「聴力のせいで武器が使えねぇ? そんなものはただのゴタクだ。どちらかを選べというのなら、俺は迷わず武器を取る。静寂の世界で、お前の血を見せてくれよっ!」
硝煙弾雨しょうえんだんうの轟音の中から、がなり声が聞こえた。
 フィアスは壁に身を寄せる。革靴のすぐ傍を、跳ねるように9mm弾が掠めゆく。扱い慣れた武器だけあり、リロードの隙は巧妙に隠されている。
 今までの不満を吐き出すかのように銃弾の雨は降り続け、立ち込める火薬のにおいに頭が痛くなった。
フォックスの鼓膜こまくはとうに潰れているだろう。居場所を探知される恐れはなくなったが、延々と銃撃を受けることに比べてどちらがマシかと問われると答えに困る。
 頭を守りながら、豪雨が過ぎ去るのをじっと待つ。
 それから十数秒後に銃声が止んだ。
 硝煙が色濃く漂う中を、素早く移動する。
「ほぅら! 逃げろ逃げろ逃げろ!」
 壁から壁へ移動する後を銃弾が追ってくる。その一枚へ滑り込み、身を丸める。銃撃は逃げ込んだ壁を通り過ぎ、広範囲をなめるように穿つと止んだ。集中砲火しゅうちゅうほうかを受けていないので、逃げ込んだ場所までは特定できなかったようだ。
 それでも、不利な状況に変わりない。苦い絶望を飲み込んで、フィアスは目を閉じる。血路を開く方法を見つけようと試みるが、頭がうまく働かない。疲労が原因ではなく、論理的に物事を考えにくくなっているのだ。
 熱に浮かされたときのように、思考する傍から言葉が消えていくあの感覚。
「くそっ……!」
 後天遺伝子は、身体だけでなく心にまで影響が及ぶというのか。
 記憶をうしなったときとは違う、自分が自分でなくなる感覚にゾッとした。それは怪我を追った全身の、驚異的な回復力よりもおぞましいことだった。
「神に祈りな! どうか楽に死ねますようにってな」
聴力を失ったフォックスの声は、波がうねるように大きなったり小さくなったりする。あるいは、その声を聞き取る自分の頭がおかしくなっているのか、フィアスには分からなかった。


 短機関銃を肩に担ぐと、フォックスは揚々とホールを歩き始めた。ありとあらゆる音が虚空に消えた無音の世界。わずかな金属音でさえ苦痛に感じた先刻とは大違いだ。戦いが不利になると気がかりだったが、音のないことで集中力が増し、どんな不意打ちにも対処できる自信がある。
 そもそも、この戦いは勝ったも同然だ。奴は丸腰で、身を隠すしか術がない。
「ふはははは! 久しぶりの猟だぜ、フィアス! 救世主様に命乞いをしな!」
防壁の陰を覗き込む……ハズレ。天に向けて銃を発砲する。少しずつ迫る死の恐怖を、存分に味合わせるためだ。
獲物を発見したところで、楽に死なせる気はない。早くもフォックスの頭の中で、ありとあらゆる拷問処刑法がシュミレートされる。すぐにでも生捕りたいが、延々とこの時間を長引かせるのもいい。苦痛と恐怖。生殺与奪せいさつよだつの権限はグリップを握るこの手の中にある。
「ようやく……ようやく手に入るぞ、フィオリーナ!」
 相反する欲望の狭間で、フォックスはあえぐように呼吸する。この戦いにカタがつけば、〈BLOOD THIRSTY 〉は掌握しょうあくしたも同然だ。興奮に両腕が震えた。鳥肌が立った。
 視界の端で人影が動いた。獲物だ。逃げ込んだ防壁へ向けて走る。運命の瞬間までもう少し。
「Oggi è uno dei giorni più belli della mia vita !(今日は人生で最高の日だ!)」
 銃を構え、コンクリート壁の裏側へ飛び込む。
 そして、異変に気づいた。
 第一の異変は温度だった。残暑を乗せた温風ではなく、凍るほど冷たい冬の風が腕を滑った。次に変わったのは、においだった。ホール中に漂っていた火薬のにおいが消えた。その代わり、土と草の湿ったにおいが鼻をついた。
