フィアスは階下へ降りると、バスルームに向かう。この家には数えるほどしか来ていないが、どこに何があるのかを仔細に把握していた。
洗面所の前に立つ。鏡に映った自分の顔は、この上なく悲惨な有様だった。お化け屋敷の作り物の幽霊でさえ、こんなにひどい特殊メイクはしていないだろう。
血に染まったジャケットを脱いで、脱衣所のカゴに放り込む。上着ほどではないがワイシャツもところどころがまだらに濡れている。汗と香水と血のにおいが混ざり合ってむっとした。身体中についた戦いの痕を、洗い落とさなければならない。着替えの服も必要だ。
バスルームを出て、クローズルームに向かう。
その際、壁に貼られたメッセージカードをいくつか発見した。
雑な筆記体で、同じ一文が書き綴られている。
「Call me, Aldo! 」
見つけるたびに剥がして、ポケットにしまう。
カードは新しいものもあれば、インクが掠れて古びたものもある。数年前に貼られたものをそのまま残し、上書きしているらしい。
電話しなさい、というメッセージにこの家が侵食されていくことも厭わないのか、執念のようなものを感じて、フィアスは思わずつぶやいていた。
「Verzeihung……」
クローズルームの明かりをつけると、百着以上の女性ものの服が吊るされている。すべてこの家の主のものだ。見るからに高そうなパーティードレスや、ハイブランドの製品が多い。
贅を尽くしてコレクションされた中に、予想したとおり、自分の私服が保管されたスペースがあった。
死んだ子供の部屋をそのままにしておくように、きらびやかな衣服の端にかけられたシンプルなシャツとジーンズは、奇妙に浮いていた。
それらを手に取ってバスルームへ引き返す。服を脱いで、シャワーを浴びる。傷ついた左足は水を掛けると痛んだが、後天遺伝子の回復力で骨折は完治していた。筋肉組織も再構成されている。感染症に気をつけていれば、自己治療でまかなえそうだ。
身体中についた血を洗い流すと、早々に新しい服を着て、寝室に戻った。
真一に代わってベッドの前に腰を下ろす。
濡れた髪をタオルで拭いながらフィアスは言った。
「この家のことを話していなかったな」
「だいたいの検討はついたよ。ここは、あんたの育ての親の家だ」
真一は、キャビネットを指差した。そこに写真立てがあるとは気づかなかった。
茶色い目に茶色い髪、明るい化粧を施した女性が、微笑んでこちらを見ている。
この家の主である、トキトウ・サユリだ。
実年齢よりも若く見える彼女は、ショックキングピンクのセーターの上に、仕事着である白衣を身にまとっていた。
「彼女は、ニューヨーク在住の検死官だ」フィアスは言った。
「生家には、一年でも数日しか帰ってこない。空き家同然のこの場所のことを思い出して、使わせてもらうことにした」
フィアスは凛の手を取ると、もう片方の手で彼女の前髪をそっと撫でた。
「写真に写っているのは、アヤだ」
「思わず見間違えたよ。本当にそっくりな双子だな」
「ああ」
「もう一人のアメリカ人は?」
「アラン・ディクライシス。NYPDの捜査官で、俺を養子にした張本人だ」
「なるほどね。五年前の写真にしちゃ、お前もあまり変わってないな」
「……そう見えるだけだ」
足元に視線を落とす。色褪せたジーンズに、白のブロードシャツ。奇しくも写真に写る当時の自分と同じ格好をしている。時間が巻き戻ってしまったかのように。
しかし、自分はもう以前の自分ではない。遺伝子レベルで変貌を遂げた、ヒトならざるもの。
〝人間のフリはよそうぜ〟
地獄から、死者の声がささやく。
フィアスは握っていた凛の手を布団の中にしまうと、真一を振り返った。
「赤い目について話をしよう」
「話し辛いことなんじゃないのか? もう少し時間が経ってからでもいいよ」
「これはお前たちの生命にも関わることだ。俺のことは……」
「どうでも良くないよ」
真一はきっぱりと言った。
「俺はフィアスの気持ちが知りたい。お前がどう思っていて、何を考えているのか。本心を打ち明けることで強さを保てなくなるなら、その分を俺がカバーする」
フィアスは灰青色の目を床に落としたまま、じっとその言葉に耳を傾けた。真一が話し終わった後も、身動ぎしない。まるで自分の気持ちが文字として床に浮かび上がっているのを、読んでいるかのように。
あるいは解読しているのかもしれないな、と真一は思った。
充分な時間を取らないと、自分の感情を探し当てることもできないなんて。
戦場では器用に立ち回る割りに、自分自身に関してはとことん不器用なやつだ。
いや……、不器用ではなく、粗末か。
