かれこれ五時間は経過している、この部屋に放り込まれてから。
 辺りを見回す。
 フローリングでできた広い部屋。壁際に小さなデスクが一つ。自分が腰掛けているパイプベッドを除けば、これが唯一の調度品だ。
 部屋の出入り口は二つあり、一つはバスルームとトイレに繋がっている。もう一つの出入り口はリビングルームへ続いているが、鍵をかけられているので開かない。ドアに向かって叫んでも、叩いても、体当たりを食らわせても、全く開く気配がない。
 鼻をひくつかせる。少しだけ埃っぽい。くしゃみをすると、床の埃が小さく舞った。
 この部屋に窓はない。まるで白い小箱に閉じ込められているようで、早くも気が滅入っている。
 体育座りの態勢を解いて、硬いベッドに横になる。身体を丸めて目を閉じる。緊張が解けて疲労に変わり、凛はすぐさま眠りに落ちる。
 その間に、夢を見た。
 夢の中で凛は「何でも屋」にいた。横浜の馬車道に居を構える真一の事務所。おおよそ仕事とは関係がなさそうな雑貨類で占められたその場所は、現実で見たままの通りに再現されている。
 ただし、一つだけ実在していないものがある。それは鏡だ。雑多に散らかった事務所の中に、西洋風の大きな姿見が置いてある。
 近づいて、自分の姿を鏡に映す。細かなレースがあしらわれた白いワンピースを着ている。裾を握る両手には青いマニキュアが塗られていて、ナチュラルメイクをあしらった顔の中にも、エメラルドグリーンのアイシャドウがきらきらと輝いている。
 二月前、彩のフリをしてこの事務所に近づいたときと同じ格好をしている。
 凛は鏡に向かって笑う。五年前に死んだ姉妹の笑み――凛には決して出来ない微笑みだ。
 人の気配がして、辺りを見回す。
 窓際の大きな事務机の側に、かつて彩が愛していた男の姿がある。彼は壁にもたれて本を読んでいる。
「アルド……」
その声は、自分のものであって自分のものではない。
 金髪の青年は、ページを繰る手を止めて、つと顔を上げる。本を閉じて机の上に置くと、凛の元へやってくる。
 灰色の長袖シャツにジーンズを合わせただけのラフな格好をした彼は、凛の知る彼ではないみたいだ。
 切れ長の目が優しく細まる。
「アヤ……相変わらず、人を驚かせるのが得意だな」
 その声は、凛が一度として聞いたことのない穏やかな響きを含んでいる。ショートカットの黒髪を撫でる仕草は繊細だ。
 五年前の彼は、その目で、その声で、その手で、彩を愛した。その後の結末を知る凛にすれば、可哀想なくらい彼の愛情は真摯しんしで優しい。
 髪を撫でていた手が、頰に触れる。凛はその手に自分の手を重ねて、そっと握りしめる。
 彩に注がれた愛情の誠実さを羨ましく思う反面、二人に訪れた悲劇を思うと、つぶやかずにはいられない。
「あたしが、彩だったら良かったのにね」


 ドアをノックする音で凛は飛び起きた。
 突然の出来事に、さっきまで見ていた夢の大半を忘れた。小さな心臓が、目覚めの衝撃に驚いて激しい伸縮を繰り返している。
 ベッドの上で後ずさりして、やってきた人物と出来るだけ距離を取る。
 入ってきたのは女の方――李小麗だ。
「気分はいかがですか?」
黒い目で、睨むように見据える。言葉とは裏腹に、凛の体調を気遣っているようには見えない。
 持ち前の喧嘩っ早さを燃料にして、凛も真っ向から睨みつける。
「おかげさまで、最高の気分よ。力づくで連れて来られて、こんなところに閉じ込めて、感動しちゃうくらい清々しい気分だわ」
「それは何よりです」
 たっぷりと込めた皮肉のメッセージをあっさりと受け流され、苛立ちは行き場を失くして燻る。
 小麗は抱えていた紙袋を机の上に置いて、中身を一つずつ取り出した。パン、果物、水、乾燥肉、小さなお菓子の箱。
