横浜市内のホテルに滞在予約を入れた。
笹川邸とエルザのホテルの中間くらい。科学館へは一時間……いや、三十分程度で着く。
世間を震撼させたテロ事件は、未だに尾を引いている。人々は外を出歩かない。外国からの観光や視察は続々とキャンセルが出ているらしい。怪我の功名というのか、要人が使う広々とした高層階の部屋がすんなり取れた。
俺の実家に戻ってきなよ、と真一は最後まで食い下がった。
茜と小麗はよく喧嘩する。発砲事件のわだかまりが残っていて、和解まで時間がかかる。怪我を負った張本人が二人の仲を取り持っているようだ。
息が詰まる、とぼやく裏で険悪な空気を感じ取る。女たちの言い争い。まさに修羅場の最中だ。
早々に通話を終え、電話をテーブルの上に置く。
何日ぶりかにシャワーを浴び、病院特有の薬くささを洗い流した。オリーブグリーンのトレーナーとジーンズ。ハイカットの黒いスニーカー。仕事時の服装からかけ離れた私服を選ぶ。ホルスターも銃も身につけない。
病室にあったわずかな荷物を部屋の隅に寄せる。
広い、広い部屋。
窓から市内が一望できる。シティーライツ。星が見えない代わりに、街の灯が輝いている。
静かだ。
これまでの騒がしさが嘘のようだ。
静かで、平和で、二十六歳だ。
慣れないな。何もかも。五年前は……と考え始めて、首を振る。
過去はもう良い。十分に遡った。手を尽くした。もう良いだろう。
アルドは携帯電話を手にする。
ドアベルが鳴り、入り口へ向かう。
扉を開けて、迎え入れる。
通話中、護衛はいらない、と言われた。平和を踏みしめたいから自分の足で会いに行く、と。
彼女は赤いエナメルのヒールを履き、裾がフレアに広がった白いワンピースを着ていた。
赤い唇。ボルドー色のアイシャドウ。肩口で切りそろえた、漆黒の髪がさらさらと揺れている。
とてもきれいな女の子だ。
平和の国の、ごく普通の、とてもきれいな女の子。
小さな手が伸び、左目の眼帯に触れた。
取っても良い? と彼女は聞いた。
自分で取るよ、と答えて眼帯を外した。
一つ目に慣れた視界が開ける。
目を擦った。ぼやけて見えていたものがクリアになった。特に異変はない。右目も左目も視力は同じ。主観的には代わり映えしない光景。
しかし、相手からは同じように見えない。
右目は灰青色で、左目は紫色だ。
その事実に心が張り詰めた。
異常に緊張した。欲情を覆すほどに。
「どうかな」
ベッドに腰掛け、彼女を見上げる。
龍頭凛。
彼女の大きなブラックアイと目が合う。
「貴方はどう思っているの?」
病院で聞かれたことと、同じことを問われる。
アルドは静かに息を吐く。
そして、言った。
「あまり、好きじゃない」
「触れない方が良い?」
「触れる?」
「瞳の話をしない。貴方が嫌なら、そうする」
「嫌ではないよ」
「本当?」
「ああ。好きじゃないけど、嫌いでもない」
「そう」
凛は一呼吸置いて、言った。
「あたしは好き」
赤い唇が、左目の瞼に触れる。
そして、右の瞼にも。
彼女の首筋から花のにおいが華やかに舞った。
「右目も左目も、大好き。とてもきれいな色だから」
アルドの両眼に彼女の瞳が映る。
星の降る夜の、空の色。
怖いこと、苦しいこと、嬉しいこと、幸せなこと。様々なものを目にするたび、彼女の瞳は輝きを増す。
「俺も、君の目が好きだ」
ブラックアイの両瞼にキスをする。
強く抱き寄せて、顔のいたるところにキスをする。
「キスはOK?」
