BARの扉を開いた。カランとカウベルが鳴る。初夏のそれなりに暑い夜には涼しげな音色だ。
クーラーの利いた店内。テーブル席一つにつき頭上には仄かな明度のライトが一つ灯っている。昔見たマフィア映画にこういった照明のテーブルが出てきたことをフィアスは思い出した。羽虫の飛び交う薄暗いライトの元、四人のマフィア達がポーカーに興じたりするのだ。
カウンター席はテーブル席とは反対に、煌々とした強い照明で色付けされていた。酒のグラスをより美しく見せるために、強い肌色の照明が当てられている。十三あるカウンター座席の右から三番目に真一が座っていた。
「お疲れー」
気だるい挨拶に迎えられて、フィアスも隣の席に着く。ぐるりと店内を見回すと、自分達以外に誰も客がいないことに気づいた。余計な世話かもしれないが、この店の営業状態が気になる。
「いらっしゃい。見ない顔だね」
カウンターを挟んで向かい側に、マスターと思しき男性がにこにこしていた。西欧の顔つきだが、彫りが浅い。日本語も流暢に操っている、日本と海外の混血児らしかった。
どうも、とフィアスは挨拶する。
「真一の友達に、ヤクザとヤンキー以外の人もいるなんて驚きだよ」
マスターのルイスが真一に皮肉を言う。真一はけっ、と吐き捨ててコーヒーを啜った。ミルクの濃い匂いが辺りに広まった。
「酒、飲まないのか?」
フィアスが言うと、真一は暫く黙っていたが、
「飲めないの!」
と一言呟くとカウンターの上に飲み終わったコーヒーカップを置いた。
「元から、日本人は酒に弱い質なんだよ。俺はその特徴が顕著に出ているだけであって、これが日本人のあるべき姿なんだよ。あっ、お前、同情すんなよ?」
一気にまくしたてると、真一は新たに注文したジンジャーエールを豪快に飲み干す。グラスに注がれていた150mlほどのジンジャーがあっという間に消えうせる。音を立ててグラスをカウンターに置くと、真一は息をついた。恨めしげな顔でフィアスを見る。
「いいよ、こんな俺のことは気にしないで、好きなように一杯やれば良いじゃんかよ」
お次に真一は、ウーロン茶を注文すると、ごくごく飲み始めた。ヤケ酒ならぬ、ヤケ飲料水である。また一気飲みして息をつく。フィアスは、酒を頼むことも忘れて、真一の飲みっぷりを眺めていた。世の中には様々な人間がいるものだ。自分がめっぽう酒に強いので、弱い人間の気持ちは分からないが、それなりに苦労があるらしい。
さんざん酒以外のドリンクを飲み干すと、真一は席を立った。
「あー飲み過ぎた。便所行ってくる」


「真一は、酒のことでとやかく言われるのが嫌いなんだよ」
真一が席を外すと、すかさずルイスが言った。
「自分が酒に弱いこと、気にしているみたいだから」
「人を酒の席に呼んでおいて、面白い奴だな」
フィアスは、真一が飲みを終えたウーロン茶のグラスに目をやる。氷は溶けるまもなく、空になったグラスの底で輝いている。
「親子盃の時なんか、どうするんだか……」
ルイスが空になったグラスを下げながら呟いた。親子盃? フィアスはルイスの言葉を反芻する。
「おや、君は知らないのかい?」
「何を」
「そうか。じゃあ、直接真一に聞いてみなよ。多分教えてくれるから」
眉間に皺を寄せて訝しがるフィアスに、ルイスは意味深な微笑を返した。


「次は、ラムネソーダね」
再び真一が炭酸の名を口にする。相変わらず、カクテル、ビール、焼酎、ワイン……酒の名前は一言も口にしない。
ラムネソーダは切らしていて、今は酒に割る炭酸しかない、とルイスが応えると、真一はそれを貰って飲んだ。
「さてと、君は何かいるかい?」
ルイスに注文を聞かれて、フィアスは自分がまだ何も注文していないことに気がついた。真一の豪快な飲みっぷりを横で見ているだけで、胃に水が満ち足りたような感覚がしていたのだ。カウンターを見てもメニューはない。自分が養ってきた酒に関する知識からオーダーするシステムのようだ。中々、通な店である。
「カクテルは」
「一通り作れるよ」
「セブンス・ヘブンはあるか?」
