蝶の紋章


  真一の電話が鳴ったのはその日の午後だった。午前中降っていた雨が嘘のように、今では太陽が顔を出す晴天になっている。真一は笹川邸の縁側で、虹がかかっていないかと探してみたが、雲ひとつない空に群青色以外の色彩は見えない。
 最後に虹を見たのは三年ほど前、(BLOOD THIRSTY)も〈サイコ・ブレイン〉も人伝ひとづてに聞く噂でしかなかった頃だ。
 決して多忙というわけではなかったが、何でも屋の仕事が軌道に乗り始め、様々な業界からあらゆるコネクションも成立し、毎日が刺激的で、楽しくて仕方がなかった。それなのに、ハイティーンに戻りたいと思えないのはなぜだ? と思うより早く導き出された答えに、真一は笑った。
 ちょうどその時だ、ポケットの携帯電話が震えたのは。ウィンドウには「Fierce」の文字。
 思えば、跡目相続の盃以来、フィアスには会っていなかった。平気で外を歩けるような状況じゃなかったし、跡目相続の盃があのような結果になってしまい、各々への謝罪や説明でてんてこまいだったのだ。
 最終的に、笹川組の元締めは、一之瀬が務めることに決まった。一之瀬は最後まで次期頭領に真一を推薦していたが、「真一を〈BLOOD THIRSTY〉の保護下からヤクザたちの手厚い警護の元に移す」という条件と引き換えに、渋々跡目相続の盃を呑んだ。
 組長の座についた一之瀬の指揮はすこぶる順調で、ギクシャクしていた他組織との関係も徐々に回復しているようだ。
「俺はあくまで若の代理人としてお役目を果たしているにすぎません。〈サイコ・ブレイン〉の問題が無事解決いたしましたら、若とじっくり笹川組の将来について話し合いたいものです」と溜息交じりに言う一之瀬に、真一は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
とにかく、笹川組の問題は一件落着したのだ。


「よお! 久しぶりだな。元気だったか?」
真一はいつも以上に軽快な口ぶりで電話に出た。標準を〈サイコ・ブレイン〉に戻さなければ、と思うと身が引き締まる反面、ワクワクする。これからどのような敵が待ち受けているのか。これは命をかけた戦争でもあるけれど、一世一代のゲームでもあるのだ。
 受話器先からフィアスの声は聞こえてこなかった。真一は首をひねる。一体どういう事だろう。遠くの方からドタバタと騒がしい物音がする。
 息を切らせたフィアスの低い声が聞こえてきたのは、それから一分も過ぎたあたりだろうか。
――待たせたな。
「どうしたんだよ、ヤケにうるさいじゃないの?」
――いや……、ただの猫だ。
「猫?」
――何でもない。それより、動けるか?
待ってました! 真一は頭の中で準備体操をする。
「退屈過ぎて気が滅入っていたところさ! で、何をすればいいんだ? 情報収集か? 作戦会議か? 何でも言ってくれよ」
――違う、そうじゃない。頼みたいのは……おい、銃に触るな!
 また背後で物音がする。先程、フィアスの口から零れ出た「猫」という言葉を思い出して、フィアスが猫を飼い始めたのかと真一は考えたが、すぐにそれは愚問だという結論に至った。フィアスがペットを飼うなんて、動物愛護の精神だなんて、炊き立てのご飯に香水をぶっかけるくらい、ミスマッチもいいところだ。
 謎の生物がよほどうるさいのか、フィアスが英語で悪態をついている。
――ちょっと待ってろ。今、場所を変える。
直後、ドアが乱暴に閉まる音が聞こえ、ガチャリと鍵がかけられた。フィアスが閉じこもった場所は、どうやらバスルームらしい。声に微かなエコーがかかっている。
――洋服を買ってきてほしい。女物の洋服を一式。身長160センチ前後の人間が着られるものなら、センスもコーディネートもお前に任せる。とにかくこれは、空前絶後の緊急事態だ。できるだけ早く調達してほしい。
身長160cm前後の女だって? 胸底からじわじわ浸透する嫌な予感が時間経過とともに真一に確信をもたらしてゆく。数日前に間近で拳銃を向けられた時の驚きも、今しがた体験したばかりの出来事のように臨場感を伴って蘇ってきた。これは最早嫌な予感などではなく、嫌な予定にすぎなかった。
「……」
――マイチ、今は何も聞くな。
沈黙から真一の心理状態を敏感に察知したフィアスが釘をさした。受話器の向こうで扉を叩く音がする。真一は思わずすくみ上がる。
……これは慎重に洋服を選ばなくては。
……さもないと、赤の女王に首をはねられそうだ。


