「フォックスは娼婦を殺す」
その口から飛び出したのは、思いもよらない言葉だった。
 アジトへ戻ってきた彼らを迎えた真一は、フィアスの目が死に近い絶望に支配されているのを見て、掛ける言葉を見つけられなかった。
 フィオリーナは、部屋に着いてすぐ、調べたいことがあると言って出ていった。
 フィアスの向かいにシドが、隣のソファに真一が腰かけた。それから五分経って、ようやく出てきた言葉がこれだ。
 フィアスは後を継がない。煙草も吸わず、思案している様子もなく、ただ両手で顔を覆って黙り込んでいる。
 おずおずと真一は聞いた。
「それは、どういう……」
「そのままの意味だ」
真一の言葉を遮ってフィアスは言う。そして、それ以上の言葉を口にしない。
 追及を諦めて、真一は口を閉じる。冷たく、重たい、氷のような沈黙がのしかかる。
 真一は横目にシドを伺う。彼も細かく編んだ地毛を弄びながら、考えあぐねている様子だ。
 フィオリーナはアジトに戻ってくる際に、フィアスから事情を聞いたのだろう。万事心得た様子だった。そんな彼女の顔もいつもの優雅な笑みは消え失せ、見たこともない厳しさが鎮座していた。
 しかし同時に、一つの可能性を秘めているようでもあり、フィアスほど精神的に追い込まれているようには見えなかった。
 居たたまれなくなった真一は、フィオリーナの元へ向かおうと席を立ち上がる。廊下へ続く第一歩を踏み出しかけ、それでも心に突っかかる何かがその足を引き留めた。入り口とリビングとを交互に見やって、再びソファへ腰かける。
「話してくれないか?」
真一は言った。
「俺じゃ何の役にも立たないかも知れないけど、お前の口から話を聞きたい」
「……話?」
「そうだ。どうしてフォックスは……その……」
 言葉に詰まって、真一は口ごもる。凛の明るさや無邪気さに流されて、その背後にある生々しい過去を忘れかけていた。だからこそ、現実的な問題として立ちはだかると、どのように向き合えばいいのか分からない。
 真一はテーブルに目を落とし、所在なく膝の前で組み合わせた手を様々な形に弄ぶ。
 それから、数十秒ほど経った後だ。フィアスはゆっくりと顔を上げた。
 真一を見上げる灰青色の瞳は、絶望を超えて眠たげにも見える異様な気怠さを引きずっていた。それこそ煙ったようにぐ、海の境目のように茫漠ぼうばくとしている。
 見え過ぎる、と真一は思う。
 今のフィアスは、感情が見え過ぎている。
 隠す余裕がないのか、隠す必要がないと感じたのか、どちらにしてもその瞳は、とてつもないショックを真一に与えた。
 フィアスは緩慢な仕草で、懐から煙草を取り出す。火をつけたものの、喫煙する気配はない。虚ろな目でくゆる煙を見つめている。
 耐えきれず真一が声を掛けようと思った矢先、彼は口を開いた。
「三年前、フォックスに呼び出されてイタリアへ飛んだ」
その声はひどく滑らかで、温度がない。彼特有の冷たさすら感じられない。


 三年前、フォックスに呼び出されてイタリアへ飛んだ。
 若いマフィアのグループを潰すのを手伝って欲しいという依頼だった。何の考えもなく、俺はフォックスと手を組んだ。
 標的は分散型の組織で、街のいくつかに拠点を置いていた。一息に壊滅させないと、こちらの情報が伝わって面倒なことになる。
 夜を待って俺たちは行動を開始した。俺は街の東側を請け負って、フォックスは西側を請け負った。
 俺は仕事の数日前に、街の情報屋を使って重要人物をリストアップしていた。各拠点に点在するブレインを殺すだけで事足りた。


 そこでフィアスは言葉を切った。じっと顔を見つめられて、真一は慌てて目をそらす。
 そして、自分でも知らないうちに、眉間にしわを寄せていたことに気づく。
 彼の話を聞きながら、注いでいたのは非難の視線だったのか、判断がつかない。
 言葉にならない真一の言葉に答えるように、フィアスは静かな声で告げる。
「俺だって殺しをする」


