マンション団地が連なる住宅地の中に、ある程度人家から距離をとって4階建ての校舎がそびえている。一文字型の校舎の片側には、もう一つ似たような建物が高校と背中合わせになるように建設されている。神奈川私立須賀濱高校かながわしりつすがはまこうこうは中高一貫なのだ。もう一つの建造物は姉妹校にあたる神奈川私立須賀濱中学かながわしりつすがはまちゅうがくである。高校は東側に、中学は西側に校庭を持つこの二つの学校は上空から俯瞰ふかんするとさながら蝶が羽を広げたような形に見える。高校を中心に半径100m以内に住民非難令を出したためか、線を越えた先は警察官がちらほらいるだけで無人地帯となっている。一方で、住民非難令が適用されるか否かの半径100m地帯ではありとあらゆる報道局の車が道路の真っ只中であろうとお構いなしに、押し合い圧し合いして駐車されているのであった。
 それよりももっと遠く、高校から半径150m付近でフィアスは車を止めた。明らかに人家の駐車場なのだが、フィアスが何やら懐から手帳のようなものを取り出すとその家の主人は快く駐車を承諾した。
「左ハンドルの車に初めて乗ったよ」
 真一はそんな感想を呟きながら、助手席から降りた。フィアスは車のサイドボードにキーを投げ入れると、ろくにロックもかけずにBMWのドアを閉める。高校へ続く国道を歩きながら、フィアスは携帯電話のボタンを押した。少ないコールの後に相手が電話に出る。フィオリーナだろうか、フィアスは始終英語なので真一には少しも理解できなかった。
 半径100mの地点はマスコミのカメラとマイクに支配されていた。少しでも他局より良い情報を仕入れようとその手の人間が光に吸い寄せられる蛾のように黄色い一線に集中している。そこには立てこもり事件を「事件」とも思わないような激しい喧騒が渦巻いていた。唯一の救いは、マスコミより先に警察が事件現場に駆けつけたことだ。報道規制を掛けなかったら、マスコミは情報を求め学校の校門まで押しかけていたに違いない。警察は頼みの綱であるバリケードの前に両手を広げて往生し、報道陣の暴走を食い止めている。彼らとしても派手に罵倒したいところだろうが、職務上、無言のまま力技だけにとどめている。ここでも一種の戦いが繰り広げられていた。フィアスは電話先の人間に短く別れを告げると電話を切った。眉を潜めた顔で、無茶な前進を図っているマスコミ陣を一瞥する。真一もこの人の群れには閉口した。
 それでもフィアスはすぐに群れの中へと歩を進めた。もちろん、向かうは立ち入り禁止の境界線。器用に人を避けながら、早い歩調のまま奥へ奥へと進んで行くので、真一も慌ててその後を追った。不思議なことにフィアスが通ると周りの人間は少し身を縮めて道を明ける。傍ら、真一の行く手は気の強い報道陣に阻まれ中々前に進めない。どんどんフィアスとの距離が広がって行くので、真一は半ば人込みを押しのけるようにして先を急いだ。
 ついにフィアスの背中が見えた時、彼は片手で大型のカメラを退かしながら、青い制服に身を包んだ警察官と話をしている所だった。カメラの持ち主であるマスコミ関係者が何やら罵詈雑言を浴びせているが、もちろんフィアスの耳には入っていない。
 フィアスは事件の概要でも聞いているのだろうか。はた迷惑な野次馬だ、と真一は思った。
 フィアスは振り返って真一の姿を見とめると「やっと来たか」と呟いた。そしてこの人ごみの中、身をよじって自分のスーツの上着を脱ぎ、真一の頭に被せかけるので、真一はギョッとした。視界が見る間にスーツの上着で遮断される。なにも見えないし、香水くさい。
「おい、何するんだよ」
「いいから、身をかがめて大人しくしてろ。それから小声で話せ、マイクに声を拾われる」
不可解なことを言って、フィアスは警察に向き直る。
「失礼する」
 そして黄色の立ち入り禁止のテープを持ち上げると警察関係者でもないのに事件現場へと足を踏み入れた。左手で後頭部を押さえつけられ、真一も渋々テープをくぐる。驚いたことに警察機関とは無関係な自分たちが立ち入り禁止区域に足を踏み入れても警察は何も言わなかった。それどころか、マスコミから真一を保護するように、真一の背後に立って画像流出を防ごうとする。警察署へ護送される犯人の気持ちになりながら、マスコミの喧騒が聞こえなくなるまで歩き続けた。何だか嫌な予感がした。
 住宅地の角を曲がりマスコミの姿が完全に見えなくなると、フィアスは真一の頭から上着を剥がし、二三度扇いでから羽織った。あれほどまでに騒がしかった住宅地が今では風の音すら聞きとれるほど閑寂としている。当たり前だが人の姿は見えない。一般人から一転して、事件関係者になり代わってしまった。