 食料です。それだけを告げて、部屋を出て行こうとする彼女を凛は呼び止めた。
 つかつかと歩み寄り、自分より10センチは背の高い彼女に人差し指を突きつける。
「あんたたちは終わりよ。いずれ、BLOOD THIRSTY が追い詰める。たっぷり吠え面をかくといいわ」
「フォックスは、明日にでもBLOOD THIRSTY を壊滅させると言っています。彼らを皆殺しにすると。……一人だけ、命乞いをさせたい人物がいるようですが、誰かは知りません」
淡々と事実を告げる小麗の前で、人差し指がへなへなと力を失っていく。しまいには腕をだらりと提げてうつむいた。
「そんなこと……ゆるさない」
乾いた前髪に隠された、小さな唇が動く。
「あたしが、赦さない」
「貴女はか弱い、ただの女性です」
「それがどうしたっていうのよ!」
 扉に向かって駆け出す。ドアノブを握りしめたところで、片腕を掴まれた。
 有無を言わさない力で捩じ上げられ、背後に回される。痛い!と悲鳴をあげても、小麗は意に介さない。
 部屋の奥まで引き戻され、ベッドに身体を押し付けられた。唇にざらついた布の感触を味わいながら、呻くようにつぶやく。
「あの男がいくら頑張ったって敵うわけない。返り討ちに合うのがオチよ」
 背中を抑えつける力が強くなる。ぐぅ、と呻く声もベッドに沈んでくぐもる。
 頭がぼんやりしてきたところでようやく拘束が解けた。激しく咳き込みながら振り返ると、小麗は顔色一つ変えずに痛めつけたばかりの獲物を見下ろしている。
 その目は、凛の身体の中に詰め込まれたあるあらゆる感情までもを見抜こうとしているかのように、冷徹で鋭い。
 ぞわぞわと寒気立つ感覚に襲われる。
「フィアス」小麗はつぶやく。
「フォックスは真っ先に、彼を殺すでしょうね」
凛の顔色がさっと変わる。両腕で抱くように着ていたシャツを握りしめる。そんなの、ハッタリよ。辛うじて出来た口答えも、発する声が震えていては本心を見透かされたも同然だ。
「ハッタリではありません」
畳み掛けるように小麗は続ける。
「フォックスは、彼より優れた後天遺伝子を注入された。これは、先天遺伝子の構成に近いものです。フォックスはフィアスより強い。研究データをお見せしても良いのですが、きっと貴女には分からないでしょう」
凛は戸惑って小麗を見上げる。迷子になった子供のような顔つきだ。
 後天遺伝子? 先天遺伝子? 研究データ?
 小麗の放つ言葉の意味が全く分からない。
「やはり、何も知らされていないのね」
 凛の脳裏に、フィオリーナの笑顔がよぎる。
 病院で初めて会った時のことだ。薔薇の香りがする両腕で抱きしめ、彼女は言った。
〝フィアスから話を聞いていますか?〟
〝知らなければ、それで良いのです〟
「彼と寝ましたか?」
「なっ……」
束の間の回想から引き戻された凛は、目を見開いて小麗を凝視する。その顔がみるみるうちに赤く染まる。
「そ、そんなこと、あんたには関係ないでしょ!」
「ええ。私には関係のないことですし、個人的な興味もありません。しかし、我々にとってとても重要なことなので聞いています」
それから一呼吸置くと、無表情を保っていた彼女の顔がわずかに歪んだ。
「ネオは、興味深く思うでしょう」
 ネオ……。凛は小さな声でその名前をつぶやく。
 〈サイコ・ブレイン〉のアジトで、フィアスに銃弾を撃ち込んだ相手。その姿を目にしたのは時間にしてわずか数分だったが、はっきりと思い出せる。
 日本トップクラスの犯罪組織の棟梁は、二十歳にも満たない子供だった。高校生にもなっていないかもしれない。
 凛はごくりと唾を飲み込むと、震える声で低く笑った。
「あんたのボスに伝えなさいよ……お子様はエロ本でも読んでなさいってね」
 瞬間、強い力で頰を打たれた。凛はベッドに倒れこむ。
