その晩、リビングで物音が聞こえ、扉を開いてみるとフィアスがいた。銃の点検をしているようだ。
「ちょうど良かった」
真一が向かいのソファに腰かけると、手にしていた銃を差し出した。グロック19。
「お前の銃だ。扱いやすいように調整しておいた。これは予備のマガジンとホルスター。使い方は、分かるよな?」
 渡された銃を手に取る。ずっしりと重い。須賀濱すがはま高校の立てこもり事件で扱った時以来の、久しぶりの感触だ。
 真一は壁に向けて銃を構える。動作を確かめて、テーブルの上に置く。
「俺がフォックスに殺された場合、その銃で身を守れ。避難先としては、笹川の家が良いと思う。ヤクザが護衛するあの家なら、フォックスも迂闊うかつに近づけない」
どんな戦術があるかと思いきや、撤退の術を考えていたらしい。真一はうんざりしたように溜息を吐く。
「まーだマイナス思考に陥ってんの? これからフォックスと戦うってのに、そういう考え、良くないと思うぜ」
「そうじゃない」フィアスは毅然きぜんと首を振る。
「俺はフォックスを殺す。八つ裂きにしてやる。……しかし、最悪な状況を想定しておいて損はない。俺のガード対象にお前も含まれているから、いざという時の行動を教えているだけだ」
自分が死んだ後始末まで考えているとは、まったく、泣けるくらい親切なやつだ。せっかくなので、銃をもらい受けることにする。使う機会がないことを祈りながら。
 フィアスはzippoのライターを取り出すと、煙草に火をつけながら言う。
「明日の朝、フォックスに電話を掛ける。向こうがどんな要求をしてくるのか分からないが、今の時点で、齟齬そごや疑問があるなら解消しておきたい。何かあるか?」
「質問ならいくつかあるよ」
「聞こう」
「お前は何歳なんだ?」
想定していた質問から大分外れた内容に、フィアスはいぶかりながらも答える。
「二十五だ」
「二十五歳か! 俺より少し年上なだけじゃん!」
長い思索を経てようやく真理を発見した哲学者のように、真一は感嘆の声を上げる。爛々と輝く好奇の眼差しは、白煙のベールをもろともしない。
「誕生日はいつだ?」
「十二月八日」
「俺は五月八日。ちょうどあんたと半年違いだな」
フィアスは眉間に皺を寄せて、真意を探るが中々掴めない。「スケジュールに登録しとく」と言って、真一は組織から支給された携帯電話を取り出し、操作をする。
 ディスプレイをいじりながらも、会話は滞ることがない。
「元から日本語が話せたってことは、最初は日本にいたんだよな?」
「ああ……八歳まで日本にいた」
「その後でアメリカに渡って、龍頭彩に会って、日本に戻って、俺に会って、凛に会った」
「そういうことになるな」
「一番気になっていることがあるんだけど」
「なんだ?」
「フィアスの、本当の本名ってなに?」
「本当の本名……」
少しだけ伸びたプラチナブロンドに軽く触れながら、フィアスはつぶやく。瞬時に呼び起こされる。
 記憶の中で、ルディガーが呼んでいた名前が。
「ラインハルト。ラインハルト・フォルトナー……正直、この名前は気に入っていない」
「なんで?」
「古風な名前で、イケてない。ルディガーは頭の良い科学者だったが、ネーミングセンスは人並み以下だ」
「俺はかっこいいと思うけどな。ラインハルト」
携帯電話をしまう。フィアスは腕を組んで、真一の顔をじっと見ていた。
 訝しさを通り越して、今や不機嫌な顔つきだ。反対に、真一はにやにやと含んだ笑いを見せる。
「お前の言いたいこと、当ててやる――〝何故そんなことを聞く?〟」
灰青色の瞳が、少しだけ大きく見開いた。
「驚いたな。一字一句間違ってない」
真一は吹き出した。腹を抱えてげらげら笑う。俺って超能力者かも知れないな。言いながら、溢れる笑い涙をこする。一年半にわたる共同戦線の中で、フィアスが真一の楽天的な行動に慣れてしまったように、真一もまたフィアスの言動を先読みできるようになっていた。
