3・7事件の被害者は男性が10人、女性が7人だった。神奈川から東京の間に住んでいるということを除けば、職業も年齢も出身地も皆バラバラでこれと言った接点がない。〈ドラゴン〉が無差別に殺しまくったとしか考えられなかった。
 ホテルの自室で、フィアスは何度も被害者とドラゴンの接点について考えたし、FBI時代に使っていた犯罪心理学の専門書を引っ張り出して読み漁ってみたが、ドラゴンの犯罪動機を解明できるヒントは何も得られなかった。
 精神異常でもない、快楽殺人とも違う。とびきり頭のいい人間が、自分勝手な正義を掲げて犯行に及んだというのも考えにくい。笹川から縁を切られて自棄を起こしたのかとも考えたが、頭のキレるヤクザで知られていた龍頭正宗が、そのような愚行を犯したりするだろうか。まさか、無関係に思える被害者たちと〈ドラゴン〉の間に《失われた環ミッシング・リンク》なるものが潜んでいるのか。だとしたら、どんな共通点だ? ……考えていくうちに、苦悩のスパイラルにはまるのが常だった。
 突如、鳴り響いた携帯電話の着信音が、頭の中に張り巡らされていた苦悩を断ち切った。フィアスは電話を取る。携帯のデジタル時計はAM10時をさしていた。なんと、プロファイリングを始めて2時間以上も経過したことになる。それでも〈ドラゴン〉の、人を殺した動機や事件の全貌は一向に明らかになる気配がない。
 アドレス登録を一切していない携帯の画面には名前のない11文字の数字が浮かび上がっていた。瞬時に頭の中にインプットされているアドレスと照らし合わせる。本郷真一の携帯電話だった。
 真一が笹川に保護されてから2日余りが経過している。その際4,5回真一から電話があったが、いつも同じ内容だ。今回もその可能性が高い。
案の定、
――ヤクザの頭領なんて無理だ!
と真一の悲痛な叫びが聞こえた瞬間、
「いい加減にしろ!」
フィアスは怒鳴り返していた。
「くだらない内容でいちいち電話を掛けてくるな! そんなにヤクザのリーダーになりたくないのなら、ササガワキイチに言うのが道理だろうが」
 真一が笹川の元に居候をしてから掛かってくる電話は、笹川組の自分に対する熱烈すぎる待遇の不満と、自分がその組の頭領になるかもしれないという危機感に怯える内容だった。それも決まって半日ごとに掛かってくるので、迷惑電話よりたちが悪い。3回目以降、このようにフィアスは怒鳴りつけて電話を切っているのだが、一向に迷惑電話の止む気配はなかった。
 真一は悲感にくれた声を出す。
――何とかしてくれよぉ。うちのじーちゃん、マジで俺を組長にしたがってる。今日なんて寝ているうちに刺青入れられそうになったんだぜ! このままだと〈サイコ・ブレイン〉より身内に殺されちまうって。
「だから、リーダーになりたくないのなら、ササガワにはっきりそう言え。日本人は自己主張が少なすぎる」
これ以上下らない悩み相談に付き合っている暇はない。フィアスは何か反論しようとして口を開きかけた真一の電話を無理やり切断する。たちどころに、部屋に静寂が戻ると、またプロファイリングを再開し、苦悩のスパイラルに陥る。不健康なサイクルだ。
 しかし、今度のサイクルは5分以内に変わった。つまり苦悩から携帯の電子音によって現実に引き戻される時間が5分とかからなかったのである。真一から掛かってくる電話の頻度が一気に多くなったようだ。
 予め着信音を無視していたフィアスだったが、5コール7コールと回数が増していくごとに苛立たしさが募っていき、10コール目の電子音がなり終える頃には、殺気を含んだ声で電話に出た。
「これ以上、くだらん電話を掛けてきたら、〈サイコ・ブレイン〉より先に殺すぞ、ホンゴウ!」
――まあ。
とんだ見当違いだった。電話先には本郷真一とは似つかない、甘い声が聞こえてきた。殆ど反射的にフィアスは、ディスプレイに表示された電話番号を見る。それは090から始まる日本の電話番号ではなく、国際電話だった。紛うことなくフィオリーナ・ディヴァーその人からの電話だ。
――お久しぶりですフィアス。半年ほど前にNYで会って以来ですね。調査の方はどうですか? シドから聞いたところ、さして進展は覗えないようですが。
絶句しているフィアスに構わずフィオリーナは続ける。声の音程は変わらないものの、どことなく楽しそうなニュアンスを含んでいるように聞こえるのは、彼女が部下の失言を聞き零していなかったからだろう。電話先で彼女の控えめに笑う姿が、簡単に想像できた。フィアスは早くもこの電話を切ってしまいたい衝動に駆られたが、何とか持ちこたえた。