 真一が指定された場所は、以前「何でも屋(仮)」を立てたホテルとは違っていた。大きさと豪華さではこの前のホテルに引けを取らないが、セキリティチェックは以前より厳しく、さらにフィアスのとった部屋はセキュリティレベルが最高値にまであげられているらしく、借主が事前に来訪者の旨を伝えない限り、ロビーでは一切の取次ぎを受けない、頑固なシステムになっているらしい。てっとり早くラウンジで待ち合わせた。
 真一が数人のヤクザを従えてホテルに着くと、既にフィアスはフロントの前で待っていた。今日のフィアスは珍しくスーツを脱ぎすて、紺色のカラーシャツに、長い脚には見るからに高そうなヴィンテージを履いている。ファッション雑誌の中から飛び出てきたかと思うほどしっくりきているが、フィアスのスーツ姿を見慣れている真一としては、なんだか変な感じがした。
 私服のわけを尋ねると、フィアスは「雨に降られたから着替えた」とそっけなく答えた。
「それよりもマイチ……」
灰青色の瞳を細めると、フィアスは訝しげに真一の抱えていた紙袋と箱の山を眺めた。どの包みにもブランドのロゴが入っており、色とりどりのリボンが飾ってある。袋の数も驚くべきもので、真一は両腕を最大限に駆使して五十近くの包みを引っかけている。ボディーガード中のヤクザに荷物を持たせるわけにもいかず、購入した洋服すべてをひとりで持ってきたようだ。真一が歩くたびに袋がガサガサした音を立て、赤やピンクのリボンが揺れた。包みだけで、既にカラフルな衣装を身にまとっているようだ。
 真一から包みを半分ほど受け取ると、フィアスは言った。
「包装する必要はなかっただろう」
「プレゼント用に包まなきゃ、怪しまれるだろ。嫌だぜ、俺、女装疑惑かけられるの」
「それで、〝恋人へのプレゼント〟にしたわけか」
ヤクザをロビーに待たせ、フィアスの後に続いてエレベーターに乗り込みながら、真一は言った。
「……というよりは、〝女王様への貢物〟かな」
この世の絶望を全て飲み干したようなフィアスの嘆息をかき消すように、エレベーターの扉がしまった。


エレベーターを最上階の一つ下で降り、廊下の角を二つ曲がって、フィアスの新しく雇った部屋は突き当たりにあった。「2022」というプレートの掛かっており、ドアノブの上にはアルファベットと数字のボタンがついたパスワード入力式ロック、カード認証ロック、指紋認証ロック、複雑な構造の鍵穴が二つ、エレガントな扉のデザインを台無しにしていた。慣れた手つきで次々とロックを解除してゆくフィアス。真一は感嘆の息をもらしながら、その作業を見守った。
「すげー! 日本にもこんなにセキュリティの厳しいホテルがあるのかあ!」
真一の言葉に、二つ目の鍵穴にさした鍵を廻しながら、フィアスは鼻で笑う。
「〈BLOOD THIRSTY〉のアジトに比べたら、こんな部屋、段ボールハウスと変わらないさ」
 扉を開くと、そこは、一晩泊まるだけで最高紙幣の札束がなくなるだろうと予想がつく、ロイヤルスイートだった。まるで宮殿の大広間だ。アンティーク趣味の部屋に置かれた調度品に傷一つなく、床は複雑な模様の絨毯が敷かれている。中央には真紅のソファ。リビングの壁にはドアが五つ等間隔に設置されていることから、少なくとも4LDK以上の、高級マンション並みの間取りであることが分かる。真一の背丈ほどもある大きな窓ガラスからは、東京湾が端から端まで見渡せる。
 真一がロイヤルスイートへの記念すべき第一歩を踏み出したそのとき、ガチャリと音がして、六つ並んだドアの一つが開いた。猫のようにしなやかに飛び出してきたのは一人の女。
「真一くん!」
洋服のすそをひらめかし、真一とフィアスの持った大量のプレゼントの中に突進してきたのは、案の定、龍頭凛だった。凛が真一の胸に飛び込む。抱えていた紙箱がばらばらと足もとへ落ちた。そんなこともおかまいなしに、凛は真一の頬へ熱く口づける。キス、キス、キス。
「あたしのために、こんなにたくさん買ってきてくれたのね! ありがとう!」
 そして散らばった紙包みをせっせと拾い集め、真紅のソファの上に並べると、早速プレゼント用の包装を乱暴にひも解き始めた。丁寧にしまわれていた洋服をいったん広げ、数秒間眺めると、傍へ放る。ソファの上がみるみるうちに、ぐしゃぐしゃになった洋服と包装紙で埋まる。フィアスは疲れた顔で凛の行動を見守っていたが、やがて向かい側のソファへとどすんと腰かけた。
「おい、リン」
「わあ、アリス・オリビアにヴィヴィアンのワンピースもある! ……真一くん、分かってるじゃない」
「おい、リュウトウリン」
「こんなにたくさん着る物があると、さすがに迷っちゃうわね。どれから着ようかなぁ」
「人の話を……」
「あ、可愛いっ! これにするわ!」
花のシルエットがあちこちにプリントされたワンピースを愛おしそうに抱きしめると、凛はまるで少女のようにフィアスに微笑みかけた。
「ね、似合うと思わない?」
すぐさま凛は着ていた白の洋服――それは男もののワイシャツだった――の袖をまくりあげると、人目も憚らず、するすると脱ぎ捨てる。粉雪を振りまいたような白い肢体が露わになる。先程も白いワイシャツの下からほんのりと肌の色が透け出ていたくらいだ、当然ながらレースが施された黒いブラジャーと対になっている黒いショーツ、そして彼女の存在証明である左胸の黒蝶以外、何も纏っていなかった。恥じらいのかけらもなく、下着姿のまま、凛は大きく欠伸をする。フィアスの隣で、わお、と真一が小さな歓声をあげた。
 二人の男のことなどお構いなしに、ブラジャーのホックにまで手をかけようとした凛を、
「ここで脱ぐな!」
フィアスは乱暴に担ぎあげた。ソファに放り出されたありったけの洋服の束を掴んで部屋に向かう。その間、凛は足をじたばたさせて抵抗したが、男の力にはかなわない。五つある個室の内の一つに、凛と衣類を放り込むまで、わずか五秒。
 凛の甲高い悪態だけが、境界を飛び越えてリビングに響いたが、フィアスはなにごともなかったように澄まし顔だ。再びソファに腰を落ち着けると、真一に向かってぴしゃりと言い捨てた。
「お前もニヤニヤするな!」