感情を封じて、自身の身体を道具のように扱わなければ生き延びられない世界にいたんだ。
そんなことを思っている間に、考えがまとまったらしい。
「恐怖を感じている」
静かな声でフィアスはつぶやいた。
「いつかこの手で、マイチやリンを殺してしまうかも知れない。そのことに恐怖を感じる……赤い目になると、見境がつかなくなるんだ」
「フォックスを倒した後、俺に銃を向けたな。あのときも、そうだったのか?」
「ああ……俺の身体には特殊な遺伝子が組み込まれていて、そいつが人格に変容をもたらす。敵も味方も、関係なくなるようだ」
「確かなのか?」
頷く代わりに、フィアスはため息をついた。
「フィオリーナは言っていた。この力を使い過ぎると、〝生き延びるための反動〟が起こる、と」
「〝生き延びるための反動〟?」
「最初は、俺にもよく分からなかった。しかし、フォックスにその反動が起こったとき、ある仮説が立った。〝生き延びるための反動〟……その正体は〝臨界反応〟だ」
フィアスは会話を切ると、手応えを確かめるように真一の顔を見上げた。その顔に疑問符を読み取ると、話すスピードを落とし、言葉の意味を解説するようにゆっくりと続ける。
「臨界反応とは、動物が起こす、攻撃行動の一種だ。ある動物が窮地に立たされた時、一縷の生存確率に賭けて、決死の攻撃を試みる……恐怖心を、原動力にして。
フォックスは、過去に殺した人間の幻覚を見て、恐怖していた。その瞬間の戦闘力は、今までと比べものにならないほど、高かった。
つまり、後天遺伝子を使い続けると、生命維持のために、臨界反応を起こすのではないかと思う……この仮説が正しいかは、体験してみないと、分からないが」
フィアスは暗い目を光らせて、微かに笑った。
「俺は死を恐れていない。人殺しの死際は、きっと惨めなものだろう。それよりも、生きていてほしい人間を殺して生き延びてしまうことに……後天遺伝子の本能に、とてつもない恐怖を覚える」
低い声がわずかな震えとともに閉じた。
フィアスは深い溜息を吐きだす。
真一はそんな彼のことを椅子の上から見下ろしていた。
フィアスに殺される自分を上手く想像出来ない。今でも、生命の危機であるはずが、実感が湧かない。
それは、現実とは思えない後天遺伝子のせいでなく、彼がそんなことをするはずがないと深く信頼しているからだ。
自分はまだしも、冷静さを失うほど大切に思っている凛を殺すことがあるだろうか?
いくら本能に支配されてしまったとしても。
「そんなはずないよ」真一は言った。
「理論と理屈でしか物を考えないお前が、本能的に俺たちを殺すなんてあり得ない。……絶対に、あり得ないよ」
「フォックスの末路を見ただろう?」
「アイツは、本能のままに生きる奴だったじゃないか。後天遺伝子に意識を乗っ取られやすかったんだろう。でも、お前は違う。お前には、知性もあるし、理性もある。それに、後天遺伝子を使わない選択肢だってある」
「俺の遺伝子を改良して、赤い目の兵隊が作られているんだ。同じ土俵で戦わなければ殺される」
「戦わなきゃいい。逃げようぜ」
「俺たちが逃げても、横浜に残った家族や友人が血祭りにあげられる……お前は、きっと、耐えられない」
静寂の空間に、長い沈黙が漂った。
真一は楽しいことを探す。珍しく、今日は何も思いつかない。
その代わり、笹川組のみんな、仕事仲間、地元の友達、そして取り立て屋の荻野茜の顔が浮かぶ。
口を閉じた真一を見て、フィアスは、ベッドへ向き直る。凛に手を伸ばしかけ、止めた。
数秒宙をさまよい、左手が自分の元へ帰ってくる。
本日何度目になるのか、じっと両手を見つめた。
洗い流したはずなのに、そこには乾き切っていない血液がこびりついているような気がした。
長い無音が漂った。何も考えられない、熱された飴のように伸びた、一秒間の連続だった。
「言ったはずだぜ、〝三人がどうやったらこの問題を乗り越えられるか考えよう〟って」
真一は席を立ち上がる。キャビネットまで歩き、立てかけられた写真を手に取る。
彩とサユリとアラン……そして、アルド。
失われた人々が笑う、過去の幸福。
先の未来でも、こんな写真が撮れるといい……いや、それは願望だ。
望むだけは、実現しない。
いつか、こんな写真を撮る。楽しさしか見出せない瞬間を、飽きるほどに写真に焼きつけてやる。
フィアスは何も言わなかった。
真一の言葉に対して、肯定も否定も示さないばかりか、身にまとった気配の一つ、変えなかった。
ただ、いつもと変わりない声で、
「友と見込んで心情を吐露した」
振り返りざま、真一を映す青い目がわずかに細まった。
「誰かに話したら、絶交だ」