濡れた髪にタオルをかぶると、凛はボディオイルを塗る。聞いたことないメーカーの、高そうなパッケージ。
においも複雑でかんばしい。そんなコスメティクスが、戸棚の中にいくつも放置されていた。
脱衣所の鏡台にずらりと並べて、検分する。
どれも封を切っていない。メイク用品は自分の趣味から少しれるが、基本的な道具は揃っている。
女性ならではの死活問題が解消されて安堵する。
クローズルームから趣味に近いデザインの衣服を選ぶ。どれも高級なブランド品だというのに、袖を通した形跡がなく、タグやラベルもついたままだ。
フィアスの説明によると、この家の主は外見に頓着とんちゃくしない割に、女らしく見えるものをコレクションするのが趣味なのだそうだ。コレクションと言っても、手に入れる側から興味を失っていく。
だからこそ、気に入ったものを好きなように使ってくれて構わないと言われたが……。
「あの人の周りには、変な女が多すぎるわ」
シンプルなワンピースをまとい、凛は愕然がくぜんとする。
「……もしかして、あたしもその一人?」


身支度を整え、リビングに戻ると真一がいた。
キッチン周りの戸棚を開け閉めしながら、何かを探しているようだ。
「ミルだよ」真一は言った。
「珈琲豆を見つけたんだ。豆があるってことは、コーヒーミルもあるはずだろ?」
「あたしも一緒に探しましょうか?」
「俺の方は大丈夫。それよりも、フィアスが呼んでいたよ。凛に大事な話があるって」
凛はシンクに近づいて、前屈みの真一を見下ろす。
ここからでは、がそごそと戸棚を引っ掻き回す、がたいの良い背中しか見えない。
「真一くんは探し物が優先? それとも、えて席を外しているのかしら?」
尋ねてみたところ、真一は戸棚から顔を引っ込め、凛を見上げた。
「どちらともかな」
からっとした笑顔に迎えられる。自分に関する大事な話とコーヒーミルが釣り合うなんて心外だが、それすらも許してしまえるほど、愛嬌あいきょうのある笑顔だ。
お得に生まれついたわね、と思いながら、凛も笑みを返す。
「あとでカフェオレを作って。思いきり、甘いやつ」


階段を登り、寝室にたどり着く。ドアを開けると、フィアスはベッドに腰掛けて本を読んでいた。周りには、どこからか持ち出した書籍が数冊、半円を描くように散らばっている。どれも英字の表紙がついた、分厚い本だ。
凛に気づくと、辞書のようなそれらを集めて床の上に移動させる。
フィアスの隣、新たに空いたスペースに腰掛ける。
「邪魔したかしら?」
「いや。それより、大丈夫か? 他に必要なものは?」
「特にないわ。化粧品もお洋服もあるし、食料も当分は持つでしょう」
凛は身をかがめて、柱のように積まれた本の一つを手に取った。
「貴方の好きな本もあるしね」
パラパラとめくってみるが、アジトの地下にあった彼の蔵書と同じ――細かい英字がびっしりと印刷されている。たまに図解が差し込まれているが、挿絵ほど面白くはない。
「これ、なんの本?」
「行動分析学の本」
「それじゃ、こっちは?」
「それは認知行動学、その下は精神分析に関する研究論文」
どれも似たりよったりの装丁で、正直なところ、邦訳を言われても学問の違いが分からない。体温が伝わって、じんわりと熱を帯びた本の表紙を撫でる。これが絵本だったら素敵なのに。
「物語は読まないの?」
「あまり得意じゃないな」
「あたしは古い外国の絵本が好き。不思議の国のアリスとか、星の王子さまとか」
「その二つは、読んだことがある。両方ともアヤのお気に入りだった」
「小さい頃、彩と読み合いっこしたものよ。布団の中で、小さな明かりだけを灯して。二人とも似たような声だから、自分の朗読を聞いているみたいで不思議だったな」
「君たちは、仲の良い姉妹だったんだな」
「どうかしら」
凛は微かに首を傾げる。黒い視線が過去の時間を漂うように宙を揺れた。
「あたしが言うのも何だけど……彩は、不思議な子だった。妙に落ち着いていて、いつも遠くを見ている感じ。あたしのことを好いてくれていたけれど、心は別の場所にあるみたいだった」
今でも思い出す。虚空を見上げていた、あの黒い眼を。夜の海のように底知れず、まるで世界そのものを包括したかのような、深い眼差しを。
本を胸のうちに抱えて、凛は静かに話し始めた。


