真一がちらちらとこちらの顔を見るので、いぶかしげに思っていたフィアスも、ようやく気づいた。
真一は赤い目のことについて知りたがっている。
後天遺伝子は、シーサイドタワーの戦いを最後に使わないつもりでいた。ルディガーがネオを殺すために発明した力なら、ネオとの戦いで発動できれば良い。
フィオリーナとの間で終わる話のはずだったが、事態は個人の範疇はんちゅうを超えていた。
自分の細胞から抽出された遺伝子が、薬物のように敵の部隊へ投与されているのだ。適合者たちが仲間を傷つける恐れがあるなら、打ち明けなければならない。
そう思うものの、なかなか言葉が見つからない。
頭の中でちらつくのは、言葉ではなくフォックスの残像だ。
血と涙にまみれた後天遺伝子の末路。
過去の亡霊に苛まれた、獣の叫び。
思い出そうとしては、思い出さないように頭の中を真っ白にする。まるで両眼を覆った指の隙間から、怖いものを見ようとする子供みたいに。
「無理に話さなくていいよ」
その声で我に帰った。隣では真一が何事もなかったかのように運転を続けていた。
フィアスは視線を自分の座席に落とす。膝の前で組み合わされた手は、乾いた血液でくっついている。
手をほどき、両指を重ね合わせて擦ると、乾いた血の痕が少しだけ消えた。自分のものかフォックスのものか分からない。しかし、この遺伝子を持つ者たちは…… いずれ……。
「話をしてくれないか?」
フィアスは言った。
「俺の代わりに……どんな話でもいい」
真一はちらと助手席を見やると、再び前を向く。
車は長い山道を下り、開けた山間の通りへ出た。赤信号に足止めされたタイミングで宙を仰ぐ。
「なんでも良い、か。そうだなぁ……俺の家族のことでも良い?」
「ああ」
「そんなに面白くないぞ」と前置きすると、空咳を一つ。
真一は話し始めた。


――小さい頃、大阪に住んでいたんだ。父ちゃんと、母ちゃんと、三人で。
俺の父ちゃんはヤクザになるのが嫌で、若い頃に家出したんだ。そして大阪に流れ着いて、母ちゃんと出会った。
どうして俺がじーちゃんに育てられることになったかっていう話は、前にしたっけ?
――そう。俺の両親、交通事故で死んだんだ。
――二人仲良くドライブしながら、天国に行っちまった。だから俺、親との思い出ってあんまりなくてさ、顔もうる覚えなんだよね。
――それでも、一つだけ、はっきり覚えていることがあって。
――その日は、俺の誕生日だったんだ。
食卓には母ちゃんが作った肉の炒め物と、父ちゃんが焼いているたこ焼きがあった。どちらとも俺の好物だ。
大阪って一家に一台たこ焼き機があって、俺ん家のたこ焼きはタコだけじゃなくて、チーズとか鶏肉とか貝とか、とにかく焼いたら美味しい具材を入れて作るのが定番だったの。
――父ちゃんは半分にしたたこ焼きを重ねて、大きなたこ焼きを作ってくれた。手際良くどんどん皿に盛っていくんだ。あんまりにもうまそうな匂いがするもんだから、小皿に取り分ける前に、手を伸ばしてかじりついた。
――もちろん、中身は死ぬほど熱い。
びっくりして、大泣きした。舌が焼けてヒリヒリした。
――母ちゃんは大慌てで、水を飲ませてくれれば良いものを、なぜかケーキを食わされた。冷蔵庫で冷えているから、熱冷ましにはちょうど良いと思ったのかな? うちの親、ちょっと抜けてるところがあったみたいだ。
――ただ、そのときに食ったケーキは、天国みたいに甘かった。ホイップクリームがひんやりしていて、夏に降る雪に顔を埋めているみたいだった。
未だにあの瞬間の美味しさを思い出せるよ。食べ物の味じゃなくて、色んなものの取り合わせ。熱い痛みと、冷たい甘さ。それから、泣き止んだ俺を見た、若い両親のほっとしたため息。
――そういうものが全部合わさって、俺の食べたケーキは、実物よりもずっと甘い。
