――思い出した!
真一のひらめきの声とともに、ぱちんと指を鳴らす音がスピーカーフォンから聞こえた。
――俺たちが病院の廊下を歩いていたとき、凛とフォックスが深刻そうな顔をしていた。きっと、正宗の話をしていたんだ。
 運転に気を遣いながら、フィアスは記憶を遡る。ネオに撃たれ、搬送された病院で、凛と再会を果たした。そのとき、隣にフォックスもいた。よく考えれば奇妙な取り合わせだった。
 凛を罠にかけたのは、あのときか。
 連想的に想起されるのは、〈ベーゼ〉へ向かう途中に、度々感じていた攻撃的な視線だ。かつての仕事で負った怨恨だと思っていたが、あれは自分を追跡するフォックスのものだったに違いない。
「フォックスは〈ベーゼ〉にも訪れている。きっと、俺が別れた後でマサムネに会ったんだ」
――正宗を殺したのかな?
「いいえ。彼を生かしていると思います……その時点では」助手席に座るフィオリーナが、掌に乗せた携帯電話を見ながら言う。
「組織を追放される直前まで、フォックスは自身を〝強力な助っ人〟だと主張していました。わたくしと電話で話した際、しきりに〈サイコ・ブレイン〉を壊滅させると豪語ごうごしていましたから、味方であるリンさんの父親を始末する理由がありません」
「むしろ、マサムネを〈ベーゼ〉から救い出しているかも知れない」フィアスの言葉に、フィオリーナは頷く。
「その可能性は大いにあります」
 フィアスは〈ベーゼ〉で会ったときに見聞きした、彼の鋭い目つきや要領の良い話し方を思い出した。
 正宗は勘が良く、頭の切れる男だった。戦闘時における身のこなし方も、ヤクザ時代にくぐった修羅場を忘れていないように思えた。
 これは、憶測に過ぎない……しかし、正宗は簡単に殺されるような器じゃない。彼は〈ベーゼ〉を脱出し、生き延びている。そして横浜に身を潜め、虎視眈々こしたんたんと自分の動くべき時を見極めている。そんな気がする。
「対象は?」
希望的観測を口には出さず、フィアスは話題を切り替える。
 パソコンのキーを叩く音が聞こえ、シドが電話に出た。
――GPSに動きはない。ずっと同じ場所で止まっている。
「人の動きまでは分からないか」 ――残念ながら、透過機能つき衛星カメラの実用は、少し先の未来だ。
シドの言葉を聞きながら、フォックスはホテルにいないだろうとフィアスは直感する。GPSをおとりに使って自分たちをおびき寄せるにしても、籠城戦ろうじょうせんに持ち込むメリットがフォックスにはない。
 シドとのやり取りが終わると、少しの間をおいて、再び真一が電話に出た。
――慶兄ちゃんから連絡があったんだけど、お前の車を発見したらしい。
フィアスとフィオリーナは短い視線を交わす。〈ベーゼ〉に置き去りにしてきた車が横浜に戻っている。
――ホテルからそんなに離れていない。場所は……
 フィアスは渋滞する道を器用に避けながら、目的地へ進む。
 向かう先には、メタリックなガラスでできた背高のビル・シーサイドタワーが見える。体内で眠っていた後天遺伝子が覚醒するきっかけとなった、因縁深い振興のビルだ。フォックスは大胆にも、〈サイコ・ブレイン〉の根城の近くに拠点を置いていたらしい。

 ホテルから少し離れたパーキングエリアに車を止め、真一の指定する場所へ行くと、見知った男の姿があった。真一が兄のように慕う笹川組の現組長・一之瀬慶一朗いちのせけいいちろうだ。堂々とした佇まいだが、黒のジャケットとベージュのスラックスを組み合わせた、いつもよりラフな格好をしている。こちらに気を遣っているのか、彼の周りには、いかにもな姿の部下はない。
 フィアスの姿を見止めると、一之瀬は丁寧に腰を折って挨拶した。フィアスも軽く会釈を返す。なるほど、彼の背後には紛うことない自分の車が〈ベーゼ〉へ乗りつけたときと同じ光沢を放って停車している。
「若から話は伺っています。お探しの方と繋がりがあるのではないかと思い、ご連絡を差し上げた次第です」
「どうして俺の車だと分かったんですか?」
「〝跡目相続あとめそうぞくはい〟の際に、車種とナンバーを覚えておりました」
抜け目ない隻眼せきがんの眼差しでフィアスを見据えながら一之瀬は言う。
 フィアスは車のドアに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。中を伺っても、別段気になる点はない。ただ、シガレットケースの中に、吸った覚えのない吸殻が、五本捨てられていることを除いては。
「マサムネは横浜に戻ってきている」
ボンネットを軽く叩いてフィアスは言った。
