肩先に彼女の重みを感じる。
その体温で、上腕がじわりと温まる。
目下に見える、赤みを帯びた黒髪。そして、その下の、長い睫毛。
フィアスは隅々を目で追う。そして、その美しさを脳裏に焼きつけようとしている自分に気づく。
凛を大切に思っている。ガード対象として、友人の一人として、かつての恋人の忘れ形見として。
だけど、今、その姿に見惚れているのは、一人の女性として、意識しているからに他ならない。
ささやかだが、そこには情愛がある。
存在を尊び、彼女のために、何かをしてあげたいと思う気持ち。
意外だった。人間的な感情の残滓ざんしが、自分の中にまだ残っているなんて。
もちろん、我を忘れるはずがない。好意の中にある高揚感や渇望は、飽きるほど経験した。
この感情は、その他の理由に容易くシフトできる。
自分はそうするだろう。この気持ちに気づいたことすら忘れてしまうほど、さりげなく。
その顔を見下ろしながら、フィアスは思う。
美しい白昼夢だ。


「あたしのガードを外れて、どこへ行っていたの?」
唐突に凛は言った。
目を伏せたまま、自然さを装っているが、閉じた唇が震えている。触れ合った肩先が、緊張に身を固くしている。
あの時と同じシチュエーション、同じセリフ。
やり直そうとしているのか、とフィアスは気づいた。
本題に入る機会を伺っていたところだったので、ちょうど良い。
「君の父親に会いに行っていた」率直そっちょくにフィアスは切り出した。
「龍頭正宗に会う必要があったんだ」
細い身体が、わずかに仰け反った。両腕を抱くように自らを抱え込むと、うつむいた唇からかぼそい声が漏れる。
「やっぱり……」
「マサムネは〈サイコ・ブレイン〉のアジトに閉じ込められていた。脱出の最中、俺は敵に捕まってしまい、マサムネとはぐれてしまった。彼の消息は掴めていない」
「フォックスは〝父親に会わせてやる〟って言ったの。でも、結局、会えなかった」
「おそらく、途中まで行動をともにしていたんだろう。ある時点で、マサムネが逃げ出した」
お父さん、と凛はつぶやき、ゆっくりと顔を上げる。なんとも言えない表情をしている。
「お父さん、生きていると思う?」
「ああ。マサムネは、簡単に死ぬタマじゃない。今も横浜のどこかに隠れているはずだ」
これは希望的観測に過ぎない。横浜にいるというのは、ただの予想に過ぎないし、問題を放棄した彼が県外へ逃亡している可能性もなくはない。
しかし――これも憶測だが――正宗は、飄々ひょうひょうとした態度を取りながらも、この問題の解決に努めるだろうという強い確信がある。
風が変わるとき、彼の動きも大きく変わるだろう、と。
「マサムネに会わせたい」
フィアスは言った。
「マイチにも縁の深い話だ。横浜に戻ったら、アイツのつてを足掛かりにして捜そう」
「そう……そうね」
歯切れの悪い返事が返ってくる。俄然がぜん、落ちた沈黙の中、凛はますます身を固くする。
誘拐ゆうかいされておきながら、こんなことを言うのは変かも知れないけれど……、と前置きして続けた。
「お父さんに会っても、伝えたいことが何もないの。喜び、悲しみ、怒りさえ湧かない。六年しか一緒にいなかったんだもん」
「六年か……短いな」
「それでも、会う価値はあると思う? 他人みたいな父親に会って、他人を見るような感情しか湧かなかったら、どうすればいいの?」
「どうもしなくていい。それはそれで、一つの感情だから」
淡白な回答に、凛は意表を突かれた顔を上げる。
彼女の目を見て、フィアスは続けた。
「自分のために会ってみてほしい。マサムネの口からは、語られるべき過去がたくさんある。ルーツを知ることは、君の人生にとって価値のあることだ」
「……ルーツ」
不思議な呪文を繰り返すように、凛はその言葉を反芻はんすうした。
「少し考えたい」というので、この話は終わりになったが、過去に思いをせながら思い出したことがあるらしい。
凛は枕元に立つと、枕の下からネックレスを引っ張り出した。細い鎖に指輪がついた、見覚えのあるアクセサリー。
反射的に首元に手をやるが、もちろんそこには何もない。なくなっていることにさえ、気がつかなかった。
「これ、彩の形見よね。勝手に持っていっちゃってごめんね」
「あ、ああ……」
曖昧に頷きながら、ネックレスを受け取る。
数日ぶりに手元に戻ってきたそれは、以前と同じく銀古美ぎんこびの落ち着いた輝きを放っている。
彩は死の直前まで、この指輪を身につけていた。
彼女の遺品はすべて処分したが、なぜかこの指輪だけは捨てきれず、手元に残しておいたのだ。凛が知っているということは、かなり昔から大切にされてきた物らしい。
フィアスの傍らで、凛は大きく伸びをする。指輪を返し終え、すべての話は終わったと思っているらしい。
「リン」と呼び止め、フィアスはリングを握る左手を差し向けた。
たったそれだけの動作に、凛の身体がびくりと震えた。
先刻、髪に触れようとしたときと同じだ。またしても、何事もなかったかのように笑う。
「……どうしたの?」
「良ければ、君が持っていてほしい」
「あたしが?」
「その方が、アヤも喜ぶと思う」
凛は微かに躊躇ためらう素振りを見せたが、やがてフィアスの両肩に手を置くと微笑んだ。
細い首筋をそらして、
「つけてくれる?」
身をかがめた彼女に、ネックレスをつける。
形見の指輪は、白い首元できらりと光った。そこが本来の場所であることを示すように。
ワンピースの胸元に手を置くと、目を閉じて、束の間の祈りを捧げる………そんな凛を前にして、フィアスは思案する。
フォックスに拉致らちされた日の出来事について。
凛に触れようとしたとき、驚いて、震えるような動作をした。その挙動は、無意識のようだ。
フォックスに拉致される以前に、そのような反応を示したことはなかった。
誘拐された部屋で、何かが起こったのだ。
その身体に衝撃を与える、何らかの出来事が。
「リン」
彼女を呼び寄せると、フィアスはそっと両手を取った。静かな動作だったので、凛は例の挙動を見せない。
ただ、きょとんとした顔で、ベッドに座ったままのフィアスを見下ろしている。
君に聞きたいことが――フィアスが口を開きかけたとき、
「話は終わったか? 珈琲の時間だぜ」
階下から真一の嬉しそうな声が聞こえてきた。ばたばたと階段を登ってくる、足音も聞こえる。
「そろそろ、アイツも仲間に入れたやった方が良いみたいだな」
「何か話したいことがあったんじゃないの?」
「あとで良い。今は、珈琲の時間らしいから」
フィアスは立ち上がると、凛の手を取ったまま、階下に続くドアを開ける。
と、満面の笑みを浮かべた真一が、ちょうど二人を迎えに来た。