ベッドの上で、膝を抱えて。
彼ほど敏感ではない耳をそばだて、扉の向こうの気配を探る。今にも開きそうなドアは、しかし、いつまで経っても開かない。
砂時計のごとく、希望は失望の底へ落ち続ける。
孤独は波のように満ち引きした。足をさらわれないように身を丸める。
ふと、子どもの頃に見た情景が蘇った。
派手な看板。水溜りに溶け出す油。生ゴミ。女のふくらはぎと、わずかな砂糖菓子。黄ばんだ布団が隔てた外界の、聞き慣れない動物の声。
恐ろしい、声。
あんな場所で生まれた子どもが、人として生きられるわけがない。
それでも、自分は懸命に振る舞った。ネオ――神に等しい存在を盲信することで、少しでも人間になろうと努力した。
回想が繰り返される。
時計の針は回り続ける。
抱きかかえた両腕に、ぎゅっと力がくわわった。
肌がどんどん乾いていくのが分かる。
指先の
私の身体を暴き立て、動物へと呼び戻した彼。暴力という魔法を使い、人間としての誇りを奪った彼。
肌を重ねて、古い傷が今も癒えていないことを知った。
彼は、癒えなかった傷の上から、新たな傷をつけて私を癒した。
そして、その傷もまた過去に溶け出そうとしている。
フォックスは、帰ってこない。
小麗は服を着て、外へ出た。痺れ薬の効果は完全に切れていたが、疲労と
雲行きは怪しかった。電車を乗り継ぎ、都内へ出る頃には雨が降り始めた。
彼に会いたい、と小麗は思った。私が外の世界を歩くのは、フォックス――貴方のそばに行きたいからだ。
あてどもなく彷徨っていた目的に気づいて、電車を降りる。
土砂降りの雨に打たれても、小麗は気に留めなかった。街行く人が不思議そうにずぶ濡れの若い女を振り返った。
フォックスはどこにいるのだろう。それだけが小麗の関心事だった。目星がまったくつかないことに、恐れや不安が麻痺していた。必ず会えるはずだという、強い確信があった。
――だって、私はまだ彼に殺されていない。
何時間、歩いただろう。辺りはすっかり日が暮れて、
歩道橋の上を歩いていたとき、ひときわ強い光が頭上から降り注いだ。光源はネオンライトではなく、高層ビルに設置された巨大なモニターから発せられていた。ニュース特番が放映されている。内容は、横浜のホテル襲撃事件。
銃を持った男が横浜市内のホテルに乗り込んで、滞在客と従業員の数名を殺害し、現在も逃亡中だという。
ディスプレイに、無残な犯行現場が映し出される。
昼から話題になっている事件のようだったが、小麗は知らなかった。「怖いわね」隣で画面を見ていた女性が独りごちた。
コメンテーターの頭上に「臨時速報」のテロップが流れると、画面が中継に切り替わった。
アナウンサーが興奮した状態で、何やらまくしたてている。
「ただいま、犯行現場近くの埠頭から、車が引き上げられました。車内は無人で、個人を特定する私物も見つかっておりません。ただ、襲撃事件に関連性があると見て、警察は捜査を進めています」
アナウンサーの後ろには、クレーン車で宙吊りにされた車が映っている。
小麗は足元から崩れ落ちた。
同一車種の別人のものではない。絶対に、彼の車だ。
直感が脳裏で
地面に座り込んだ小麗を、人々は避けて通る。
雨だけが、
死体は? 小麗はぼんやりと考えた。
フォックスの死体はどこ?
手は? 足は? 胴体は? 顔は?
私と融け合った、あの体温はどこにいった?
打ち砕かれた価値観も、捧げてしまった
「私は、どうすればいい……私は……私は……」
発するそばから声が震える。やがて言葉も意味を失い、動物の遠吠えに似た
慟哭に似た叫びが響き渡る。いや、これは動物の遠吠えだ。
フィオリーナの合図で、シドは思い切り殴りつけた。きゃんっ、と獣の叫声を上げて、部屋の端まで赤目が吹っ飛ぶ。身体を強かに壁に打ち付け、ぐったりと
普通の人間なら数時間は目覚めない。それほどの力を込めたつもりだった。
しかし、すぐさま赤目は立ち上がり、脇目もふらず突っ込んでくる。刹那、鎖の金属音がして、シドの目前で赤目が止まった。両手両足につけられた
「幼児レベルの知能もないのか」
軽蔑した視線を投げかけながら、シドはつぶやく。唾液を撒き散らし、歯をむき出しにして唸る赤目が、自分と同じ人間だとは思いたくない。いや、
「連合野が
淡々と事実を述べたあと、フィオリーナは腕を組む。ブルー・ヒューの眼差しは、氷のような冷たさを放ちながら、吠え立てる赤目を観察している。
数時間前、地下アジトに侵入してきた彼を生け捕りにした。
新たな拠点の地下室に、動物園のような檻を設置するまで、シドは麻酔銃を手放せなかった。ライオンでさえ丸一日は眠り続ける強力な麻酔をもってしても、赤目には二時間と効かなかった。覚醒すれば、生命が危ない。戦い方はワンパターンだが、攻撃力はシドの何倍も高い。まして一般人がいる地上へ逃げ出しもすれば、何十体の死体が出来上がるかわからない。
ううう、と低い唸りが聞こえる。抵抗を諦めた赤目が、光の差さない檻の隅まで後退した。両腕で頭を抑え、小さく丸まる。光が苦手らしい。夜行性の肉食動物が、炎を嫌うことと似ている。
大人しくなった赤目に、改めて目を向ける。人間性を失った表情から年齢の判別は難しいが、着ているものから察するにまだ若い。本郷真一の趣味に似たストリート・ファッションに身を包んでいるところを見るに、二十代の初めくらいか。
「こいつが理性を取り戻すことはあるのか?」シドは尋ねる。
「それはないでしょう」即座に答えが返ってきた。
「後天遺伝子に限った話ではありませんが、一度変形した脳を、元に戻すことは不可能です」
「後天遺伝子は、脳を変形させるのか?」
「断定はできません。ただ、赤目――私は
「それが後天遺伝子の仕業だと、断定できないと?」
「脳のデータと後天遺伝子の相関関係、ないし因果関係は調査中です」
フィオリーナは視線を地面に落とした。
「……断定は、できません」
だが、すぐに顔を上げると、隣に立つ大男を見上げる。
「憂鬱に陰っている場合ではありません。シド、NP5gを送付する手配を進めましょう」
「ああ。行き先はドイツだったな。しかし、コイツが暴れだしたら手をつけられないぞ。少なくとも、俺以上に強い
「ですから、彼らに連絡を取りました。幸い拠点は韓国ですから、明日にでも引き渡しが可能でしょう。空港で落ち合い、そのままドイツに向かってもらいます」
「奴らか」
シドは思い出す。韓国というキーワードで、二人の人物が思い浮かぶ。
「あいつらはどうする?」
「こちらのことを伝えるか?」
「フォックスの死に際を、フィアスは見ているはずです」
「今さらNP5gを見せる必要もないということか」
「材料をいくつ提示しても意味がない。重要なのは、そこから
「更に言えば、打開策もな」
「もちろん。何としてでも見つけ出します」
言いながら、フィオリーナはNP5gを見つめる。理知的な青い瞳に射抜かれ、うずくまった