 だからその晩も、四、五人の人間を始末した。生きていても死んでいても大差ない人間は、動きを止める程度に留めておいた。無駄な殺生は無駄な恨みを買う。
 その頃の俺はひどく自暴自棄じぼうじきだったが、どういう戦い方をすれば報復を最小限に抑えられるかを考えるくらいの頭はあった。
 だけど、フォックスはそうしなかった。
 夜明け間近になっても連絡がつかなかった。フォックスは任務遂行に手間取っている。それか――確率は低いが――返り討ちにあって殺された。初めのうちはそう思っていた。
 しばらくして、着信が入った。「楽しみを分けてやるから来い」と言われた。
 奴と待ち合わせたのは、マフィアが拠点にしていた雑居ビルの一つだった。
 異様な静けさの中で銃声が聞こえていた。機械的に、一定の時間を保って、一発ずつ。
 嫌な予感がしたが、足を踏み入れないわけにいかなかった。
 それはひどい有様だった。吐き気がするほどの血のにおい。上のフロアからすすり泣きが聞こえていた。
 入口に死体が転がっていた。身体中穴だらけになった女の死体だ。血に満たされた階段のあちこちに死んだ人間が寝かされていた。俺が殺した人間の数に比べて軽く三倍はあった。
 死体の中には標的の姿もあったが、圧倒的に女が多い。どれも嗜虐的に痛めつけられた惨殺死体ざんさつしたいだ。
 あれほど醜悪な光景を、目にしたことがない。
 フォックスは最上階のフロアにいた……奴が何をしていたのかを、事細かに説明する必要はないだろう。とにかく女を痛めつけていた。
 フォックスの周りには、まだ生きている女たちが縄で縛りつけられていた。
 どうしてこんなことをする。そんな主旨のことを俺は聞いた……かなり、感情的な言い方で。
 娼婦が気に入らないとフォックスは言った。自分はそういった女に産み落とされて、捨てられた。自分みたいな人間を増やさないために、こいつらを根絶やしにしなければいけない。それが救世主である俺の使命だ、ということも言っていた。
 フォックスは、最後の拠点を制圧したあとで、男たちを銃で脅し、女をビルに呼び寄せた。組織御用達の娼婦たちだ。そして男たちの目の前で、一人ずつ殺した。そのあとで男も殺した。
 縄に縛られている女たちはこの近くで見つけた街娼で、ビルへ誘いこんで生け捕りにした。〝俺のために楽しみをとっておいてやった〟というわけだ。
 今すぐこいつの頭を吹き飛ばしてやろうかと考えたが、ここで派手に殺し合いを行えば、残りの女たちは確実に死ぬ。俺は適当なことを言って、とりあえず息のあった女の縄を解いて外へ逃がした。そのあとでこの仕事を降りた。
 金輪際こんりんざい、お前とは一切関わらない。俺のテリトリーに足を踏み入れたら殺す、と告げて日本へ帰った。
 それから、フォックスとは顔を合わせていなかった。


 黒いフィルターに届いた煙草の灰が、ぼろぼろと床に落ちた。甘い紫煙しえんが色濃く部屋を漂う。吸殻を机に放ると、斜面を転がって、反対側の床に落ちる。
 フィアスは黙ってそれを見つめていた。
 真一は反射的に口を開きかけたが、何を言うべきか思いつかず、口を閉じる。
 常人じょうじんには理解できない思想を持ち、獣のような行いに身を投じる。つい数週間前まで行動をともにしていた人間が、おどろおどろしい闇を秘めていたことに本能的な恐怖を感じた。
 しかし、それよりも気に掛かるのは、温度を失ったフィアスの声と、彼を取り巻く穏やかな静けさだ。
 何か言わないと、落ちていってしまう。彩を失い、凛までいなくなってしまったら、今度こそ取り返しがつかなくなる。
 咄嗟とっさにその考えが思い浮かんで、真一はなんとか言葉を発する。
「凛は死なない」
仄暗い眼差しが真一に注がれる。
「どうして分かる?」
「それは……」
「フォックスはプロの殺し屋だ。殺人に、何の抵抗ももたない。そして自分の立場が危なくなっても、女殺しをやめなかったんだ」
「……だからって、凛が殺されると決まったわけじゃない」
真一の言葉に返答せず、フィアスは再び黙り込む。
「リュウトウリンの……」真一の言葉を継ぐように、シドが口を開いた。
「リュウトウリンの生死について、俺の口からは何も言えん。ただ、フィオリーナには考えがあるように思える。俺が見た限りでは、彼女は希望を捨てていない」
シドが言い終わるや否や、ドアが開き、フィオリーナが入ってきた。
 彼女は片側にノートパソコンを抱え、もう片方の手には携帯電話を持っていた。フォックスの部屋を出る際に、フィアスから預かった電話の先にコードがついていて、ノートパソコンに繋がっている。
 彼女はソファに座る三人を一瞥してから、フィアスの傍に膝をついた。
「希望を見つけました」
「希望?」
「そうです。希望、またの名を証拠。リンさんは、生かされています。フォックスに傷つけられることもなく、無事でいます」
 彼女はフィアスの前にパソコンを置くと、タッチパッドを操作しながらある画面を開いた。それはカラフルな縦線グラフで色付けされた音声解析のデータ表だった。再生ボタンを押すと、先ほどまで電話でやり取りしていたフォックスの声が流れる。