 笑いの波が引いたところで、真一は改めて言った。
「俺も最悪の事態を想定して、お前のプロフィールを聞いておこうと思ったんだ。本名や年齢、出身や生い立ち。そして、忘れていた過去のこと。お前が死んだら、苦労して掴んだ事実を、知る人間がいなくなるだろ? それって、かなり哀しいことだと思うんだよね」
「哀しい? ……それは、考えたことがなかった」
フィアスは机に目を落とす。哀しい、と声には出さずつぶやいてみる。そして気づく。
 自分には考えつくはずもない。それは、他人の感情だ。他人が空想する、俺の状態だと。
 机の上には、銃とマガジンとホルスターが乗っている。
 まるで、自分の人生を象徴するような戦いの品々。
「マイチには、俺が可哀想に見えるのか?」
 突然の問いかけに、真一は「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。思わずテーブルの向こうを見ると、彼の瞳は平生の冷たさを保ったまま、むしろ純粋にも見えるほど何の感情も浮かべずに、真一のことを見つめていた。
 生きてきた場所が違う、と真一は思った。
 生きてきた場所が違うから、普通の人間とは感覚が違う。
 ……それは、可哀想なことなのかも知れない。
 真一が黙ったまま口を開かないのを見て、神妙な空気を察したらしい。
 金の髪を掻き上げると、フィアスは沈黙を破った。
「実のところ、自分の過去について、苦しんだ記憶があまりない」 
「そうなのか?」
フィアスは頷く。
「ルディガーの身元を調べたこともあるが、記憶を失くしていたからか、そこで得た情報も他人事のように感じられた」
「それは、良いことだったのか?」
「俺にとっては、かなりの幸運だったみたいだ」
フィアスは続ける。
「もう一つ幸いなことに、俺を拾った警察官と検死官は――どちらとも素行にかなり問題があったが――優しい人間だった。彼らに育てられたおかげで、失われた過去と上手く折り合いをつけながら、ここまで生きることができた。
 それでも、八歳以前の記憶を辿ってみると、関係ないと割り切れない部分がたくさんある。年齢や出身、名前や経歴……それらの手掛かりは、紛うことなく、ルディガーとの思い出の中にあった。そして外見的な特徴だけでなく、俺の中にある考え方や価値観までもが、記憶の中の彼の影響を受けていた。
 血筋というものは、俺が思っている以上に、重要なものらしい。血の記憶とでも言うべきなのか……記憶を超えて、繋がっていたんだ」
 それは誰に聞かせるでもない独白のようだった。煙草の箱を弄びながら身の上を打ち明ける彼を、真一は物珍しそうに見ていた。
 その視線に気づいたらしく、途中で話を止めるとフィアスは顔を上げた。
「……こんな話、聞いていて楽しいか?」
「楽しい!  ……というより、なんていうのかな。奇抜な色の鳴かない鳥が、変な声で鳴いているのを見ているような感じがする」
フィアスは苦笑する。
「失礼な奴だな。言い方っていうものがあるだろ」
「そうだな。あんたは鳥じゃなくて、人間だもんな……かなり奇抜ではあるけどさぁ」
語尾に重ねて、ふわぁ、と大きく欠伸が漏れた。緊張感のある会話から解き放たれて、一気に眠気が押し寄せてきたようだ。
 欠伸をしながら、何はともあれこの話の終わり方で良かったんだ、と真一は思った。先ほどのフィオリーナの言葉が思い出された。
 ――フィアスの力になってあげてください。
 自分がやるべきことは、たぶん分かった。
 貰い受けた銃と装備品を抱えて、ソファから立ち上がる。
 真一を見上げてフィアスは言った。
「余計な話に時間を割いたが、とにかく明日は自分のことだけを考えろ」
「それは出来ない相談だな」
「何?」
「俺はフィアスのことも考えるよ。それから凛のことも。俺たち三人が、どうやったらこの問題を切り抜けられるか考えよう」
 灰青色の目が、先ほど以上に大きく見開かれた。何を言われたのか分からないといった表情。吸い込む気のない煙草から細い煙が立ち上っている。
