透明な感情が、心を支配する。
 怒りも、恐怖もない。あるのは目の前の敵を亡き者にしようとする、野生的な闘争心。獣の心で眺める景色はとても静かだ。
 思考が動作と一体をなしている。思っていることが次の瞬間には現実になる。
 しかし、万能感は得られない。どこまでも操作されている感覚が拭えない。攻撃指令は脳から下されているものの、その奥には自分とは違う意思――後天遺伝子が潜んでいる。そんな気がする。


 拳を眼前まで引きつけ、かわす。繰り出したカウンターパンチが肩先を殴りつける。
 ぐぅっ、と頭上で呻く声。指の関節に骨を穿うがった感触が残る。
 数回の殴打で、ようやく肩を砕いた。
 フォックスに比べ、一回の攻撃で与えられるダメージは劣るが、量をくわえることでカバーしている。
 この数分、劣勢から優勢へと巻き返しを図っているが、骨を折っても砕いても敵は怯まない。後天遺伝子が傷ついた細胞をすみやかに回復させているからだ。
 叩き折った肩の骨もあっという間に完治するだろう。折れていたはずの自分の右手が、元どおりに全快したように。
 銃撃でしか殺せない、とフィアスは悟る。身体が瞬時に回復してしまうのなら、司令塔を破壊するしかない。
 眉間に一発。
 しかし、銃は上階の部屋にある。取り返すためには、迷路のようなホールを抜けてエントランスにたどり着かなければならない。
 この状況で、敵を欺くには……
「さっきのお返しだ!」
 わずかな思案の隙を突いて、フォックスが仕掛けた。手首に仕込んでいたナイフを、殴打に見せかけて繰り出したのだ。滑らかな刃先が喉元を裂こうとする。避けられない。盾にした右腕に、熱い痛みが走る。コンクリート壁へ飛び込み、ドミノのように等間隔に建てられた壁と壁の間を抜けて、間合いを作る。
 右腕は谷間のように深く裂けていた。神経まで届くほどの深い傷。そこからおびただしい量の血が溢れ出し、切り裂かれたスーツの袖口を赤黒く濡らす。
 片腕を失うことを覚悟しながら患部を抑えつけていると、意外なほどあっさりと流血がおさまった。それどころか、五分も経たないうちに切り口が結合し、皮膚に薄い傷痕を残して元に戻った。まるで巻き戻された映像を見ているようだ。
「悪夢だ……」
思わず発した声を聞きつけ、敵が動いた。香水のにおいが間近に迫り、防壁の陰からフォックスが現れる。赤い目を細め、不敵に笑っている。
「俺たちは人間じゃねぇ。ようやく理解したか?」
「どうだかな。お前ほど熱心に勉強していたわけじゃない」
ふふん、とフォックスは鼻で笑う。
「分かってるよな。俺が望むのは、単純な力の勝敗だ」
固い拳が気まぐれにコンクリートを打つ。一枚の壁にみるみる亀裂が走り、数秒も経たず瓦解がかいする。
 どんな力を得ようともこんな余興はしたくない、とフィアスは思う。人間でなくなりつつあるが、自ら進んでその枠を破りたいとは思わない。人智じんちを超えた破壊力を抑止する力……それだけが、自分の中に残された「人間らしさ」と呼べる唯一のものだった。
 フォックスは両拳を打ち合わせると、大きく吠えた。
「獣は獣らしく、爪と牙で殺し合おうぜ!」
突き出された拳は勢いを増していた。避けることを諦め、腹部を滅茶苦茶にされる前に両腕でガードする。全腕骨ぜんわんこつの折れる衝撃とともに、脳天を貫く痛みが走る。
「っぐ……つううぅっ……」
歯を食いしばり、飛びかけた意識を引き戻す。後退した勢いに乗って、死角に飛び込み退避する。エントランスから離れた方向へ向かったためか、フォックスは跡を追ってこなかった。
 ある地点で立ち止まり、目を閉じる。ムスクの香水は遠くで微かににおうばかりだ。居場所を探知されているかも知れないが、再び距離に開きが出来た。
 額から流れる汗を、頭を振って払う。攻撃を防いだ両腕はだらりと身体の両側に垂れ下がっている。痛みは薄い。後天遺伝子が骨折の治癒を始めていることが感覚的に分かる。おぞましい能力にすがらなければならない状況に吐き気を覚えるが、それよりも考えなければならないことがある。
 そう……考えたくないが、考えなければならない。
 後天遺伝子が覚醒しただけでは、勝てない。
 力の差は互角ではない。〈サイコ・ブレイン〉で訓練を積んだのだろう、後天遺伝子の扱いにかけてはフォックスの方が一枚上手うわてだ。体格差から考えても、一回の攻撃に載せるパワーは彼の方が重く、強い。
 肉弾戦は不利だ。
 頭上を見る。屋根のない廃墟に、四角く切り取られた空が青い。左右の壁にバルコニーのように突き出ているのは、上階に並行した二つの部屋だ。
 目的地は眼の前に見えるのに手が届かない。
 フォックスは、エントランスの近くで待ち伏せしているはずだ。銃を使うことは、このゲームではルール違反らしい。
 奴が望むのは、単純な力の勝敗。
 獣は獣らしく……爪と牙で……。
 単純な力……爪と牙……。
 フィアスは眉を潜める。
 本当に、そうだろうか?