――とても甘い記憶。
これが、俺の原初の記憶。
――最初で最後の、一家団欒いっかだんらんの思い出だ。


話が終わると、フィアスは組んでいた腕を説いた。
「良い話だと思う」
「お眼鏡にかなったなら良かった」
サングラスの奥の瞳を細め、真一は笑う。
それから、昔の余韻よいんに浸るように、黙ったまま運転を続けた。
原初の記憶は、その後の人生に影響を与えるのだろうか。フィアスはぼんやりと考えた。
自分の原初の記憶は、父親に橋の上から突き落とされた――激しい暴力と犯罪の記憶。それが空白の脳に保存された最初の思い出。
記憶の基盤が血生臭いもので出来上がってしまったから、人生は似たような方向へとかじを切ってしまったのだろうか……否、人生というよりも、自分自身が。
「良いにおいがするんだよ」
再び真一が口を開いた。
フィアスは首を傾げる。
「におい?」
「うん。あのときのことを思い出すと、食いもんのにおいがすんの。たこ焼きと、野菜炒めのにおい」
においか、とフィアスはつぶやく。反射的に鼻を突く。車内には、真新しいドライブシートの皮のにおいが漂っている。そのにおいが呼び覚ますのは、元々の持ち主が保管していた倉庫のシャッターを開いたときの映像。差し込む光。舞い上がる埃。
役に立たないガラクタの記憶だ。
「人間の嗅覚は、記憶と関連が深いらしい。においで記憶が呼び起こされるのなら、記憶をめぐらしながら当時のにおいを嗅ぐこともあるかも知れない」
「昔話をすると、腹が減ってくるのはそういうわけか」
「お前は、食い意地が張っているだけだ」
あはははっ、と真一は笑う。同時にぐーっと腹が鳴るから、正直なものだ。
「俺さ、食いもんの思い出をたくさん作ろうと思ってんの」
「なんだそれは……」
「人間って、良いことよりも嫌なことを覚えるように出来ているだろ。似たような状況に陥ったときに、いち早く危険を回避出来るようにって」
「生存本能の一種だな」
「そう、生存本能。でもさ、嫌なことばかりを覚えていたら、心が病んで、いつか死にたくなるじゃないか。生存本能として身についたものなのに、使い方を間違えば、自分を殺す凶器になる」
「そういう考え方も出来るかもな」
「だから俺、本能に対抗しようと思って。どんなときでも楽しいことを探して、嫌なことを覚えまくる本能に抗おうとしているわけ」
「本能に、抗う……」
車はトンネルの中に入った。走行音が反響する中で、会話も途切れがちになる。
フィアスはフロントミラーで凛の様子を見た。車を滑るオレンジ色の光が、胸の上を幾本もすり抜けた。表情一つ変えず、昏々と眠り続ける凛。彼女の原初の記憶はなんだろう。
その考えが思い浮かぶと同時に、その記憶が幸せなものであってほしいと願っていた。

カーナビが示す目的地は、網目状に道が広がった閑静な住宅街だった。
細道を車は縫うように進み、やがて一軒の住宅にたどり着いた。
白壁で出来た二階建ての住居は、周りの家々に比べると一回り大きく、立地もひときわ高い場所にあった。門の隣に、ガレージのような駐車スペースがあり、アルミ質の鉄柵でできたシャッターが下されていた。駐車場の中に車は駐車されておらず、四角いコンクリートの空間が見てとれる。
「なんというか、ゴシップ雑誌に載ってる芸能人の家みたいだな。ここ、お前の別荘か?」
「知り合いの家だと言っただろう」
「なんの連絡もなしに来て大丈夫だったのか? その知り合いは、俺たちの事情を知ってるわけ?」
「まったく知らない。知らせるわけにもいかない」
「どういうことだよー?」
その質問には答えず、フィアスは車を降りる。鈍い痛みが足をつき、ボンネットに手をついた。慌てて車から降りようとする真一に手振りで、そこにいろと合図を送る。そして、片足を庇いながら、玄関に続く階段を上がった。
