「分かった。すぐに向かう」
英語での簡潔なやりとりを終えた後、この言葉で締めくくった。相手が電話を切るまで待ち、携帯電話を机の上に置く。ディスプレイに表示された通話時間は5分。
 シドの顔色はかんばしくない。電波の出所を突き止められなかったようだ。
 フィオリーナは唇を人差し指でなぞりながら、携帯電話を見つめている。悩み事より考え事、途方に暮れているというより、具体的な策を練っているように見える。
 強い眼差しにあてられる。真向かいの席に腰掛け、真一はじっとこちらを見つめていた。その目は、雄弁ゆうべんにものを語っていた。自分の思惑とは裏腹に動こうとする、彼の意思を。
「フィオリーナ」
言語が変われば、名前のイントネーションも変わる。あたかもその国にいるように、フィアスはドイツ語で話し始めた。
 スラックスのポケットに手を突っ込んだまま、淡々とした口調で続ける。声の抑揚から言語外の情報が伝わるのを防ぐためだ。火事場で働く真一の勘は鋭い。
 フィオリーナも同じ言葉で相槌を打つ。態度には出さないが、曖昧な受け答えだ。こちらの意見に概ね同意だが、完全にイエスではないらしい。
 彼女は視線を外野に向けた。 ならってフィアスも目を向ける。
 彼の存在は、無視できないほど大きくなっている。というのも、真一は世界中のどの人種にも通じる苛立った態度で、片膝を揺すっていたからだ。
「お前は時々、陰湿いんしつだ」
態度とは裏腹に静かな声で真一は言った。
「俺が気に食わないのは、いつもそこだよ」
フィアスは口を開き、ドイツ語の背後に隠れたこの土地の言語を思い出そうとする。その一瞬の空白が、今日はやけに長い。
「……悪かったな」
「本当に悪いと思ってんなら、話すことがあるだろう」
「話すことなど……」
「それなら言ってやる」
間髪入れず、真一は続ける。
「俺も行く」
その瞳は、揺らがない。
「俺も一緒に戦う」
「ここにいろ」
「嫌だ」
「ここで、じっとしてろ!」
「嫌だ!」
「シド」
真一を無視して、片隅の壁にもたれた、大男を呼ぶ。
「詳細はフィオリーナに。英語で聞け」
 フィアス! 嫌になるほど聞き知った声が、背後から響く。
 肩先に伸びる手の気配。吐きかけた溜息を飲み込んで、フィアスはその手首を掴んだ。アウトドア用のいかつい腕時計が指に触れた。
 素早く腕を引き、前にのめった真一の身体を、半円を描くように壁に叩きつける。相手の力を利用した、護身に近い制圧術だ。
 押さえ込んだ首に圧をかけながら、低い声で告げる。
「これ以上駄々をこねるのなら、眠ってもらう」
ぐうぅ、と真一はうめく。涙に潤んだ目の奥は、依然輝きを残したまま、訴えるようにフィアスを見つめる。
「き、昨日、言ったこと……忘れちゃったのか?」
昨日。フィアスは声に出さず反芻する。さも当然のように口にしていた真一の言葉。
〝俺たち三人が、どうやったらこの問題を切り抜けられるか考えよう〟
……忘れられるわけがない。
 腕の力を緩める。床に膝をついたまま、真一が激しく咳き込む。その姿はあまりにも無防備だ。ヤクザの血縁とはいえ、真一は平和な国で育てられた二十歳の青年なのだ。この瞬間、フィアスは、真一を始末する方法を何通りも思いつくことが出来る……戦場に連れて行けば、少なくともその数倍の手段で死の危険は迫ってくる。
 理想と情熱だけでは、心臓は守れない。
「お前に望むことは何もない」
青い目で真一を見下ろし、フィアスは言った。
「仕事の邪魔をしないでくれ」


 装備品はほぼ同じ。新しく調達したS&W M5906と、サイドアームのglock19。ヒップホルスターの片側にシースナイフを引っ掛ける。
 ショルダーホルスターの片側には、ダブルカラムの弾倉が二丁。この日に備えて、入念に動作確認を行なっている。
 一口だけ吸った煙草を地面にすりつぶす。湿った地下駐車場は靴底で一揉するだけで、簡単に火種が消えた。
 傍に佇むフィオリーナは、ブルーヒューの深い眼差しでフィアスを見た。
「それでは、打ち合わせ通りに……くれぐれも、自分を見失わないでください」
 フィアスは頷き、車のエンジンを掛ける。
 一之瀬の手から戻されたBMWは、以前と同じく軽快な走りを見せる。
 三十分前にフィオリーナと話したことを反芻はんすうながら、目的地を目指す。


 フォックスが指定した場所へは、俺一人で向かう。
 貴女には、衛星からの観測をお願いしたい。
 地形などの情報を事前に収集してくれ。
 具体的な作戦は、あとで話す。
「それが貴方の決断なら、わたくしは従いましょう」
ドイツ語で話した内容を受けて、フィオリーナは言った。地下駐車場へ向かう途中のことだ。彼女は英語でやりとりした電話の内容を知っている。許諾きょだくの意味は、真一を連れて行かないという内容を含めてのことだろう。フィアスは無言のまま、廊下を歩く。
 しばらく沈黙が続いた後、柔らかな手が腕を掴んだ。
 振り返ると、彼女は真っ直ぐな目でフィアスを見つめた。
「戦わないでください」
澄んだ声でフィオリーナは言った。
「戦わないことに、この戦いの勝機はあります」
「戦わなければ、殺される」
女上司は微かに逡巡の仕草を見せたが、再びフィアスに向き直ると、歯切れ良く話し始めた。
「後天遺伝子の力を長時間使い続ければ、反動が顕現けんげんします。フォックスを泳がせ続け、その隙を捉えてください」
彼女の手は、掴んでいた上腕から移動して、いつの間にか左手を握っていた。まるで従軍の看護師が、死際の兵士を看取る際に、そっと手を握るように。
 白い手の甲に見える静脈の血流。その中を流れる後天遺伝子は、フォックスだけに組み込まれたものじゃない。
「反動……それは、死に至るものか?」
 違います。
 きっぱりとした声が即座に懸念を打ち消した。データに基づいた確たる根拠があるという。
「貴方の身体データや戦いの記録から、分かったことがいくつかあるのです。端的にお伝えします。まず後天遺伝子が発動すると、心身に強烈な負荷が掛かる」
フィアスは頷く。それは以前にも説明された。過剰に働いていた神経器官が元の状態に戻るために、三時間ほど休眠状態に陥る。それが、後天遺伝子の反動ではないのか?
 その質問に、フィオリーナは首を振る。
「後天遺伝子は先天遺伝子とは違い、〝生き延びる〟ことに特化した遺伝子です。貴方の力を受け継いだフォックスのように、後天遺伝子は移植して存続させることができる。卓越した身体能力は〝生き延び〟て仲間を増やすためのものです。つまり……」
「〝生き延びること〟に対する反動が起こる」
「そうです」
フィアスは頭を掻く。
 生と死は、あっけなくひっくり返る表裏一体の現象だ。死生観ですらない事実上の境界を歩いてきた身としては、〝生き延びる〟という欲望自体が夢のように遠く淡い。さらにその反動となると、想像の域を超えている。
「どんな反動が起こるのか、分からないのか?」
「データ上の予測ですので、具体的な反動の所作は分かりません。ただ、心身に起こる異変は、極めて強烈なものと推測されます」
フィオリーナはフィアスを見上げる。
 そして、静かな声で告げた。
「この仕事を貴方に任せるのは、心苦しいです」