 真一が言葉を発した時間と同じくらい、フィアスは真一を凝視したまま動かなかった。その間に、頭の中で真一の言葉を反芻していたのかもしれない。
 数秒ののち、ゆっくりと身をかがめて、煙草を灰皿に押しつけた。
「……友情も、度を越すと身を滅ぼすぞ」
 ボソリとつぶやく。その声には不思議な余韻が漂っていた。
 首を捻りながら、真一は退散する。
 自室に戻って身支度を整え、眠りにつく直前にはたと気付いてつぶやいた。
 もしかして……。
「嬉しかったのかな……」
 真相は、この部屋と同じく闇の中だ。
 本当に人間の心って複雑だよな、と真一は思った。


 フィオリーナはパソコンのモニターから目を離すと、椅子の背にもたれかかった。
 たった今、解析を依頼していたデータが送られてきたばかりだ。
 と、同時に電話が掛かってくる。番号を見なくとも分かる。
 ドイツにいる「信頼のおけるツテ」――彼女は、かつて研究所で働いていた科学者だった。
 ルディガーが研究データを持ち出した直後、彼女もまたあの施設から姿を消した。友人のように目をかけていたフィオリーナの手を引いて。
 ――こんにちは、フィオリーナ。
 英語で挨拶をした後、すぐにドイツ語に変えて、彼女は端的に切り出した。
 ――貴女の予想通り、後天遺伝子には、深刻な欠点が存在している。
 フィオリーナは溜息を吐く。やはり、と相槌を打ったものの、先に続く言葉が見つからない。プリントアウトした解析表が先に続く未来を物語っている。
 電話先の相手も、心中を察したらしい。
 まだ時間はあるわ、と彼女は励ますように言った。しかし、その語尾は空咳によって掻き消された。
「エルザ、お身体の具合が良くないの?」
 ――いいえ。これは年齢によるものよ。年は、取りたくないものね。
 科学者は自嘲を含んだ声で静かに笑う。喉を痛めた後だからか、その声もまるで老人のようにしわがれている。否、彼女は相応に歳を重ねているのだ。
 フィオリーナは、研究所を発った時に握りしめた手を思い出す。滑らかで、シワひとつない若い娘の手。 死線を潜り抜けているというのに、二人はまるで新しい洋服を買いに出掛ける、女子学生のように見えたこと。
 あの日から、何十年も時が経った。
 ――私たちがもたらしてしまったことだもの。したことの責任は、取りたいわ。
 老科学者は言った。
 ――彼の息子に宜しく……伝えなくていいわね。
 フィオリーナは携帯電話を机に置くと、プリントアウトした解析表に、改めて目を通す。
 それから溜息をついて、革製のファイルにバインドする。
 ファイルには種類の様々な紙片が挟まっている。
 検査結果のグラフと表、仮説を書き付けたメモ帳の切れ端など、頭に記憶してある情報と寸分違わぬデータを始まりから終わりまですべて読んでしまっても、名案は浮かばない。
 最後のページを繰って、フィオリーナは視線を落とした。挟み込んでいた紙が、ひらひらと机の上に落ちる。
 一枚の写真だ。カラーで撮影されたものの、長い時を経て、表面は色褪せている。
 今までに何百万回としてきたように、フィオリーナはまたしてもその写真を手にとって眺める。
 そこには黒いワンピースを着た十歳くらいの金髪の少女と、白衣に身を包んだ金髪の青年が写っている。青年は灰青色の目をそむけ、頑としてカメラと目を合わそうとしない。少女は、そんな青年をおかしそうに横目で見ながら微笑んでいる。
 ルディガー・フォルトナー。
 数十年前の様々な記憶を飲み込んで、フィオリーナはつぶやく。
 かつて純粋な愛しさを込めて呼んでいた名前。それが時を経るごとに乾いた憎しみが入り混じり、果たして少女時代の自分は本当に彼のことを愛していたのかすらも疑わしく思えてくる。
 人差し指で、青年の髪を撫でる。
 後天遺伝子の深刻な欠点――それすらも承知の上で、薬を投与したと言うのなら。
「貴方の正義は、あまりにも残酷です」