「やっ、やめろおおおおおぉぉーっ!」
ひときわ大きな悲鳴が上がり、続く銃声がホールに響き渡った。
「さ、触るななぁぁ! やめろ、やめろー! うわっ、うわああぁっ!」
フィアスは防御姿勢をといて、壁から顔を覗かせた。アタリをつけていた場所に、敵の姿はなかった。上階へ続く道は真っ直ぐに開かれている。
血路が開いた。
防壁に身を隠しながら、目的地へ向けて走る。メイン通路からコンクリート壁を数枚隔てた場所にフォックスはいるらしい。理由は分からないが、錯乱しているようだ。
〝生き延びるための反動〟が顕現したのだろうか? しかし、今は、フィオリーナの研究結果を確かめている暇はない。
フォックスと同じ列の道を通った時、焦げ付いた火薬の臭いが漂った。そして……⁠強い血のにおい⁠がフィアスの鼻をついた。
そのにおいを嗅いだ瞬間、意に反して足が止まった。
フィアスは足元を見下ろす。
動かない。
壁の前に立たされたように、一歩も先へ進めない。動けと命じても無駄だ。
手近な壁へと引き返し、地面に膝をつく。
痛いくらい、心臓が脈打っていた。強烈な喉の渇きとともに。
衝動。本能。欲望……それらの言葉が頭の中をぐるぐる回る。
足が動かなかった理由は、考えなくても分かる。
血だ。
血のにおいに反応したのだ。
スーツの袖で鼻と口を塞ぐが、強烈なそのにおい、その衝動はごまかせない。
もっと血のにおいを嗅ぎたい。
「離せ! この、クソ女ども……! 地獄に堕ちろっ! くそっ……! 触るな! 触るなぁっ!」
フォックスの声が不思議な反響を伴って、フィアスの耳に届く。遠いようで、近い。近いようで、遠い。
意識が、思考が、遠のいてゆく。
ふらつきながらフィアスは立ち上がった。壁に手をつき、夢現の状態のまま、衝動の根元へと歩を進める。
血だ、すぐそばに大量の血液がある。
⁠少しでも多くの血が見たい。
硝煙のベールを抜け、そっと壁の裏側を覗き込む。
「死にたくねぇーっ!」
怒号と、銃声。
フィアスの赤い虹彩に映ったのは、短機関銃を地面に向けて乱射する狂人の姿だった。フォックスの足元は、自身の血で真っ赤に染まっていた。地面に放たれた数発の銃弾が足を貫き、軍靴をぼろぼろにしている。その血が染み込んで、彼のジーンズは膝下までがドス黒く濡れていた。
むせ返るような血のにおいは、自傷というには壮絶な彼の自滅攻撃によるものだった。
痛みを感じないのか、両足が潰れてもフォックスは引き金を引く指を止めない。
しかし、それ以上にフィアスにとって衝撃的だったのは、彼の両目から異質な涙が流れていたことだ。赤黒いどろりとした血が目から頬にかけて太い川を作っている。血の涙はどくどくと溢れ続け、恐怖に引きつった顔を真っ赤に染めた。
〝生き延びることに対する反動が起こる。〟
息をするのも忘れ、破滅的な光景に見入っていたフィアスに、フォックスが気づいた。赤い目と目が合うと、血の欲望に変わって、本能的な回避行動が素早く身体を動かした。
フォックスが銃身を向けるより先に、地面を蹴る。横倒しに手近な防壁へと飛び込む。短機関銃の軽い銃声とともに、コンクリートの地面に点々と穴が空く。地面を滑る銃弾は、壁に全身が隠れる前に、左足首を貫いた。
熱を帯びた金属の、鋭い衝撃が左半身を駆け抜けた。転がるように数枚の壁を抜け、地面に膝をつく。
「ぐぅうっ……!」
服の上から患部に触れると、べっとりとした血が掌についた。みるみるズボンに染み込み、裾を伝って血溜まりが滴り落ちる。
胴体よりも末端を、傷つけられた痛みは鋭い。突き立てた膝に額を乗せ、荒く息を吐く。
後天遺伝子の回復力により、銃創は数分で塞がるはずだ。それでも頭のてっぺんから急速に血の気が引くのを止められない。
重い腕を持ち上げると、意識の混濁を防ぐため、フィアスは力を込めて噛んだ。
銃弾は無軌道に地面を擦るばかりでなくなっていた。
未だ見えない幻影と戦っていたが、フォックスはその中の一人としてフィアスを認識した。血塗れの足を引きずって、標的の探索を始めている。
「殺さないでくれ……。母さん、殺さないでくれ……母さん……」
激しい悲鳴は、今や諦念の滲んだ嗚咽に変わっていた。親にすがる幼子のように、彼は生命にすがっていた。
理性を失い、⁠恐怖と混乱に苛まれながら、命乞いをする。
これが生き延びることの反動。
これが後天遺伝子を持つ者の末路。
「殺さないでくれ……。ううぅ、頼む。母さん、殺さないで……」
フィアスは目を閉じ、耳を塞いだ。


「フィアス!」
そのとき、頭上から声が聞こえた。幻聴かと疑ったが、降り注ぐ視線の先をたどると、すぐに見つかった。エントランスから向かって右の部屋。等間隔に並んだパネルの陰から、本郷真一が⁠ホールを見下ろしていた。目が合うと、さっと片手を挙げる。
その手には銃が握られていた。
なぜここにいる? どうしてこの場所が分かった? 何をしようとしているんだ?
浮かび上がった様々な質問を伝える術がない。呆気にとられていると、真一が「今、助ける」ということを身振りで伝えてきた。
フォックスに向け、銃を構える。
「よせっ!」
フィアスが叫ぶより先に、銃口が火を吹いた。銃弾はフォックスの近くの壁にあたった。
発狂者の嗚咽が止んだ。フォックスが狙撃先を見上げたに違いない――真一の顔が恐怖に強張った。
刹那、短機関銃の乾いた銃弾が、真一のいる部屋に向けて放たれた。
「うわああぁぁぁぁぁ!」
恐怖に慄くフォックスの声が建物中に轟く。狼狽た様子だったが、銃を握る手は素早く弾倉を交換した。身体に染み付いた記憶が戦いの行動を引き起こさせているらしい。出血した足を引きずりながら、フォックスはエントランスに向けて歩き出す。上階に現れた恐怖の根源を始末する気だ。
フィアスは自身の足に目をやる。傷口は塞がり始めていたが、まだ動かせる状態じゃない。増して、歩くことなど出来そうにない。
その間にもフォックスの背中はどんどん遠ざかる。
真一が殺されるのは時間の問題だ。
焦りだけが胸の中で大きくなってゆく。
一か八かの閃きが脳裏をよぎり、フィアスは真一に向かって叫んだ。
「銃を投げろーっ!」
次の瞬間、壁の向こうから放物線を描いて銃が飛んできた。
昨晩手入れしたばかりの、グロック19。
フィアスは防壁から飛び出すと、手を伸ばして銃を受け取った。
地面に横たわったまま、構える。
気配を感じてフォックスが振り返った。恐怖、憎悪、⁠後悔……それらに支配された顔は、人間のものではなくなっていた。
それは獣――後天遺伝子が作り出した怪物だ。

フィアスの放った弾丸は、フォックスの眉間を貫いた。