「フィアス、君に話がある……」
凛をそっと自分の身体から離して、キョウヤは言った。凛は大粒の涙で瞳を潤ませながら、しばらく名残惜しそうにキョウヤの傍にいたが、やがてフィアスの方へ身を引いた。
 キョウヤは骨の上に申し訳程度の薄皮が張った細い手でフィアスをまねいた。
「君に、俺からの手向けをあげる……恐らく、君が知りたがっている、とっておきの情報だと思う……」
凛に聞かれたくないことなのか、耳をかせと言っている。凛は戸惑ったようにキョウヤを見ていたが、何も言わずに一歩退いた。
 フィアスが訝りながら近付くと、キョウヤは息も絶え絶えに、殆ど独りごちるような声で囁いた。あまりにも低く、小さい声だったので、凛には届かなかっただろう。常人より五感が優れているフィアスにははっきりと聞き取ることができたが。
「龍頭正宗はベーゼに収容されている」
キョウヤは言った。
「彼は生きている……幽閉されているんだ。十五年以上……ずっと……」
フィアスはキョウヤを見る。キョウヤの目は少しだけ焦点があっていないようだったが、嘘を言っている風には見えなかった。
 龍頭正宗は生きている。
 この前、荻野刑事と話したときに予想していたことが、今やしっかりと情報という後ろ盾を持って手の内に入った。
ベーゼ邪悪
 聞いたことがある、とある県の山奥に、そのような名前の収容施設があると。ベーゼ。そこは表向き生かしてはおけない人物、しかし国家・・にとって重要な鍵を握る参考人を秘密裏に生かしておく施設。いつか、何かの切り札として使えるように。
「リンには言わない」
キョウヤの意を汲み取ってフィアスがそう言うと、キョウヤは初めて安堵の表情を見せた。
「〈サイコ・ブレイン〉を止めてくれ……」


 凛の元へ戻ると、彼女はかたく目を閉じていた。まるで苦痛に耐えるように。
 キョウヤと会ったとき、すぐに脳裏をよぎった「ある予感」に、彼女も気づいているようだ。というよりも、前から知っていたに違いない。それならなおさら別れを長引かせるわけにいかなかった。いつまでもここにいたら、それこそ凛はキョウヤをホテルに連れて帰ると言いだすだろう。
 それがどんなに無謀で未来のないことだと分かっていても、そうするに違いなかった。
 凛は最後にもう一度キョウヤと抱擁を交わした。その際、彼女の囁いた一言がフィアスの耳にも届いた。今までに聞いたことのない、彼女の小さな悲鳴。
「お願いだから、死なないで!」
キョウヤは何も答えない。柔らかく微笑むと旧友の背中を押した。
 後背にキョウヤを残して歩き出す。凛があまりにもキョウヤの方を振り返ろうとするので歩くのもおぼつかない。十数回目の戸惑いの後、思わず背後を振り返ろうとした凛の肩をフィアスは抱えた。
「振り返るな」
驚いた顔で凛はフィアスを見上げる。フィアスは真っ直ぐ――真一の待つ車の方を見つめている。
「お前は、なんとしてでも生き延びろ」
その言葉を合図に、しんと静まり返った須賀濱埠頭に、凛の嗚咽がひっそりと漏れた。


 車は行きに止めておいた場所にそのままの形で停車されていた。車内では車酔いから回復した本郷真一がカーナビの色々な機能を試しているところだった。遊ぶな、と唐突に声をかけたフィアスに肩をふるわせつつも、悪戯を見つかった子供そのままの笑顔で、にやりと不敵に笑う。それも、両目を赤く腫らした凛の顔を見ると、消えた。真一は不安げな顔で彼女を見る。フィアスが車を走らせて十分後、ようやく真一が口を開いた。
「何があったんだよ? 凛はどうして……」
「あとで話す」
ぴしゃりと言い放ったフィアスの言葉に察するものがあって、真一はそれ以上何も聞かなかった。
 ホテルに戻ると、真っ先に凛が部屋の扉を開けた。
「今日はもう疲れちゃった。少し眠らせて。お説教なら、後で聞くから」
冷静沈着を振る舞い、あくまで優雅に言い放ったが、言葉の端々が涙に濡れている。凛は二人に背を向けたまま、素早く自室へ消えた。
 凛の背中を見送りながら、フィアスは独りごちた。
「マズイな」
事情が分からず、一人きょとんとしている真一を見て微苦笑する。
「お前にも迷惑掛けたな。今朝の電話は悪かったよ」
「いや……いつものことだし、別にいいよ。それよりも、全く話が掴めないんだけど説明してくれないか。どうして、龍頭凛は泣いていたんだ?」
 ああ。フィアスは頷いたが、中々話しだす素振りをみせない。煙草をくわえながら、ぼんやりと凛の消えていったドアの先を眺めている。まるで、見えるはずのないドアの向こうが見えているかのように。つられて真一もドアを見たが、何も見えないし、何も聞こえない。
 フィアスがふっと息をついたのは、三本目の煙草を吸い終わったときだ。
「リンが眠ったようだ。寝息が聞こえる」
「今まで、隣の部屋の物音を聞いてたのか?」
文字通り、なんという離れ業だろう。真一には、隣室から寝息どころか、足音一つ聞こえてこなかったというのに。まるで野生動物のような聴覚だ。どれだけ五感が鋭ければ身に付く技なのか。とにかく、あまり褒められた特技ではない。真一の顔を見て、何が言いたいのか分かったのだろう、盗聴なんて必要があるときしかしない、とフィアスは念を押した。
「リンには聞かれたくないことがあるんだ……とにかくキッチンへ移動しよう」