横浜某所にあるホテルの一室、広いツインルームの大きなベッドでフィアスは目覚めた。片時も外さない腕のロレックスを見ると、短針は八と九の間を指していた。長針はきっかり六。八時三十分だ。
 窓際のカーテンが朝日に照らされ、そよそよと揺れているのが真っ先に目に入った。思わず白い眩しさに目を細める。暗闇に強い目は、明るい光に格段と弱くなっている。朝よりも夜に仕事をする人間の仕方がない性だ。暫く目を瞑ってからまた開けると、部屋の明るさにも慣れた。
 夜、ここに戻ってきたのは四時過ぎだった。そう考えると四時間三十分しか睡眠を取っていないが、眠気がない。ベッドから起き上がるとすぐに頭痛が襲ってきたが、これは日々の寝不足から来る習慣病というもの。改善出来ないが、かくべつ生活に支障を来すわけでもない。余りにも酷い時は酒を飲んで気を紛らわすしかないが、今日は生憎酒を切らしている。
ふらつきながら洗面所まで行くと、微かな吐き気がして、透明な胃液を吐き出した。
 ここ連日、無理をしすぎたかもしれない。
 一時間後、身支度も整えたフィアスは洗面所で煙草の煙を吐き出しながらぼんやりと考えていた。
 この二ヶ月間、皆無と言っていい程情報が掴めていない。何か、この辺で手を討っておかなければ、ヤンキー相手の聞き込みだけに、もう五年は費やしてしまいそうな予感がした。徒に流れていく時間の焦りで、いささか躍起になっている自分がいる。体にガタがつき始めたのは、当然といったら当然の結果だ。
「情報が欲しい……」
口に出してみても、現状は何も変わらないのは分かっている。分かってはいるのだが、焦燥感は抑えきれない。
 フィルターに今にも火が届きそうな、短くなった煙草。先端から灰が零れ落ちると同時に振動音。ずっと、マナーモードにしておいた黒い携帯が洗面台の上で振るえていた。表示された番号に見覚えはないが、察するに国際電話のようだった。
国際電話にあわせて、フィアスも言語を英語に切り変える。
『……フィオリーナですか?』
相手が名乗る前にこちらから当ててみた。海外から連絡をしてくる人間は彼女以外考えられない。
だが、電話口には、彼女の甘くて麗しい声とは似ても似つかない野太い声が聞こえた。
――今、何時だ?
声が尋ねる。
『9時30分』
――なるほど、こっちは20時30分だ。時差は面白いな。
電話口で野太い声が低く笑った。獣の唸るような声だ。今までの話の流れが分からない人間から見れば、熊の威嚇に聞こえるに違いない。フィアスは2cmほど電話から耳を遠ざけて言う。
『そんな話をするためではないだろう、シド』
声の主はNO.1のフィオリーナの影武者である、シドという男からだった。
 フィオリーナが裏で動く分、表立った公の場ではNO1の名を語ってシドが登場する。その方が何においても都合がいいらしい。
 確かに、いくら武芸の達人と言えどもしおらしい外見をしているフィオリーナが、フィアスを含む数十名のBLOOD THIRSTYの元締めであるというのは、にわかには信じがたい話である。BLOOD THIRSTYを知る人間の殆どが、最高責任者はこのシド・バレンシアだと思っていることだろう。
 日本に来てから、シドとは数回連絡を取り合った。しかし、フィオリーナにおいては、用件はシドを通じて全て伝えられてしまうため、二ヶ月以上声を聞いていない。
 無論、彼女に捉え処のない畏怖を覚えるフィアスにしてみれば、それは好条件なのだが。
 シドはまた不適な笑い声を漏らした。
――仕事の方はどうだ、NO.2。そろそろニューヨークの夜景が恋しくなってきた頃じゃないか?
『別に。横浜と大して変わらない』
それを聞いて何がおかしいのか、シドはまた笑った。
――そうか。それは何よりだ。ところで、お前宛にフィオリーナがエアメールを送ったんだが、届いたか?
エアメール……?
 フィアスは携帯を耳にしたまま、リビングの机の上にばらまかれた数枚のエアメールを掻き集める。全て、世界各国から送られてくるBLOOD THIRSTYの仕事の依頼書だ。住所は、上司以外の人間には知られていないし、新聞も取っていないので、ホテルの顧客専用のポストには依頼書以外届かない。依頼書はどれもコンピューターで書かれた電子文字だが、一枚だけ手書きの封筒が入っていた。
 無機質な白い封筒の束の中に、花柄の便箋が明らかに目立っている。宛名には、フィアスがホテルを取る際に名乗っておいた名前が書かれていた。裏面には、カムフラージュのためのメッセージなのか、整った筆記体で「お誕生日おめでとう。愛を込めて、ジュリアおばさんより」と書かれてある。
『これか……』
聞き込み調査の忙しさで、全く気に留めていなかった。それに、返信しなければ契約不成立になるだろうと思い、敢えて郵便物には手を付けていなかったのだ。
 しかし、依頼以外に一般郵便が入っているなんて。
 消印を見ると今から十日ほど前に配達されている。
机の引き出しからカッターを取り出し、封を破る。すると中から一枚の小切手が出てきた。「¥」の記号の後ろに230000000という数字が記入されている。一般市民にとっては天文学的数字に近いものがあるが、一回で億単位のギャラが出ることもあるBLOOD THIRSTYに、二億三千万は身近な存在だった。案の定0のたくさん並んだ数字を見ても、フィアスは驚かない。
『何故、エアメールで二億三千万が送られて来るんだ』
それより、それを包んである便箋が一ドルもしない安物だということに驚いた。フィオリーナの行動が理解できない。
――それが一番怪しまれずに大金を輸送する方法だそうだ。厳重に包んだ小包だとかえって怪しいだろう?
『何かあった場合の、筆跡は?残しておくと危険なんじゃないのか?』
 フィアスの言葉にシドは笑った。これで四回目だ。一体何が楽しくて、この男は騒音のような笑い声をたてるのだろうか。フィオリーナ同様、シドの実態も良く分からないフィアスである。
ひとしきりベースギターのような重低音で笑った後、シドは言った。
――フィオリーナを誰だと思っている。八種類ほどの筆跡を使い分けることが出来るそうだ。一つくらい知られたところで、どうなるというんだ?
 封筒に書かれた筆跡は人間味のある丸い字だった。送り主の名前は「ジュリア」。成人女性の筆跡だ。八種類となると、老若男女全ての筆跡を書き分けることができるのだろうか。怪盗さながらの芸当に、フィオリーナに対する畏怖の念は若干強まった。
 なんとなく丸みのついた筆跡が意思を持った生き物のように思え、フィアスは封筒から目をそらす。
『……筆跡のことはいいとして、何故二億三千万を俺に?』
シドの答えはあっさりとしたものだった。
――軍用資金だ。有難く使えよ。
 また連絡する、と言い残してシドは電話を切った。野太い電子音がシャットアウトされ、再び部屋に静寂が戻る。フィアスは手元にある小切手を見た。
 二億三千万という額は、聞き慣れていないわけじゃない。過去にどこかで見たことのある数字だった。
 一体どこで目にしたのか。
「……そうか」
青い小切手を手にしたまま、フィアスは思わず呟いた。
「これも、フィオリーナの計算内か」