「も、もう勘弁してくれや兄ちゃん。ワシが悪かった……」
喋っている間も口から血を吐きながら、兄貴と藤崎が土下座した。兄貴は右上に大きな青あざを作った上、前歯が二本欠けている。藤崎は内出血がひどく、青や赤、黄色や紫と顔中がカラフルだ。高級スーツできめていた二人が、見るに耐えない容姿になってしまったのも、僅か十分間の出来事だった。頭を下げる二人の目の前には、フィアスが立ちはだかっている。服装一つ乱れもせず、歪んだ口端にくわえられた黒色の煙草から、パイプのような甘い匂いが香っている。フィアスはくわえていた煙草を、地面に吐き捨ててすり潰した。血塗れたナックルをスーツの袖口できれいに拭うとポケットに戻す。辺りを見回すと、どさくさにまぎれて北村という男は消えていた。
「まさか、S組がここまでとはな……」
兄貴が呻きながら呟く。顔は土下座をしたまま、地面とは十五センチの距離を保っている。
「やっぱシマ荒らすんは、ヤバかったな」
「お前たちの他にも、S組の名を名乗っているやつがいるだろう」
「まあな。ワシらだけでは、S組が出てきて制裁加える程の騒ぎにはならん」
意外にも潔く、兄貴が自白する。
「ワシら以外にも、お仲間はぎょうさんおるわ」
「そいつらとは、同盟でも組んでいるのか?」
兄貴は豪快に笑った。やっている事はチンピラ並みにせせこましいが、兄貴の人間性は大物のようだ。ひとしきり笑った後、兄貴は睨むようにフィアスを見上げた。
「同盟なんてそんな大それたモンやない。ただの組合や。自分らで稼いだ利益は自分らのモン。ワシらの組合は、上も下もない」
「組合を入るとどんなメリットがあるんだ?」
「メリットも何も、S組にバレんようにお互い助け合いましょーみたいな仲良しこよしの結束やねん。危機が迫ったら商売人同士、教えてやるだけじゃ」
「つまり、そいつらとは連絡が取れるんだな」
「ああ、まあ……」
フィアスは兄貴の胸倉を掴み上げると立ち上がらせた。兄貴はしぶしぶ従い、藤崎もつられて立ち上がった。
「あんた達のことを信用する。だから伝言を頼みたい。その組合に入っている人間全員に」
了承代わりに兄貴が横道に血痰をぺっと吐いた。自分より十センチほど背の高いフィアスを睨むように見上げる。
平生の強気な態度で、
「何や、言うてみい」
「ああ……」
フィアスはため息をつくと、咳払いをした。真一に、これだけは伝えておくようにと言われた言葉を思い出す。S組の組長にシマ荒らしのヤクザを一人捕まえて、伝言しておくようにと頼まれたのだそうだ。しらみ潰しにシマ荒らしを捕まえて痛めつけるより、一人に警告を送り、グループ全体に伝達させる方が効率が良いらしい。自分としてはしらみ潰しにシマ荒らしを痛めつけていく方がはるかに楽な作業なのだが、依頼人の要望とあっては仕方ない。
“おらぁ!”という威勢の良い一喝と共にフィアスは口火を切った。
「お前ら、何、うちのシマでデカイ面しとんじゃあ! 今まで大目に見とったが、ここまでタチが悪いと、もう黙ってられん。笹川の兄貴に話しつけて、お前らを潰す事に決めたわ。仲間うちに早ぅ話つけんと、明日からシマを荒らす連中は、片っ端から指落として東京湾底に沈めたるから、覚悟しぃや!」
ヤクザ映画の常套句とされているような脅し文句を並べ立て、フィアスは怒鳴った。今までヤクザを相手に数え切れないほどの乱闘を繰り広げてきたフィアスだったが、ヤクザ言葉で啖呵を切ったのは今日が初めてだ。S組長の脅し言葉は、言っている自分でも理解不能だった。だいたい、日本語の使い方がおかしい。
「……だそうだ」
取ってつけたような言葉で締めくくると、フィアスは掴みあげていた胸倉から手を離した。居心地の悪さと同時に、思わずため息が漏れる。
兄貴は眉を潜めた顔で、ずっとフィアスの言葉を聞いていたが、やがて乱れたシャツの襟を正すと、ニヤリと笑った。
「ハナから、おかしいなとは思っとったんやけど……兄ちゃん、組の人間とちゃうやろ?」
「……」
返す言葉がない。足元を見られたような気がした。暗い面持ちのまま黙っているフィアスを見て、兄貴はふっと息をついた。
「まあ、そこは目ぇ瞑っとくわ。人には色々事情っちゅうモンがあるしな。ワシがちゃんとヤクザ言葉らしく変換して、ダチに伝えておいてやるさかい。安心しぃ」
どこか同情するような雰囲気で兄貴に言われ、フィアスは苦笑した。
ヤクザに情けを掛けられるとは、俺も堕ちたもんだな、と心の中で呟かずにはいられなかった。
「何でも屋」の仕事は、武力だけでは解決できない問題が多いと聞いていたので疲れるとは思ったが、これほどまでとは。体力よりも精神力の消耗の方が激しいなんて、誰が知っていただろうか。


電話を鳴らす、三回も呼び出し音がしないうちに真一が出た。これは真一の、快挙とも言うべき速さだった。
「終わったぞ」フィアスはそっけなく任務完了の報告をする。
――あ、ホント。案外早かったな。何でも屋、初仕事にしては上出来だ。
真一が先輩面で評価する。電話の向こうでは、微かだがピアノの音が聞こえた。この調べはショパンだろうか。とにかく、真一が仕事をする時の姿勢でないことは確かだ。フィアスも自分のホテルに帰りたい衝動に駆られる。
さっきの出来事で、また持病の直下型頭痛が襲ってきたので早く眠りたい。
「もう帰ってもいいか?」
――ちゃんと、ヤクザっぽくしたか?口調とか身なりとか……
「事は通じた」
真一の質問は無視する。 電話を耳にしながら、ちらりと背後に視線をやると、既に誰もいない。先ほどのヤクザ二人はとっくに身を翻して去っていったのである。あの二人がちゃんと仲間内に今夜のことを伝えるかどうかは分からなかったが、一応手は尽くした。ここから先は信用取引だ。まだ「義理と人情」という仁義があのヤクザたちに残っていれば良いが、明日本物のS組に東京湾底にたくさんの人間が沈められても、それはそれで現代のヤクザらしい末路でもある。
――ま、大丈夫だろ。一応警告はしておいたんだ。後はなるようになるさ……それより、飲みに来ないか。
真一が唐突に話題を変えたので、フィアスは訝しんだ。
「何だ」
――酒の旨い店がいるんだ。奢るよ。
「……また何か裏があるんじゃないだろうな?」
――アンタはどこまで俺を疑えば気が済むんだよ。
真一が朗らかに笑ったが、油断は出来ない。笑いながら、さらっと非常識なことを口にするのが本郷真一という人間なのだ。
――とりあえず、仕事の報告も兼ねて俺の事務所に来いよ。あ、酒の旨い店はうちの下のBARだから、やっぱそっちに来てくれ。
長い沈黙の後に、了解、とだけ返事をしてフィアスは電話を切った。銀座の繁華街に戻り、タクシーに乗り込む瞬間に、先程切った啖呵の意味を詳しく真一に聞いてみたいような気がしたが、考えなかったことにした。