 後天遺伝子の強さを比べるには、戦闘をシンプルにするべきだ。武器による加算的な強さを除くことで、身体的な能力値を割り出すことができる。
 だが、その戦い方はフォックスの好みではない。
 奴の得物は短機関銃。派手な弾幕を敷き、逃げ道を失った標的をなぶり殺す。
 ここ一番の勝負時に銃を持ち出そうとしないのは、彼の美学に反することだ。今までの戦い方から考えても、フェアな勝負を望んでいるとは思えない。それなのに、この期に及んでストリート・ファイトにこだわるのはなぜだ?
 そもそも拳でのやりあいを望んでいるなら、どうしてナイフを使う?
 もしかして……、フィアスの頭にある考えが思い浮かぶ。
 フィオリーナから位置情報を盗聴し、奇襲をしかけたあのときから、フォックスには狙いがあった。
 その狙いとは、混乱に乗じて銃を奪うこと。そして階下のホールへと一気にフィールドを変えること。
 すべては銃を遠ざけるためだ。
 その理由は、おそらく……。
 指先に力を入れると、動いた。腕をそっと持ち上げて、動作を確かめる。
 ロボットを操作しているような隣人感りんじんかんは拭えないが、わずかな痺れを残して両腕は元通りに回復していた。
 ホルスターに備え付けてあったマガジンケースを取り出し、弾を数発、ポケットに忍ばせる。それから呼吸を整えると、ホールに向け大声で叫んだ。
「フォックス!」
ムスクの香水が一気に迫る。
 俊敏な動きは狩に飛び出した獣のよう。
 向こうが獣なら、こちらは猟師だ。
 迎え撃つ。
 防壁が縦に折るように破壊された。突き破った壁の中から粉塵ふんじんがたちのぼる。白く濁った煙の中に赤い髪が揺らぐのを見とめると、フィアスは一発の銃弾を壁に向かって弾いた。
 キン、と金属音が響く。
 フォックスの手が、反射的に耳に伸びる。
 隙が出来た。
 フィアスは身を低くすると、全体重を乗せた拳で、フォックスの胸元を殴りつけた。
 大きな身体がずるずると後退し、壁に叩きつけられる。ぐうぅ、と呻きつつも、未だに両耳を擦っている。力を込めた殴打より、金属音に苦痛を感じるというように。
「その耳に銃声は大きすぎる」
肩で息をつきながらフィアスは言った。
 初めて後天遺伝子が覚醒したとき、同じ苦しみを味わった。シーサイドタワーでの脱出の最中、五感の全てが鋭くなり、敵の足音さえもうるさくて仕方なかった。
 後天遺伝子は全ての五感を発達させるが、その中でも一段と強まる器官は、個々によって違うらしい。
 二発目の銃弾を壁にぶつけてみる。高い音を聞き取っても自分はなんとも思わない。
「皮肉だな。強さを得たせいで、武器が使えなくなるなんて」
「勝手にほざけ!」
ぺっ、と血痰けったんを吐き捨てて殺し屋は顔を上げる。威勢が良いものの、金属音が響くとその表情は苦悶くもんに歪んだ。
 じりじりと追い詰めながら、敵を出し抜く隙を伺う。弱点を見出せたからと言って、油断してはいけない。パワーバランスは相手の方が優れている。一撃で息の根を止めにかかってくる危険性もあるのだ。
 殺意に色づいた赤い視線が交錯する中、フォックスは口を開いた。
「銃を撃てなくなったことは、随分前に分かっていたさ。後天遺伝子が覚醒してから、有頂天のままここへ来たわけじゃねぇ」
「だからこんな回りくどいやり方を選んだ。あたかも果し合いのように見せかけて、銃を遠ざけるために」
「そいつはただの戦略に過ぎないぜ」
フォックスはじりじりと後退する。勝利者の笑みを浮かべながら。
 窮地に追い詰めているはずなのに、この違和感はなんだ?
 優位に立った自分の方が、肉食獣の穴蔵へおびき寄せられたネズミみたいだ。
 対峙したまま、フィアスは周囲に視線を走らせる。
 いつの間にか、ホールの中心部へ導かれている。
 敵の背後には一際大きな壁が佇んでいる。その足元に、真新しいインクでつけられた「×」印を見つけたとき、瞬時にこの言葉が脳裏をよぎった。
 蟻地獄。
 フォックスが壁の後ろへ消えると同時に、フィアスも手近な壁へと滑り込む。
 刹那、フルオートの銃声が雷鳴のように轟いた。