彩を釈放してもらう際に、警察の書類には“住居が見つかるまで、身柄を保護する”と書いた。

「ねえ、本当に大丈夫だった?迷惑じゃない?」
彩が隣でおずおずと聞いてくる。取調室での強気の姿勢が嘘のように、弱弱しい。あれは虚勢を張っていただけなのかも知れないなとアルドは思った。彩は、本当は遠慮深くて謙虚な性格なのかもしれない。
「別に、俺は迷惑じゃない」
「そう。それなら良いんだけど。――あと、日本人の私に対する興味本位でってことではないわよね?保護してもらって言うのも何だけど」
「違うよ、それは断言する」
それではなんでこういう展開になったのだ、と問われると答えられないが。
「良かった・・・」
彩がほっと息をついた。そして辺りをくまなく見回した。
「ここ、なんか落ち着く部屋ね、家具は少ないけど」
「物が溢れかえっているのは、好きじゃないんだ」
「奇遇ね、私も」
彩がにっこり笑う。アルドも曖昧に笑い返した。彩は今度は部屋の窓から外を眺めながら静かに口にした。関心半分、あきれ半分という口調だ。
「よく初対面の私なんかを迎え入れる気になったわよね。私の“身柄を保護する”なんて――貴方、人が良すぎるにも程があるんじゃない?」
「アヤも、よく初対面の男の部屋に上がれるな。考えなしにも程があるんじゃないか?」
それもそうね、と彩は笑った。それがあっけらかんとした笑いだったので、逆にアルドの方が心配になったくらいだ。危機感のひとつやふたつ、持ってもらいたいものなのだが。彩はひとしきり笑うと、真顔でアルドを見た。大きな瞳が優しく細まる。
「なんとなくだけど、わたしたち、似た者同士って感じがしない?だからアルドのことは信じられるような気がしたのね。色々なものを、分かり合えるような気がしたの」
「色々なもの?」
彩は頷く。
「そ。言葉じゃ伝えられない、色々なもの。そういう人って、会った瞬間から分かるものなのよ」
そういうものなのだろうか?――アルドにはよく分からない。昔から、そういった観念論は苦手なのだ。一方で、彩は感受性が強いとでも言うのか、感覚で物事を捉えるのを得意とするようだ。自分の部屋にすんなりと上がりこんだのも、一種「安全な空気」を読み取ったのだろうか。
「アヤは運命論者か?」
それを聞いて、彩はまた鈴の音のような声でくすくすと笑った。
「そんなわけないじゃない」
「だろうな」
 いつの間にか外は薄暗くなっていた。腕のGショックを見ると7:00と表示されている。
「お腹、すいたわね・・・」
彩は持っていたボストンバックの中をごそごそとやると、中から白い箱を取り出した。中身を開けると、少し形の崩れた苺のケーキが顔を覗かせていた。クリームと苺ソースがたっぷりの、見ているだけで口の中が甘ったるくなるようなお菓子だ。
「これ、今日盗んだやつ。警察署を出る時に、また盗んできちゃった」
「なんて女だ」
「これで私の17歳の誕生日を祝おうと思ってたの・・・貴方、甘いものって好き?」
一人だけ食べるのは忍びないと思ったのか、彩が憂鬱そうな目をして聞いてくる。本当は独り占めしたいのだろうに、妙なところで謙虚な女だ。日本人は皆こんなに気を使うものなのだろうか。
「俺には煙草と酒があるから、大丈夫」
アルドは立ち上がると、キッチンにある冷蔵庫から安いワインを取り出した。ついでにワイングラスも2つ用意する。これは、大学に入るのを切欠きっかけにアランの家を発ったときに拝借してきたものだ。思えば、この部屋に住み着いてから2年は経過している。時間が経つのは早い。
「ワインは?」
「好き」
ワイングラスというよりはシャンパングラスに近い円筒形に2つ、紅色の液体を注ぐ。彩はにっこり微笑むとTHANK YOUと返した。昼に喋った「はろー」よりは発音が良い。
「あとはキャンドルがあれば、結構いいお誕生日会になるんだけど」
彩はキョロキョロと部屋を見渡すが、蛍光灯がぎらぎらと眩しいこの部屋にキャンドルなんてものは存在しない。そもそも、シンプルかつ実用性重視のこの部屋に、余計なものは全くといっていいほど存在しないことはアルドが一番よく心得ている。なんとなく、自分のジーンズのポケットをまさぐると、先ほどアランからかすめ取った安いライターが出てきた。オイルは十分残っているので、一回の摩擦で先端から炎が吹き出る。ロマンチックの欠片もない炎だがキャンドルよりは煌々と燃えている。
彩の前にかざすと、彩は身をかがめて橙に揺らめく小さな炎を吹き消した。
「貴方って本当に良い人よね」
「そうか?」
「良い人っていうよりは、優しいのね」
彩がワインの入ったグラスを傾ける。アルドも習ってグラスを傾けた。チンと高い音がしてグラスが交わる。静まり返った部屋に小さくそれは響いて、涼しい余韻を残していく。
「ありがと、アルド」
彩が今までで一番嬉しそうに微笑む。日本人形のような・・・いや、それよりももっと愛らしい笑みだ。
「これから、仲良くやりましょ」
返事の代わりにアルドも微かに笑い返した。




それは、今でも鮮明に覚えている記憶のひとつ。
ライターの灯火、赤色のワイン、君のその笑顔。

失われたもの全て。