「……すみません。今の失言は忘れてください」
辛うじて、それだけ謝る。
 その後、フィアスは、シドに伝えていなかった捜査の進行状況を概ね報告した。(フィオリーナは既知だったかもしれないが)真一の実家が〈ドラゴン〉が所属していた組だったこと、真一が何でも屋を追い出され笹川の家に居候をしていること(それからこれが重大な)龍頭彩に凛というそっくりな双子がいて、〈サイコ・ブレイン〉に属していること。
 フィオリーナは彩に双子がいたという事実は未知だと言ったが、大して驚いた様子もなかった。予想していたことが、まんまと的中した、というような感じだ。なるほど、と呟いた以外、特に言及しなかった。
――貴方の話によると、凛という女性は〈サイコ・ブレイン〉に属しつつも、〝局外者〟という立場をとろうとしているように思えます。彼女の存在でこちらが不利になることはないでしょう……今は、まだ。
フィオリーナは続ける。
――心配なのは、ホンゴウさんです。
何故、あの男の名前が出てくるんだ。フィアスは不思議に思ったが、フィオリーナの話を聞くうちに、段々と嫌な予感が胸の底から沸き上がってくる。
――ですから、貴方に命令します。
そういってフィオリーナが切り出した時には、頭の芯がきしむように痛くなり、思わず携帯電話を真っ二つにへし折ってしまいそうになった。


「ああ、やっぱ堅苦しくない家はいいなぁ」
真一が至福に満ちた笑みを浮かべ、大きく伸びをする。なめし革の黒いソファーに踏ん反りかえり、読書にいそしむ。
 向かい側のソファーに座りながら、なんて順応の早い人間なんだ、とフィアスはあきれ果てる。相変わらず、真一の図々しい神経構造は理解すること能わない。
 フィオリーナから受けた命令、それは1年前と同じように真一をガードせよというものだった。〈サイコ・ブレイン〉は、自分たちは元より、BLOOD THIRSTYをも攻撃の対象としているらしい。組織間の戦争に発展する可能性があるとまで言われた。
――ですから、絶対にホンゴウさんから目を離さないでください。今〈サイコ・ブレイン〉から最も近い相手で、最も殺しやすい人間はホンゴウさんです。
 目を離すな、と言われても真一は笹川家に厄介になっている。手練のヤクザがごろごろいる笹川邸なら、〈サイコ・ブレイン〉も迂闊には手を出せないだろうとフィアスは反論したが、結局上司からの命令には逆らえなかった。
 こうして自分の部屋のすぐ向かい側に「何でも屋・事務所(仮)」を設置してから、今日で2日が経つ。真一は笹川の家から抜け出せたことが何よりも嬉しいらしく、常に上機嫌で漫画を読んでいる。この男には「危機感」いう文字もなければ「遠慮」という文字もないようだ。
「フィオリーナから〝ガード解除〟の命が下り次第、直ちにこの部屋は引き払うからな」
そうは言うものの、一体いつフィオリーナからそんな命令が下るのか、フィアスには皆目見当がつかない。一刻も早く自分の部屋の前から「何でも屋(仮)」の看板を消してしまいたいのだが。
 真一は自宅から持ってきた漫画を全て読み終わると、鼻歌交じりにソファーから立ち上がる。部屋に設置されてある冷蔵庫をあけると、中からサイダーを取り出した。これは真一の飲み物ではない。元からこの部屋に用意されていたものだ。ちなみに、冷蔵庫には缶ビールも数本冷えているのだが、相変わらず真一は手をつけようとしない。
「本当この部屋、何でも揃ってるよな。俺の事務所よりも広いし」
「何より、床が傾いていない」
フィアスが言うと、真一は笑った。NYに高飛んだ時に雇った部屋は、ありえないくらいに床が傾いていたのだ。
「おまけにここ、眺めもいいしな。東京湾も近いし」
真一は部屋の窓から外を見渡す。地上から10m離れているこの部屋からは、東京湾が見渡せた。雲ひとつない晴天だというのに、東京湾は今日も灰を降り注いだような青藍の色をしている。遠くには貨物船の灰色が、蜃気楼のように淡く揺らめいている。
〝東京湾のこの色、何だか貴方の瞳みたいね〟
 ふと、あの女が言っていたことを思い出した。
 彩と同じ血を持つ女、龍頭凛。自身の正体を明かして、彼女は忽然と姿を消してしまった。〈サイコ・ブレイン〉の元へと帰ったのか、それとも未だ自分の近くに潜んでいるのか、フィアスには分からない。ただ、彼女につけられた首筋のルージュの後は、未だに消えないでいる。
「あれ?」