――犯人説得の仕方としちゃ落第点だが、まさにその通り。女のハートを奪いすぎて、野郎どもから目をつけられた。モテる男の宿命だな。

――そろそろ本題に入ろうか。

「ここです」
フィオリーナは停止ボタンを押し、数秒前に巻き戻す。再び、同じ言葉が流れゆく。
 フィアスは眉を潜めた。軽快な声の背景で、流れる音が気にかかる。それは実際にフォックスと話しをしていたときにも感じた引っ掛かりだ。そのときは、フォックスとの交渉に意識を向けていたため受け流してしまったが、改めて意識を集中させると分かる。
「声だ」灰青色の目の奥で微かな光が宿った。
「別の人間の声がする」
「フォックスの、声音波形せいおんはけいを消して再生します。よく聞いてください」
 フォックスの背後で流れていた、くようなノイズが響く。フィアスは再生線を目で追う。
 再生線は色分けされたグラフの上を流れ、その中でも、青く印がつけられたグラフに差し掛かった、そのときだ。

 ――ックス。
 ――時間……りません。

 女の声が聞こえた。凛のものとは違う。彼女より低く、落ち着いた話し声。一瞬のうちに、その答えに行きついた。
「シャオレイ」
「李小麗……ネオの側近の女性ですね」
「そうだ。あの女の声がする。シーサイドタワーで撃ち殺したと思っていたが、生きていたのか」
「恐らく、彼が勝手な行動を起こさないよう、監視しているのだと思います。〈サイコ・ブレイン〉の幹部である彼女の存在は、大きな抑止力になっているはず」
フィオリーナはそこで言葉を切った。彼女自身にも凛の生死は大きなプレッシャーとなっていたようで、微かな安堵の息を吐く。自身に張り巡らせていた緊張をやや解いて、フィオリーナは続ける。
「リンさんの存在が、いかに両組織の命運を左右させるかということに、フォックスも気づいています」
「だからリンは生かされている……」
「そうです。利用価値のある人間を無下に扱うほど、彼は愚かではない」
我々にはまだ希望が残されています。その言葉で話を一区切りすると、額の汗をぬぐってフィオリーナは微笑んだ。
 その笑みが合図だったように、フィアスの全身から力が抜けた。革張りのソファにのけぞるように背をもたれる。
 見上げた天井は、シミひとつなく白い。
「銃で撃たれるより、きつかった……」
真一は耳を疑った。今のは弱音か? 滅多に感情を出さないフィアスの口から、今日は意外な言葉がぽんぽん出てくる。
 しかしその声は、先ほどまでの異様な静けさをまとうことなく、むしろ単純な疲労に裏づけされていた。
 自分に注ぐ全員の視線に気づいたらしく、フィアスは上体を起こした。目にかかる前髪をうっとおしげに払いのけると、フィオリーナに礼を述べる。
「ありがとう、フィオリーナ。貴女がいなかったら、重要な手掛かりを見落とすところでした」
そしてすぐ、戦闘に備えて武器を調整してくると言って立ち上がると、自室に引っ込んでしまった。
「アイツ、あのまま寝込みそうだな」
フィアスが消えていった先のドアを見ながらシドがつぶやく。真一も同じようなことを思っていたところだ。
 凛の存在は、フィアスの中でとても大きな問題になっている。弱点にもなるほどに。
 それは彼女が、この戦いの勝敗を分ける重要人物だからというわけでは勿論ないだろう。かといって、龍頭彩と血を分けた姉妹だからというわけでもなく、ありきたりな恋心や同情心からくるものとも少し違う気がする。
 そんな風に真一には思える。
「人間の心って、複雑だよなー」
なんの気もなくつぶやいた真一に、フィオリーナは笑った。
 それから一転、真剣な面持ちで頭を下げた。
「マイチさん、彼を頼みます。明日は熾烈しれつな戦いになるでしょう。どうか、力になってあげてください」
「顔を上げてくれよ、フィオリーナ。あんたは綺麗な顔で笑っていた方がいい……それに俺は、この状況をどうにか出来るほど強くないよ」
「いいえ、マイチさん。誰かの力になるというのは、強さや弱さなど関係ないのです」
母親のように優しい目で真一を見つめると、彼女は繰り返した。
「フィアスの力になってあげてください」