 足元を見下ろすと、どうしたことか、コンクリートの地面が焦げ茶色の土に変わっている。数時間前まで雨が降っていたのか、地面がぬかるみ、艶やかな光を放っている。
 ……なんだこれは。
 フォックスは顔を上げて、あたりを見回す。地面どころか、目に映る景色が一変している。
 漏斗型のホール、ドミノのように並んだコンクリート壁など見る影もない。眼前には深緑の生垣が長く続いていて、遠くに石造りの家々が見える。空は暗く、降るような星空が輝いている。三百六十度どこを見回しても、戦いのフィールドらしき場所はない。
 SF映画のように、別の場所へ瞬間移動したかのようだ。
「ど、どういうことだ? なんだ、これは? なにが起きているんだ?」
 銃を構え、周囲を警戒する。
「お、お、俺は……つい、さっきまで……。それに、この場所……」
人の気配を感じ、素早く銃を向ける。自分より二十メートルほど前を、誰かが歩いている。フィアスかと思ったが、その人間は焦げ茶色の長い髪を腰まで伸ばした女性だった。
 闇夜にピンク色のドレスが、ぼんやりと浮かび上がっている。
 女性は生垣の角を曲がった。その横顔はウェーブした長い髪に隠されて見えなかったが、どことなくフィオリーナに似ていた。もちろん髪の色が違うので、他人の空似であることは間違いないのだが。
 近寄らない方が良い、とフォックスは直感した。そして、直感とは裏腹に、生垣に向けて歩き始めた。
 やめろ! 近づくな! あの女の姿を、見るな!
頭の中で声が聞こえる。叫びに近い、自分の悲鳴。それなのに、足が止まらない。まるで心と身体が切り離されてしまったかのように恐怖と憎悪に身悶えする自分を、心の凪いだ自分が見ている。不思議な気持ちだ。
 そして、この場所……何もかもが懐かしい。
 そう、ここは自分の故郷。この手で葬り去った、今は失き幻の村。
 ……曲がり角が近づいてきた。
 角を曲がると何があるのか、フォックスは知っている。それは、記憶の中にある通りに再現されて現れる。
 教会――かつてアンジェロと呼ばれていた、捨て子たちの巣食う場所。風化した木柵の間をすり抜け、女は扉の前にひざまずいている。寒風の吹き荒れる中、ピンク色のドレスは透けるほど薄い。その背中は女性というには頼りない、あどけない少女のものだ。二十歳にも届いていないだろう。
 なびいた茶髪が、糸のように絡みつく。
 彼女は、両腕に何かを抱えている。
 それは白い布にくるまっている。
 全部幻だっ! 何もかも俺の妄想だ!
 喚き立てる自分の声が頭に響く中、フォックスは少女の元へ歩き始めた。月明かりが作り出す長い影が、彼女の全身を覆い隠した。
 殺したいほど憎いのに、殺せない。
 世界には、愛と裏切りが存在する。
「その顔を、見せてくれ」
 震えた声でつぶやくと、彼女はゆっくりと振り返った。
 その姿が、小麗に変わった。東洋人の蛇のように黒い眼が自分の顔を映し出す。
 赤い瞳に、見つめ返される。
「う、うわあああっ!」
 フォックスは銃身を向けると女を撃った。乾いた音を立て、太腿から肩先へ横切るように穴が空く。青いチャイナドレスがみるみる血に染まり、女はその場に崩れ落ちる……恨めしげにフォックスを見つめたまま。
「行かないで……」
「行かないで……」
「行かないで……」
小麗の幻影は地面に溶け、沼と化した黒い影から大量の手が吹き出した。
細い女たちの腕が、何十本もフォックスの足に絡みつく。地面から生えた花のように、足から腰へ、肩先へと伸びてゆく。
「や、やめろ……」
その中に、ピンク色のマニキュアを施した、白い手が見える。
「やめろ……!」
その手が伸びると、地面から茶色い髪の女が出てきた。ピンク色のドレスを纏った、あの少女。
 この手が殺し損ねた、唯一の娼婦。
 色濃くかげった、得体の知れない顔の中で、口と思しき場所が開く。
 誤解だわ、と彼女はつぶやく。
「殺し損ねたのは私の方よ」