 小麗は馬乗りになると、続けざまに三発、平手打ちを食らわせる。
 凛も負けてはいない。彼女の長い髪を引っ掴むと右へ左へむしり取るように引っ張って応戦した。
 じたばたと足をばたつかせながら、引っ掻き合いの応酬がひとしきり続いた後、小麗はいよいよ本気になって凛の細い手首を掴むとベッドに磔にする。両手の使えなくなった凛は、敵の顔に向かって、ペッと唾を吐いた。
「貴様が特別な存在でなかったら殺しているところだ」
見開いた瞳をぎらつかせて、小麗が吠える。その迫力は、妙な切実さを伴っていた。
 凛は口を閉じる。幾多の修羅場を潜り抜けてきた経験から感じたのだ。
 これ以上怒らせるとまずい。殺されるとはいかないまでも、手酷いダメージを受けるだろう。
 ヒリヒリと痛む頰に意識を向けて、凛は冷静に立ち返る。荒い呼吸が落ち着くに連れて、痛いほど感じていた相手の殺気も萎んでいく。
 二人の女はしばらく無言のまま、互いの顔を睨み合った。
「貴女は、ネオに愛されているのに……」
しばらくして、口を開いたのは小麗だ。
 歯をくいしばるように、苦痛に耐える表情で、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「……それなのに、どうして彼の愛に背くのですか? 組織を裏切り、BLOOD THIRSTYへ寝返るような真似をするのか、私には訳が分からない」
「あたしは、ネオのことなんか知らない。あのアジトで出会うまで、その姿を見たこともなかったのよ」
「いいえ。貴女は彼に会っている。様々な実験を通して、何度も接触しています」
 凛は記憶を巡らせる。
 彼と同じ年くらいの捨て駒になった少年たちを何人も目にしてきた。たとえ出会っていたとしても、彼の存在は数多の死者の影に埋もれて見えない。
 凛は首を振った。
「思い出すのは、あんたたちにやらされた、人権侵害な実験ばかりだわ」
 その言葉に、小麗の怒りは沸点に達したが、一瞬のうちに収まった。
 ネオは龍頭凛を愛しているが、龍頭凛はネオのことを記憶してもいない。その事実がいかに彼女の冷静さを保つ糧になったか、彼女は自覚していない。
 なるほどね、と凛は心のうちで思うだけに留めておく。ここで余計なことを言って彼女を刺激してしまえば、聞けることも聞けなくなる。
 小麗が立ち上がったところを見計らって凛は聞いた。
「どうしてあたしは特別な存在なのかしら? ネオのことを知るために、まずは自分自身のことを知っておいた方が良いと思うんだけど?」
小声で付け足す。
「……答えによっては、彼のしていることに賛同するかもしれないし」
 思わぬ質問を投げかけられ、小麗は逡巡した。言うべきか言わぬべきか、天秤にかけた二つの答えが導き出す未来を想像している間、彼女の思考の邪魔を極力しないように、凛は静かに呼吸した。
「どのみち、分かることでしょうけれど……」
そう前置きして、小麗が話し始める素振りを見せると、凛は内心でガッツポーズを取った。長年、探していた謎がついに明かされる。
 ベッドから身を乗り出して、言葉の続きを待つ。
「貴女は特別な遺伝子を持っています」
小麗は言った。
「ネオの子供を産むための、特別な遺伝子を持っているのです」


 小麗は部屋を出て、鍵を閉めた。今さら施錠する必要もなかったが、念を入れておくに越したことはない。
 ドアに背を預けて、深い溜息を吐く。
 小麗には分からなかった。凛が半狂乱にわめき散らし、しまいには両手で顔を覆ってしくしくと泣き出してしまったのかが。
 貴女は選ばれた人です。これは名誉なことなのです、と言い聞かせても分かってくれなかった。
 喉から手が出るほど、その寵愛ちょうあいを欲している人間もいるというのに。
