お互いに、なんとなく相手を掴めたところで、アルドは本題に入ることにした。そろそろ警察に貢献してやらなければ。短気なアランは今頃シビレを切らしているころだろう。
「それで、署の人間に聞いたんだが、万引きした上に金がないんだろ。この先どうするんだ?」
本題に移ったにしても、単刀直入に聞きすぎただろうか。彩が気分を悪くしたら聞けることも聞けなくなるとアルドは一瞬懸念けねんしたが、それも杞憂きゆうに終わった。彩は変わらずにこにこと笑って、
「なんとかなるわ」
と言ったのだ。
なんて気楽な思考回路だろう。アルドの頬に冷や汗が滴る。経済大国であるが、同時に犯罪大国でもあるNYで、文無しの16歳がなんとかなるわけがない。
「無理だ」
アルドはきっぱりと言った。今や彩の行く末を危惧する気持ちが溢れていた。
「無理なんかじゃないわ。今度はちゃんと上手くやる」
「万引きを?」
「それもあるけど、強盗とか詐欺とか・・・あと売春とか」
売春、と聞いてアルドは思わず吹き出した。自分は冷静な方だと自負していたが、今のは耐えられない。腹がよじれるくらいに笑いたくなる気持ちを必死に抑えたが、肩の震えは止められない。彩は机の向こうから訝しげな目線をアルドに投げかけている。
「何よ?何がおかしいの?」
怒りを交えた彩の声で、幾分か笑いの発作は収まった。軽く咳払いをしてアルドは気持ちを切り替える。
「君は、売春はやめておいた方がいい。小児性愛者には好かれると思うけどな」
見たところ、彩はお世辞にもグラマーとは言えない。人間性はグラマラスだとは思うが、体は成熟してない幼児体系のままだ。話している最中、ふと眺めてしまったのだが、彼女には凹もなければ凸もない。
「失礼ね!」
彩は目を三角にしてアルドを睨んだ。内心気にしていたようである。彩は少しの間自分の体のあちこちに目を走らせていたが、やがて椅子に座りなおすとわざとらしい咳ばらいをした。
「――とにかく、私はここにいたいの。そのためなら、何だってやるってことを言いたかったの」
「意地を張らずに故郷に帰った方がいい。目的もないのに、ここにいるのは危険だ」
「目的ならすぐに見つけられるわよ、NYだもん」
「家族が心配してるんじゃないのか?」
家族、という言葉を聞いて、彩は机に目を落とした。黒くて長い睫の影に瞳が隠れる。しかし、それも数秒。彩はまたアルドを見つめた。彩と話してから、初めて見る、その瞳。漆黒の中に浮かぶ悲哀の色。
アルドは、「家族」という言葉はこの少女にとって禁句だと感じた。まずいことを聞いた。
「もう私には、帰る所なんてないわ」
悲しい眼をしている割に、凛とした声で彩は言った。漆黒の瞳はアルドを見据えたまま、放さない。アルドも真っ向から彩を見据えていたが、心の中ではひどく狼狽していた。
――それは、どういうことだ?
「ねえアルド・・・私、もう、帰れないのよ」
彩の声は、絶望の淵に立たされている人間の声そのもの。ずっと昔、自分もこんな色の声で話していたな、とアルドは思い出した。


この出会いは「運命」なんていう、簡単な常套句じょうとうくでは言い表せない。もっと複雑で、歪曲わいきょくしていて、暗いなにか。それが、頑丈に巻きついて、2人を縛り上げていく。血も滴るほどに。運命論などをまったく信じていないアルドでも、そう思わずにいられなかった。これは何かの前兆か、もしくは転機なのだろうと思った。
アランにその旨を告げると、アランの口に銜えられていた煙草がぽとりと地面に落ちた。
「は?」
アランは素っ頓狂な声を上げる。
「そりゃあないぜ、アルド。いくらお前、あのガールから話を聞き出せっつっても、そこまでしろとは言ってない」
「知り合いが一人増えるだけだろ。アンタに迷惑はかけない」
「おいおい、待てよアルド。考え直せ。絶対上手くいきっこないぜ」
アルドは首を振った。そして声を潜めてアランに耳打ちした。
「今、日本に返したら、あの女は死ぬような気がする・・・」
彩の憂いの瞳。それは、死と密接に結び付くくらいの、濃い色だ。彼女にどんな事情があるのかは分からないが、下手な扱い方をすれば、彼女は確実に死ぬだろう。いや、誰かに殺されるかもしれない。
アランは、眉を片方吊り上げながらアルドを見る。信じられないといった表情だ。
「そりゃあマフィアの勘・・・・・・ってやつか、アルド?」
「ああ。そうかもな」
アランは暫くの間アルドの顔を眺めていた。その表情に嘘偽りがないか、単なる気まぐれや私情ではないか、確かめているようだった。やがてアランはフーっと息を吐くと、両手を挙げてホールドアップの体勢をとった。承諾の意だ。
「・・・分かった、好きにしろ。――だけど、どんなことになってもおれは知らないぞ」
アルドは勝手にアランの煙草の箱から1本取り出すと、口に銜えた。いつの間にせしめたのか、ポケットからアランのライターを取り出して火をつけた。そのまま喫煙所から出て行こうとするアルドをアランは呼び止めた。
「おい、ここで吸ってけ」
アルドは煙草を銜えたまま、口の端をゆがめて笑う。年齢と釣り合わない翳りのある笑み。絶望を通り越した先にある静けさのような、妙に落ち着きはらった表情。彼の歩んだ過酷な人生を考えたら、そんな顔つきになるのも無理はないと思えてくる。
「すまない、アヤが待ってる」
大人びた口調でそういうと、アルドは早足で喫煙所から出て行ってしまった。喫煙所の錆びたドアが静かに閉まる。本当はもっと強情に引き止めた方が良かったのかもしれない。が、退廃的な空気をまとった息子に、アランは逆らえなかった。いつだってそうだ。アルドがあんな表情をする時は決まって口出しできない。そしてそれはいつだってアルドの人生を左右する重要な分岐点だった。
アルドの言うところによると、彩という少女にはかなり込み入った内情があるらしい。彼女は背後に、生死を分けるような重大な事件性を抱えている。もしかしたら、アルドはあの少女に自分と似た境遇を感じているのかもしれない。声に出さずとも似たような境遇を持つ者同士は、奇妙な繋がりを感じることがあるものだ。だからこそ、アルドは人並み以上に彼女を庇い、力になろうとする。同族意識を感じているのか。
それならなおのこと、強く反対した方が良かった。
「同情なんて、やめておけ。どうせ、くだらない結末に終わるんだから・・・な」
口から煙を吐き出しながら、アランは宙を仰いだ。雲のように浮かぶ煙草の煙を吐息で雲散させる。儚くも白い輪の煙は跡形もなく消し飛んだ。