「くそっ!」
力任せに机を叩くが、シドの気持ちは収まらない。くそっ! と繰り返し吐き捨てた後で、思わずこの言葉がついて出た。
「赤い目に、なりやがって!」
 赤い目……、真一はモニターに映し出されたフィアスの顔を見る。
 彼の瞳は、変色していた。廊下で襲撃してきた、ゾンビ野郎と同じ目だ。
 あのときの金切り声は、人間のものとは思えなかった。理性の欠片もない、狂った動物の鳴き声。
 詳しい事情は分からない。それでも、このまま指を咥えて見ているつもりもない。
「⁠俺は行く」
その声を聞いて、シドは振り返る。やめろ、と怒鳴りかけた言葉を、黒い銃身がはばむ。
大男は両手を軽く上げ、扉の前に立つ青年に向かって告げた。
「君が行ったところで虫けらのように殺されるだけだ」
「それでもいい」
銃を構えた真一の目から、大粒の涙が零れる。
大きな黒目に浮かんだ白月は、まっすぐにシドの目を見据えた。
「約束したんだ。俺たちがどうやったらこの問題を切り抜けられるか考えようって……今度は、俺がフィアスを助ける番だ」
⁠銃を持つ手は震えているが、力づくで止めようとすれば、確実に発砲するだろう。狂気とも覚悟ともつかない真一の意識は、既に戦場へと赴いている。
シドは軽く頭を振る。クレイジーなお人好し野郎ども……類は友を呼ぶってか。そんな愚痴を自国の言葉でつぶやき、溜息を吐く。
……おそらく、自分もお仲間の一人だ。認めたくはないが。
シドは観念したように、口を開いた。
「一つだけ伝えたいことがある。今朝の電話についてだ」
「フォックスが何を言っていたのか、教えてくれるのか?」
「ああ。実のところ、フォックスは、君も戦場に来ることを望んでいた。⁠それはリュウトウリンを賭けた戦いの、条件の一つにくわえられていた。君を見せしめに殺すつもりだったのか、戦いの見物客にするつもりだったのかは分からん⁠。その話を聞いたフィアスは、条件を飲むフリをして、電話を切った。それから開口一番に、ドイツ語でフィオリーナに断言したそうだ。
〝ホンゴウマイチは、ここに置いていく。例え貴女が命令しても、聞き入れることはできない〟と」
真一はかつてフォックスに連れられてシーサイドタワーへ突撃したことを思い出した。フォックスとフィアスが決定的に袂を分かつ原因になったのは、守るべき対象を戦場へ連れてきたことだと後で知った。
「フィアスは⁠君に電話の内容を伝えなかった。そのことを知ったら、君は絶対についていくと言うだろう? ⁠リュウトウリンと違って、<サイコ・ブレイン>には⁠ホンゴウマイチを生かしておく特別な理由はない。だからこそ、⁠君を危険に近づけたくなかったんだ」
「なんだよ……仕事の邪魔をするなって言っておきながら、俺がいなきゃ、仕事が成立しなかったんじゃないか」
ははは、と涙の滲んだ声で真一は笑った。
 シドは赤茶色の眼差しで真一を見据えると、厳しい声で告げた。
「悔いのないように行動しろ」
 強く頷いて、真一は駆け出した。
 廊下に出て、地上へ続く扉を目指す。途中、ホテルと地下を繋ぐ鉄扉に鍵が掛かっていることを思い出したが、いざたどり着いてみるとドアには大きな穴が開いていた。外側から破られた跡だ。
あのゾンビ野郎、相当な怪力の持ち主だ……抜き足で穴をくぐり抜けながら、両腕に鳥肌が立つのを感じた。 これから戦場へ立つ人間の武者震いかと思ったが、続く嫌な寒気を覚え眉をひそめた。 
⁠その感覚が訴える何かは、地下階段を上り切ったところで、見つかった。
 嫌な寒気……それは「死」に近づく時の、生理的な嫌悪感だった。
 血、血、血……
 ホテルのロビーは、一面が血の海だった。あちこちに人が倒れ、物が破壊されている。
 破られたガラス窓の向こうでサイレンの赤い光が何重にも点滅していて眩しい。
 これもアイツの仕業か? あの赤い目の……。
 ぼんやりと周囲を観察していた真一は、我に帰って身をかがめる。⁠目立たないよう体勢を低くしながら、人でごった返すロビーをそそくさと抜けた。こんなところで足止めを食うわけにいかない。
 幸いにもパニックに陥った人たちは、さっと人混みに紛れた真一に気がつかなかった。
 ホテルから離れた大通りに出てタクシーを拾う。
「おっちゃん、幽霊展示場って分かるか? えっ、知らない? とにかく、小田原方面に向かってくれ」
向かう先は衛星カメラの上空写真から目星がついていた。彼らの戦場は、かつて自分も足を踏み入れた巨大な廃墟。ここから一時間ほどの距離だ。
 フィアスは無事でいられるだろうか。映像を見る限り、かなり劣勢に見えたが……。
 頼む、俺が来るまで生き延びてくれ。
 祈るように、真一はポケットの銃を握りしめた。