「私は、龍頭凛になりたかった……」
 思わずつぶやいた言語が日本語で良かった。
 リビングにはフォックスがいた。テーブルの上に何種類もの武器を広げて、一つ一つの動作を点検している。
「日本語ってのは難しいな。声はまる聞こえだったが、話の内容はちんぷんかんぷんだ」
微かに訛ったイギリス英語でフォックスはつぶやく。その間も、視線はH&Kの短機関銃に向けられたままだ。
 ドットサイトを付け替えながら、目には目を早撃ちには早撃ちだな、とひとりごちる。
 小麗の声が聞こえないのを不審に思ったのか、フォックスは顔を上げた。椅子を引いて立ち上がると、ドアの前にやってくる。フォックスは身をかがめて、小麗の顔を覗き込んだ。
「浮かない顔だな、シニョリーナ」
 緑色の目が眼前に迫っても小麗はたじろがない。自分の心の不安定さにかまけてそれどころではない。
 艶やかな黒髪が今日に限って乱れている。フォックスは手櫛てぐしで髪をいてやる。それでも小麗は黙ったままだ。
 長い前髪に隠された顔は見えず、ただ色の薄い唇だけが片意地を張った子供のように固く結ばれている。
「シャオレイ、龍頭凛と何を話していたのか教えてくれないか?」
唇が微かに開いた。
「教えません」
「どうして?」
「組織の重要機密だから」
フォックスは小麗から目を離し、ドアを見上げた。
「龍頭凛はどうしてる?」
「彼女なら眠っています」
 パニックに陥った凛に何を言っても無駄だった。小麗は、仕方なく机の引き出しから、鎮静剤を取り出して首筋に打った。強い薬を打ったので、少なくとも明日まで目覚めることはないだろう。
 そのことを告げると、フォックスは、意味ありげに頷いた。
 すぐさま、小麗に視線を移し、
「シャオレイ、俺がなぜ〝フォックス〟と呼ばれるようになったか知ってるか? 俺は耳が良いんだ。五感の中で一番優れていると言っても良い。狐はとても耳の良い生き物で、深雪しんせつの中に潜んでいる獲物の音すら敏感に感じ取る。だから、俺の名前はフォックスなのさ。最初に呼び始めたのはイギリス人だな。俺はイギリスで生活していたこともあるから……」
そこで一旦言葉を切る。
「……つまり何が言いたいのかと言うとだな、シャオレイ、俺にはあんたの泣き声が聞こえているんだ。この耳で。今もしっかりな」
「私は、泣いていません」
そう答えたものの、小麗は動かない。大きな腕が肩を抱いても、されるがままになっている。
「俺にはいつも聞こえていたぜ。あんたの、愛を求める声がさ」
「私が愛しているのは、ネオなんです」
その声は虚ろだ。フォックスに口づけをされても、身じろぎひとつしない。
「私が、愛しているのは……」
 フォックスの腕の中で、小麗は泣き出した。
 先ほどの龍頭凛と同じように、手で顔を覆ってむせび泣く。ネオの前でさえ、こんな泣き方をしたことがない。
 両腕にぎゅっと力を込められると、まるで水に濡れた布を絞るように、滂沱ぼうだの涙は勢いを増した。
 細長い指がすがるようにフォックスのシャツを握り締める。
「私は貴方が嫌いです。貴方のことが大嫌いです」
小麗は切々と訴える。その言葉が、自分の感情を惑わすことになると知っていようとも、言わずにはいられない。
「貴方は嘘吐きの詐欺師です。そうやって甘い嘘を吐きながら、数々の女性をだましてきたのでしょう。そして、ネオを愛している私の心までもを騙しおおせて、平然と去っていくのですね」
「まさにその通りだ、シャオレイ」
 長い口づけを交わした後、緑色の目がじっと小麗を見つめた。
 明るい色彩の中に映る自分は、五分前の自分とは違う。千変万化。世界は、目まぐるしく変化する。人の心も、その関係性も。
 身をもって知るべきだ――小麗の耳元でフォックスは告げた。
「世界には、愛と裏切りが存在する」