――幼い頃、持っていた本の中に、不思議なおはなしがあったの。
――怖くて、いつまでも忘れられないたぐいの本。
――その物語を簡単に説明するとね、雪の国に生まれた女の子が、旅に出るの。生まれたときから、自分の中で何かが欠落していて、欠けてしまった一部を探しに、様々な国へ出かけるの。
鬼のいる国、幽霊のいる国、怪物のいる国……とにかく怖そうな国ばかりを旅する、地獄めぐりのようなことをするのね。そして最後に、青空の国へ行くと、自分にそっくりな女の子に出会うわけ。
その子は主人公の探していた物を、自分の中に持っているの。
――それは、魂――女の子は生まれてくるときに、魂を持たずに生まれてしまったの。自分そっくりな女の子は、失っていた魂で、ようやく二人は一つになれる。
――結末はハッピーエンド……でも、あたし考えたの。
双子の魂は、二つずつ、生まれてくるものなのかしらって。
――二人で一つの魂しか生まれてこないのだとしたら、あたしたちのうち、どちらかは欠落を抱えた、ただの抜け殻なんじゃないかって。
ちょうど、あの物語の主人公みたいにね。
――彩は美しい女の子だったけれど、いつも淡い影の中にいるみたいだった。
――触れたら消えてしまう、蜃気楼しんきろうみたいで……。
――もしかしたら、あたしが彩の魂を取ってしまったんじゃないかって。
――だから、彩はこんなにも儚くて、ぼんやりしているんじゃないかって。
子供じみた空想がどんどん膨らんで、あたしは彩に抱きついた。その考えを、話もした。
「凛ちゃん、馬鹿なこと言わないで」って彩は言ったわ。
「わたしはここにいるよ。これからもずっと一緒だよ」って。


いつの間にか、すがるように本を抱いていた。
こんな話をするつもりではなかったのに、流れがおかしな方向に進んでしまった。
ましてや、彩の元恋人である彼に、聞かせるべき内容ではなかった。
「なんだか、変な話をしたわね。ごめんね」と凛が謝ると、フィアスは少し思案した後で、こんなことを尋ねてきた。
「アヤの好きな音楽を、聞いたことがあるか?」
「音楽?」
「ああ」
「もしかして、すごくうるさいやつ?」
「そうだ」と頷く青い目が、わずかに細まる。
「パンク・ロック、というジャンルらしい。彼女はよくインディーズ・バンドのライブに行っていた。その都度、俺も付き合わされたが……帰るころには耳鳴りがして、目の前に止まった電車の音さえ、遠くに聞こえた」
「あの子は平然としていたでしょ」
「もちろん。いつも楽しそうにしていたよ。彼女が蜃気楼や、淡い存在なのだとしたら、あの爆音と狂乱の中でとっくに消えてる」
「そうね……そうかも知れない」
抱きしめていた両腕をゆっくりと解く。
彩の不可思議な個性が、自分には淡く見えていただけだったのかも知れない。同じ血を分け合った姉妹は、それが泡沫ほうまつの時間であれ、色濃く生きた。
好きなものに触れて、彼女の魂はきちんと震えた。
それを見てきた人が、目の前にいる。
そのことの不思議さを凛は思った。
「あたしも彩も、勉強って好きじゃなかったな」気持ちを切り替えるように凛は言った。手にした一冊を積読つんどくの柱に戻す。
「絵本は好きだったけど」
フィアスは困ったように頭を掻いた。
「これは勉強じゃない。なんというか、ただの気晴らしだ」
同じように手にしていた本を床に置くと、凛を見る。
「それに君は、行動から学ぶことが得意なタイプなんだろう」
「あんまり学んでいないかも……同じ失敗ばかりしちゃうし」
「自覚があるなら避けられる。パターンを覚えておいて、似たような場面に遭遇そうぐうしたら、別の行動を取ってみるといい」
「その行動も失敗したら?」
「さらに別の行動を取る。消去法で、いつか正解にたどり着く」
「なんだか科学の実験みたいね」
「そうだな。ただ……君が望む答えではないような」
「そうね。でも、貴方らしくて、好きよ」
凛はフィアスの肩によりかかると、目を閉じる。
あたたかな体温を額に感じる。
彼は今、何を考えているだろう。
安堵と不安がない混ぜになったこの気持ちの下にある感情……そのカケラのひとつまみでもいい。
彼の中に、同じ気持ちを見つけられたら、強くなれる。
そんな気がする。