「ここは報道が規制された立ち入り禁止区域だ。故に、マスコミがいない。お前の姿を隠したのはカメラに写されないようにするためだ。命を狙われている人間の姿が全国区に報道されても良い事がない。これからこの事件が〈サイコ・ブレイン〉に関係のあるものかどうか確かめに行く。俺は〈サイコ・ブレイン〉との関連性が非常に高いと思っている。お前を連れてきたのは不本意だが、フィオリーナの指示だから仕方ない。できる限り目立った言動は慎め。例えお前の知り合いが人質になっていても、こっちはあくまで傍観者だ。……質問があるなら受ける」
機械的な声でフィアスは説明する。現場に入って騒がれる前に、ここで話をつけておく必要があると思ったらしい。真一はBLOOD THIRSTYの強引なやり口に暫くげんなりとした。フィアスは腕を組んだままそんな真一を見ていたが、真一が何も言わないので、やがて目的地に目を向けた。歩き出そうとしたフィアスを真一は止めた。
「……一つ」
「何だ」
「BLOODTHIRSTYって人命救助の仕事をする?」
しない、と短く答えフィアスは煙草を取り出す。


 校門は完全に開け放たれていた。「神奈川私立須賀濱高校かながわしりつすがはまこうこう」との表札が片門に掲げられている。門の両側には門番のように警察官が仁王立ちしている。フィアスは懐から先ほどの手帳を取り出し、二人の警察官に見せた。今度は真一にもそれが何なのか分かった。どうせお得意の偽装であろうが、よくできた警察手帳だ。
「ごくろうさまです」という警察官の声にフィアスは軽く頷きを返し中へ入る。真一は警察の哀れみを含んだ目線に当てられドギマギした。
 彼らは真一を人質の親族だと思っているらしい。そうでなければ、真一のヤンキーファッションに、門前払いを食らわしていたところだろう。
 校門を抜けると大きな玄関口が見えた。入口からアスファルトの整備された歩道が続き、数本の外灯が生え、歩道以外のスペースは人工芝生が風にそよいでいる。須賀濱高校は教育だけではなく外観にも力を入れているらしい。玄関より少し手前にある小さな広場のような所に指揮本部が設置されているようだ。即席で作られたテントが二棟用意されており、そこだけがトレンディーな学校の玄関先には不似合いだ。
 テントの内部では数名の刑事と警官が一脚の長机を囲むようにして話し合いをしている。腕組みをしたり煙草をくわえたり顎に手を当てたり、警官たちの仕草は様々だが、顔は揃って曇り空だ。彼らは沈黙を繰り返しては、ポツリポツリと芳しくない善後策を提案していた。机には、犯人からの連絡を待っているのだろう電話があり、その前で交渉人が待機している。しかし、50分前に犯人が人質開放条件を提示してから、再び電話の鳴る気配がない。中々犯人とコンタクトの取れないことが、警官たちを行き詰まらせているそもそもの原因なのであった。
 足音を聞いて、警察が話し合いを止めて振り向いた。誰しも怪訝な顔をして二人を見る。この状況に不釣り合いな金髪碧眼の男、さらに不釣り合いなヤンキー風情。誰だ? と刑事の中の一人が呟いた。
それに応えるように、
「本庁から特別任務の依頼を受けた。ジャック・テイラーだ」
偽名を名乗るとフィアスは警察手帳を明示した。警察の目が疑わしげにフィアスを睨む。特別任務? 聞いていない、というのが警官たちの主な疑問点にしろ、名乗った人間が文字通り自分たちとは違う人種・・だということや、外見が自分たちの部下よりも若いということも怪しいと思える要素の一つとなっていた。経験の浅そうな若造が特別任務など与えられるわけがない。例えそんな任務を与えられていても信用できないというのが刑事たちの私見だ。
 彼らの不満を代表して、一人の刑事が言った。
「俺は本庁の岸本だが、上部うえからは何も聞いていない」
「カノウ警視長から直に指令があった」
表情を変えず、フィアスは言う。警視長という、一周り上部の名前を出され岸本警部は表情を険しくさせた。岸本警部同様本庁から派遣された一課の人間、神奈川県警の人間も叶警視長の名前を聞いて、好奇と猜疑さいぎが入り交ざった目でフィアスを見つめた。中には、突然の来訪者に捜査班の連帯を乱されるのではないかと懸念して、あからさまに嫌悪を示している者もいる。表には出していないが岸本警部もその一人だった。
「貴方を疑っているわけではないんだが、」慇懃な態度で岸本警部は言った。
「少し、俺の上司と話をしてくる。その、聞かされていなかった件について」
上司に遠まわしな文句でも言いたいのだろう。フィアスは快く許可した。
「どうぞ」