真一は頭を掻きながら、遠ざかるスーツの背を目で追っていたが、家の向こうにフィアスが消えて、数分もしないうちにガレージのシャッターが開いた。
これ、駐車していいってことだよな。
おそるおそる車庫に入り、車を止める。
何もないと思っていたが、いちばん奥のスペースに、薄い布に覆われた二輪車が見えた。この家の持ち主の移動手段は自動二輪。それも、かなりの大型だ。
真一は凛を抱き上げると、足で扉を閉め、そのまま玄関に向かった。
家の前では、フィアスが壁に片手をついて、傷ついた身体を支えていた。
もう片方の手で、玄関のドアを開ける。先に入れと促され、真一は恐る恐る敷居をまたぐ。
途端、花の香りが鼻腔びこうをついた。
「お邪魔……します」
謎と凛を抱えたまま、玄関で靴を脱ぎ、家の中へ入る。廊下はひんやりとした大理石が続いていた。
「二階が寝室だ。リンをそこに眠らせよう」
「お、おう」
幅の広い階段を登り、寝室にたどり着く。清潔感のある部屋に配置された家具や小物類……それらから、この家の主は女性であるらしいことが分かった。きれいにメイキングされたベッドに凛を横たえらせると、大きく息を吸い込むような仕草をしたが、再び静かな眠りに閉じた。
フィアスはベッドの前に膝をつくと、彼女の手を取り、熱や脈拍みゃくはくを測る。顔を曇らせているところを見ると、先程と変わりないらしい。そのまま飼い主の目覚めを待つ黒犬のように、床に腰を下ろしてしまったので、真一は言った。
「顔洗ってくれば?」
「顔?」
「血塗れのままじゃ、凛が目覚めても卒倒そっとうしちまう」
そう言われて、初めて気づいたようだ。フィアスは自身の顔を拭う。彼の顔は、額から目元にかけて、乾いた血痕が煉瓦色れんがいろに変わっていた。スーツのあちこちに血糊ちのりがつき、そのうちのいくつかはまだ湿ったままぬめっている。
フィアスは名残惜しそうに凛を見ていたが、やがて左足をかばいながら立ち上がった。
肩を貸そうか、と真一が聞くと、
「俺のことはいい。リンを見ていてほしい」
と言い残し、部屋を出ていった。
残された真一は、フィアスが座っていた位置に腰を下ろし、部屋をぐるりと見渡す。
女性の部屋であるものの、全体の雰囲気は落ち着いていて、可愛らしい家具はない。調度品の好みから、年齢は三十代半ばから四十代半ばほどと伺える。
持ち主は誰なのだろう……そんなことを思っていると、小さな写真立てが目に入った。キャビネットの上、置物の奥にしまわれていたので、入ってきたときは気づかなかった。
百合の花のフレームがついたそれを手に取って、まじまじと眺める。
そこには、凛がいた。
それからフィアス。
彼らの両脇を挟むような形で、見知らぬ男性と女性が笑っている。男性の方はがっちりした欧米系で、女性は細身のアジア系だ。二人の親というには年若く、兄や姉と言うよりは年嵩としかさで、関係性がいまいち掴めない。
彩(凛ではなく、彩だと、時系列を考慮して真一は気づいた)はシンプルなデザインの、白いワンピースを着ている。大きな目を細め、両脇の男女と同じようにカメラを見つめて手を振っている。
四人のうちフィアスだけが、面倒くさそうに、あるいは気まずそうに視線を明後日の方向に向けている。彩に腕を引かれているところを見ると、強制的に被写体として参加させられたらしいことが伺える。
日常の一端を写した幸せな写真。写真の中の彼らは生き生きとしていて、当時の会話が今にも聞こえてきそうだ。
わざわざ寝室に置くくらいだから、家主にとっても、この一枚はよほど特別な意味を持っているに違いない。
真一は写真立てを元の場所に戻すと、数歩下がって、遠くから写真を眺めた。
まるで非業の死を遂げた芸術家の、世にも美しいの絵画を眺めるように。