「№1で良いかい?」
「№2で頼む」
そう、と呟いてルイスがドライジンを取り出した。グレープフルーツジュースにマラスキーノを少々入れてシェイクする。瞬く間に、カクテルグラスに白い液体が注がれた。グラスの縁にはミント・チェリーが輝いている。
「№1と№2って何か違いがあるのか?」
フィアスが白いカクテルを飲むのを眺めながら、真一がルイスに聞いた。
「№1は欧州系、№2はアメリカ系のカクテルなんだよ。№1と№2では味も色も違う。てっきり君なら、№1を頼むかと思ったんだけどね」
「なんで?」
と聞いたのは、フィアスではなく真一だった。フィアスは黙って酒を飲んでいる。ルイスはうーん、と唸った。
「何でって言われてもなぁ……№1の方が、彼の地元の味に近いんじゃないかと思ってさ。海外の人は、自分の故郷の味に似た酒を選ぶことが多いから」
「生憎だが、№1より2の方が好きだ」
と呟いたのはフィアスだ。飲み終わったカクテルグラスをカウンターに置くと、とん、と軽い音がした。
「君はアメリカの生まれなのかい? 西欧の人のようなにおい・・・がするけど……」
フィアスは一瞬考え込むような素振りをしたが、僅かに首を振る。
「記憶にない」
「そうか」
ルイスはそれ以上深くは聞かなかった。真一は眉間に皺を寄せて、フィアスを見ている。そりゃあ、どういうことだよ? とデリカシーのない真一が聞く前に、ルイスはブラックコーヒーをカップに注いで出してやった。人間、誰しも色々と込み入った事情があるものなのだ。それを根掘り葉掘り追及するのはよくない。
「ほら、それ俺のおごりだから、飲んだらもう帰れ」
「え、ホント?」
真一は、訝しがっていた表情を消して、上機嫌でコーヒーに手をつけた。コーヒー一つで、ここまで気をそらすことができる人間も珍しい。そして、ブラックコーヒーにミルクもシュガーも入れずに一気飲みできる人間も真一くらいだろう。酒が弱い代わりに、味覚は変に強くなっている。
「最後に、“ショットガン”をくれ。酒は何でもいい」
ブラックコーヒーを熱がりながらもごくごく飲んでいる真一を横目に見ながら、フィアスは言った。この店に入ってきてから、ずっと無表情を維持し続けている彼の顔がどことなく楽しそうに、ルイスには見えた。
「はいはい、ショットガンね」
ルイスはそ知らぬ顔でショットグラスにロックの氷を注ぎ込むとテキーラを注いだ。続いて、トニック・ウォーターをテキーラよりも少量注ぎ、上から清潔な布巾をかぶせる。ここまではなんの変哲もないただの炭酸割りなのだが、ここから先が劇的に凄まじい。文字通り「ショットガン」なのである。
「よっ」
ルイスの小さな掛け声に反して、バァン! とまるで銃声のような大音量を立てて、グラスがカウンターに叩きつけられた。これほど派手な音をたて、動作をしたにも拘らず、中身の酒が一滴も飛び散っていないのはプロのなせる技だ。
「うおっ!?」
不意を突かれた真一は、思いっきり肩を震わせて驚いたと同時に、椅子から転げ落ちていた。それでも器用なことに、真一の手はブラックコーヒーを一滴も零さず、きちんとカップを握っている。まだ、何が起こったか分からないようで、目を白黒させて隣のカウンター席を眺めている。カウンターには、布巾を取り外されたショットガン・スタイルのテキーラのトニック・ソーダ割りがしゅうしゅうと白い泡を立てていた。
ショットガン・スタイルとは最後の極めつけの一撃により、泡立つことで有名なテキーラの飲み方なのである。本来は景気付けや、大人数で酒盛りをする時に遊び感覚として用いられるのだが、こういう・・・・使い方もあるとは……ルイスは笑い声を押し殺すのに必死だ。
「なんだそれ……爆弾でも入れて作ってんのかっ?」
酒が飲めない、酒には詳しくない真一が仰天してショットガンを眺めている。
フィアスはカウンター席から真一を見下ろし、
「ショットガンは楽しいな」
満足そうに呟くと、炭酸のきいたテキーラを刑事ドラマのように荒々しく飲み干した。