素っ頓狂な真一の声に、フィアスは数日前に会った女の幻影から現実に引き戻された。真一は冷蔵庫近くの窓から身を乗り出して、一心に下方を覗き込んでいる。
「何だ」
訝しがってフィアスも窓に近づくと、真一は下階を指差す。
「今日はやけに警察の車をよく見るなって思って。ほら、また7台来た。あと護送車っぽいのも」
 真一に促されるままに目下を窺えば、サイレンをあげながら何台ものパトカーが通過するところだった。正統的な白と黒の日本のパトカーから、覆面車、黒い特型警備車と思しき車まで、立て続けに道路を行きかう。どの車もパトライトを点灯させ、騒がしいサイレンを鳴らしながら通り過ぎてゆく。やがてそれらの車が見えなくなると、妙な静寂が腰を下ろした。
真一がポツリと呟く。
「事件かな」
「だとしたら、かなり大規模だ。ニュースになっているかも知れない」
フィアスは自分が腰掛けていたソファーに戻ると、テーブルに無造作に放り出されていたTVのリモコンをとる。そして、冷蔵庫と同じく、元からこの部屋に設置されていた24型TVのスイッチを入れた。次々と画面を変えると、或るニュース番組に行き当たった。臨時のニュースが入ったようだ。男性のニュースキャスターが事件を報道している背後で、裏方の人間が忙しなく動いているのが見える。ニュースは中盤に差し掛かっているのか、中々内容が掴めない。キャスターが早々に事件発生時刻を告げた後、画面が切り替わった。どうやらLIVE中継に接続したようだ。TV画面の斜め上のテロップには、見慣れた横浜の町名が記されている。そして「立てこもり事件、既に1時間」という意味深い見出しも躍っていた。
「近いな。ここから車で20分もない」
TV画面に、現場で中継しているらしいリポーターが現れた。
『只今、立てこもり後1時間を回ったところです。警察側は懸命な説得を試みていますが、犯人は未だ投降する様子はないようです。人質となっている学生の情報は……。』
 真剣な顔つきで事件の概要を喋るリポーター。
 立てこもり事件は今から1時間前、10時半頃に元暴力団組員の男が私立高校に突如乱入し、その場にいた学生数名を人質に取り、立てこもりを続けているというものだった。
 今のところ確認されている武器は、拳銃のみ。警察側は、説得を試みる傍ら、半径100m内の住民を避難させるなどという対策をとっているらしい。やがて、TV画面がヘリコプターによる上空からの撮影に切り替わったが、特別注目すべき点はなかった。放送局側もそう思ったのか、またカメラが地上の中継に変わる。
 映されたのは、黄色い立ち入り禁止のテープが張り巡らされた住宅街だった。テープの前には数人の警官が、群がるマスコミや野次馬の波に溺れながら、それでも彼らを中へ入れまいと、必死に職務をまっとうしているところだった。TV画面の左上のテロップが「神奈川私立須賀濱高校かながわしりつすがはまこうこう」と変わった。
 同時に、真一はサイダーの空き缶を思い切り握り締めた。握力でアルミ質の薄い缶はひしゃげ、飲みかけの炭酸が吹き零れる。
「須賀濱って、茜が通ってる高校だ。あいつ、ここ連日補講が入ってるって……」
べたつく炭酸も気にせずに真一は画面に見入っている。フィアスはテーブルの上に置かれた携帯電話を取ると、真一に投げた。
「掛けてみたらどうだ」
受け取ると、真一はすぐさまボタンを押す。電話を耳に当たまま、数秒ほど真一は動かなかったが、やがて苛立ちながら電話を切る。
「くそっ! なんであいつ、出ねぇんだ!?」
 頭をガシガシと掻き毟る真一を横目に、フィアスは様々な番組にザッピングする。今や全てのTV局がこぞって臨時ニュースを流している。どれも似たり寄ったりで、立てこもり事件から1時間が経過していることや住民の避難体制、警察側の動向しか取り上げておらず、人質の情報には何一つ触れられていなかった。警察も人質に関しての情報は曖昧なものしか掴めていないらしい。それ故、報道規制が掛かっているのかもしれない。フィアスはポケットから自分の携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をかける。
 日本語とは違う発音に、TV画面を食い入るように見つめていた真一がフィアスに目を向けると、彼は腕時計とTVを交互に見ながら英語で誰かと話をしているようだった。4,5分で、早口の会話を終わらせるとフィアスは携帯電話を元の場所に戻し、ソファーから立ち上がる。
「オイ、どこに行くんだよ?」
真一がフィアスを呼び止めると、フィアスは車のキーを見せた。