子供がアランの腕の中で飛び跳ねるので、アランはまたサユリに「静かにしないと、おれの息子にしないぞ!」と伝えて貰わなければならなかった。

           ◆

 後日、様々な人間からありったけの叱責・呆れ・嘲笑を受け取り、なんとか養子問題に関しての手続きは終了した。状況が状況なだけに、養子の手続きにはかなりの時間を費やした(人一人をアメリカ国籍にするだけで、これほどに膨大な時間を費やすとは、星条旗の下に仕事をするアランでも予想していなかった)。
「まず、お前の名前を考えなきゃな。由来が〝昔飼っていた犬の名前〟なんてナンセンスなものはダメだ」
「ごめんなさいね、ナンセンスで」
サユリの横睨みを受けながら、アランは子供の灰青色に染まった瞳を覗き込む。どこまでも深い海の色を湛えた瞳。たくさんの濃度の青がぶつかり合い混沌としているが、決して濁っているわけではない。むしろその瞳の奥にある鋭い輝きはどんな苦難に出会っても腐らない、確固たる意思の強さがあった。
「よぅし、決めた! お前はアルドだ。アルド・ディクライシス、かっこいい響きじゃないか。ドイツ圏っぽい名前だし、スペルも分かりやすい、発音もしやすい」
「リッキーと、どっこいどっこいじゃないの」
サユリは呆れ顔で呟く。状況の掴めていない子供だけは、にこにこしながらリッキーとアルドの名前のセンスについて論じ合う二人を見つめている。
「じゃあ、本人の判断に委ねましょう」
やがてサユリはアジアの言語で子供に話しかけた。子供も同じジャパニィズで応対する。アランだけが蚊帳の外に放り出され、暫くこの二人の理解不能な会話を聞いていた。子供は暫く、迷うような素振りを見せていたが、やがてにっこりと笑い、
「あるどー」
と言った。サユリはにこやかな表情を崩さなかったが、微かに舌打をした。
「いいわよ別に。私の愛すべきリッキーは一匹だけで充分だもの」
「よし! お前は今日から俺の息子、アルド・ディクライシスだ」
アランは子供を肩に担ぎ上げる。これが一番この子供の喜ぶアトラクションだということは、既に一ヶ月前に発見済みである。
 案の定、子供は嬉しさのあまり足をバタバタさせた。