 岸本警部はスラックスのポケットから携帯電話を取り出すと、テントから出て行った。それを合図に残った警官の視線も辺りに散らばった。机の上に投げ出された学校の見取り図は既に目を引くものではなくなっている。警察側もうだるような暑さの中、二時間もテントの中に引きこもって紙と睨めっこをするのに辟易したのだろう。岸本警部が戻ってくるまでを期限に、一時休戦の態勢を取っているようだ。
 フィアスは壁際に立ちながら、机の上にある見取り図に目をやった。以前描かれたものをコピーしたようだ、見取り図は間取りを示したインクが所々滲んでいて、色が濃い。犯人が立て篭もっている場所は、東棟4階の真ん中の部屋。2―Aの教室に赤いペンで丸が付けられている。特殊部隊の配置は完了したようだ。
 具合の良いことに、高校と中学の校舎が接合しているため、中学校の教室から渡り通路を挟んで真向かいに事件発生現場がある。中等部3―Cの教室に緑色のペンで丸。その下階生活指導室に丸。中等部、屋上に丸。2―Aの教室の東側、つまり校庭側には何も書かれていない。警官を配置できるような建物がないので当然だ。辺りは民家ばかりなので、射撃に仕えるような高い建物もなかった。
 犯人確保や突撃命令が出た際には、一斉に西側から襲撃する。なし崩し的に考えられた、妥当な配置だ。
「おお?」と野太い声が聞こえて、フィアスはテントの入り口を振り返った。紺のスーツに身を包んだ、岸本警部ではない新手の刑事が驚いた顔で二人を見ていた。厳密に言えば、フィアスの隣にいる真一を、その刑事は小さな目を丸くして凝視しているのだ。
 その刑事は、形容しやすい、特徴的な外見をしていた。弾力性がありそうな丸い体に合った大きな顔に不機嫌に釣り下がった眉と口、まぶたにに覆い隠されそうになっている腫れぼったい目は、よく肥えた野良猫そっくりだ。年齢は40代後半から50代前半あたり。視線は他の警官同様鋭いが、身体のあちらこちらに長年運動を控えてきた末の弛みが目立っている。
「真一、どうしてこんなところにいるんだ?」
刑事は、腹の底から唸るような声を出した。やはり真一と知り合いだったようだ。曖昧な笑みを見せる真一の代わりに、フィアスが説明した。
「上部から緊急要請の依頼を受けました。彼は、現在私の部下です」
「部下? 真一は、ヤーさんだけじゃなくて警察機関おれたちからも仕事を受けるのか? 初耳だな」
刑事はぴりぴりと張りつめたこの状況に似合わないほどひょうきんな声をあげる。両手を広げ、大仰に驚いた仕草をした。
 随分、何でも屋の事情を知っているようだ。横目に真一を見ると、真一は部下という言葉にげんなりしたのか、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。フィアスは刑事に向き直ると尋ねる。
「貴方は俺の部下と少なからず面識があるようですね?」
刑事はああ、と呟くと、他の刑事たちと同様、怪訝な顔でフィアスを見た。改めてフィアスとこの現場の不一致に気がついたようだ。どこかに一服でもしに行ったのだろう、先ほどのフィアスと岸本警部のやりとりを聞いていなかったと見える。フィアスが再度自己紹介をすると、刑事はやっと合点がいったようだ。
「警視長のお偉いさんも、妙なことをするもんだな」という刑事の言葉に、フィアスは曖昧な笑いを返すしかなかった。
 厳密には、叶警視長が自分を動員したわけではない。フィオリーナが叶警視長に掛け合い、フィアスの捜査への参加を承諾させたのだ。フィアスにはフィオリーナの命で動いているという感覚しかない。
 フィオリーナはBLOOD THIRSTYの本拠地であるアメリカの警察機関とは特に結びつきが強いが(一年前のNYで麻薬倉庫に籠城した時もフィオリーナはNYPDの上部の人間を顎で使っていた)、日本の警察組織とも少なからず繋がりがある。こんな風に彼女の一声で警察機関を始めとする、国家機関の重役が動く。その交渉が電話一本なのだから、インスタントなものである。
話が一区切りしたところで、思い出したように刑事は自分の名前を名乗った。
「ああ。おれァ、神奈川県警の荻野ってモンだ。握手はナシで良いよな。なにせ、おれの娘が捕まってるってんで、悠長な挨拶をしてる暇がないんでね」
 大方、そうだろうとは思っていたが、やはり荻野茜の父親、荻野総次郎刑事であったようだ。同時に、茜が人質として捕まっているという確信的な情報。それを聞いた真一の、生唾を飲む音が聞こえてきた。
 フィアスが真一の方を見ると、ちょうど真一と目が合った。真一は何か言いたそうな顔で、ずっとフィアスを見ていたが、やがて口を開いた。
 言葉が口をついて出る前に、フィアスは軽く首を振ってそれを制す。真一は眉をひそめる。歯がゆそうに後頭部をむしゃむしゃと掻いていたかと思うと、やがて小さく舌打ちをして、真一はテントの外へ出て行った。