耳元で尋ねると、くすくす笑いが聞こえた。
「もうしてる」
携帯電話の着信音で目を覚ました。
寝ぼけた頭で、通話を拒否する。ベッドサイドのテーブルの上に置く。再びまどろみのなかに溶け込む。
良いだろ、何でも。世界が滅びるわけじゃないし。
邪魔するなよ。
そう思った瞬間、再び電話が鳴り出した。
着信先はシドだ。渋々、電話に出る。
「手短に」
――退院おめでとう。不機嫌だな。
「緊急事態か?」
――急ぎではないな。
「切っていいか?」
――ああ、女といるのか。
電話を切った。電源も切った。開かれた隣室の、ソファの上に狙いをつけた。通信経路を完璧に断つ。
凛は一度熟睡すると起きない性質だ。髪を撫でても気づくことなく、すやすやと眠り続けている。
アルドは微かに目を細めると、呼吸と体温が作る甘い空間に身を浸して、二度目の眠りに就いた。
夢は見なかった。
悪い夢も、尊い夢も、過去の夢も。
早朝の明るさと同じ、真っ白な眠りだった。
数時間後、彼女の気配とともに目が覚めた。
目と目が合う。
「良い目覚め」
凛が微笑む。
寝覚めの小さな欠伸と一緒に、伸びをする細い身体。猫みたいだ。
立ち上る花の香りを嗅ぎ取りながら身を寄せる。凛はくすぐったそうにした。
「不思議ね。自分では分からないわ」
「残念だな。良いにおいなのに」
「貴方だけの香り」
「贅沢だ」
濃くなるにおいを嗅ぎながらキスをする。そのまま何度目かの愛を交わした。
永遠に近い刹那が過ぎ、腕の中で彼女がつぶやいた。
「貴方の身体、傷だらけ」
赤い爪が伸びて、胸に触れる。ネオに射抜かれた銃創に。
「大きな銃創が七つ。切り傷に、刺し傷も」
「数えたのか?」
「密かに。ごめんね。でも、数え切れなかった」
「タトゥーだと思ってくれ」
「ヤクザもびっくり」
半身を起こして、凛は笑う。左胸の黒蝶が、呼吸とともに上下している。
組織に忠誠を誓う意味で刻まれた印。美しい刺青だが、本人はどう思っているんだろう。
彩は「聖痕」だと解釈した。
凛の解釈は、違うかもしれない。
俺の傷痕も好きで刻まれたわけじゃないが、凛は女の子だしな。そこは探り探りだな、とアルドは思う。
「お風呂、一緒に入ろうよ。ご飯も食べよう。午後は何する? 映画でも見る? そういえば、あたし、携帯買ったの。ついに。アドレス、教えてくれる?」
賑やかに話し始める凛に、うんうんと頷きを返しながら、ソファに放った携帯電話を思い出す。シドが何かを言っていた気がする。そろそろ連絡するか。かなり気まずいが。
ぼんやりと頭を掻いていると、凛が呻いた。
すぼめた唇から小さく息を吐きながら、身をかがめて片脚をさすっている。
シーツを剥がす。細い左脚に線上の銃創が見えた。
完治しているが、赤い痕になっている。
ハッと思い出す。
俺は凛を撃った。
獣化直前に撃った弾丸が、彼女の脚を掠めた。なぜ今まで忘れていたのか。
「思い出しちゃったか」と凛は苦笑した。
「そんな顔しないで。もう治ってるから。寒いときに疼くだけ」
「俺は、君を……」
「はいはい。深刻にならない。熱いお風呂に入ると治るから。本当よ。だから、一緒に入ろう」
小さな手がぐしゃぐしゃと金髪をかき乱す。ベッドから降り立って、凛はぺたぺたと絨毯を歩く。重大な問題ではない、と示すように。
名前を呼ぶ声が、バスルームに反響する。
「俺の名前、〝ワンちゃん〟じゃないってば」
返事をすると、楽しげな笑いが湯気の向こうから聞こえてきた。