「フォックスが連れてきたんだ」
フィオリーナも頷く。
「フォックスの元からも、無事に逃げ出していれば良いのですが」
「室内に争った形跡がなければ、生存率は高い。リュウトウマサムネは鼻が利く男だ」
「何にせよ、早々に向かわなければなりませんね」
シドに今後の計画を伝えるフィオリーナの傍らで、フィアスは景気づけの煙草に火をつける。一息吸っただけのフィルターを地面にすり潰していると、
「龍頭、正宗……」
低い声で一之瀬がつぶやいた。
 落ち着き払った物腰の彼には珍しく、その声は純粋な怒りの感情を押し殺していた。
 彼と正宗の年齢は同じくらいだ。一之瀬が積み上げたキャリアの年数は分からないが、正宗と同時期に笹川組に加入したとすると、浅い面識ではないだろう。
 案の定、正宗のことを聞くと、一之瀬は振り絞るような声で告げた。
「存じております。とても良く」
「もし貴方の組織が手を貸してくれるのであれば、彼を捜索してほしい。そしてマサムネを見つけ次第、手厚い警護の元で保護してください」
「それは出来ません」
一之瀬は強い語調で断言する。
「若のためとはいえ、そのご依頼は、笹川組我々では叶えられません。俺が許しても、親父っさんが許さないでしょう」
 笹川組の前組長である笹川毅一は、かつて〈ドラゴン〉を破門にした張本人だ。そして笹川は義理と人情を重んじる性格で知られている。絶縁した極悪人に手を差し伸べることは、彼の性格を考えても困難な上に、組織のメンツを潰すことにもなる、と一之瀬は言いたいらしい。
「マサムネは〈サイコ・ブレイン〉の被害者です」
「どういうことですか?」
フィアス、と呼ばれてフィオリーナを見る。彼女はホテルを見やって目くばせした。フィアスも頷く。
「説明している時間はありません。マイチに電話を掛けて、アイツから事情を聞いてください。その後でどう動くかは、イチノセさん次第です」
 フィオリーナの後に続いてフィアスも駆け出す。壁の死角へと消えて行く彼らを見送りながら、一之瀬は再びその名をつぶやいた。正宗。
 一之瀬は浅く溜息を吐くと、懐から携帯電話を取り出す。自分の車へと歩きながら、親愛なる若君が電話の先に出るのを待った。


 シドが体良く根回ししたらしい。ホテルに着いて、指示された名を告げると、フロント係はすんなりと部屋のマスターキーを渡した。
 エレベーターに乗り込み、フロアのボタンを押す。
先鋒せんぽうは俺が」
「後手はお任せください」
 扉が開く。下方に銃を構えながら、長い廊下を進んでいく。ドアの前へたどり着くと、五感に意識を集中させる。足音、物音、水に揺らぐような日本語……これらは隣室から聞こえてくるものだ。正面の部屋からは何も聞こえない。二人は顔を見合わせる。
 ドアを挟んで二人並ぶと、フィオリーナが外開きのドアノブを握った。フィアスは頷く。
 銃を構えたまま、開かれた扉から中を伺うと、真っ白な漆喰の壁が目に入った。ベッドとテーブルがあるだけの簡素な部屋。テーブルの向こうに大きな窓が取り付けられていて、カーテンが風を孕んで大きくなびいている。その向こうに見えるのは、シーサイドタワー。よほど腕の立つスナイパーでない限り、狙撃には不可能な距離だ。トラップが仕掛けられている様子はない。
 身をかがめながら、部屋に入ると、フィアスは真っ先に開け放たれていた窓を閉めた。カーテンがぴたりと窓へ張り付き、外界からの目と日光が遮断される。
 一段、薄暗くなった部屋で、再び五感を働かせる。
 異質な物音はしない。
 壁と一体化したクローゼットに穴が開いていた。苛立ちまぎれに誰かが殴りつけた痕だ。クローゼットを開くと、ホテルが用意していた備品が、手つかずのまま置いてある。ベッドはきれいにメイキングされている。
 バスルームのドアを開ける。わずかだが、使用した痕跡がある。それから、匂いだ。洗面所からムスクの香りがする。
 フォックスが付けていた香水と同じものだ。
「フィアス」
名前を呼ばれて、バスルームを出ると、フィオリーナはテーブルの上を指差していた。
「これを……」
「ああ」
部屋に入ったときから気づいていた。テーブルの上に正宗に渡したはずの携帯電話が置いてある。電話番号の書かれた、小さなメモと一緒に。
「電話しろってことか」
「この携帯電話は、使用しない方が良いでしょう」
「そうですね」
フィアスはスーツの懐から新しい携帯電話を取り出す。
 手始めに、アジトに繋がる番号を押した。シドが電話に出た。事情を説明すると、素早いタイピングの音が聞こえてくる。
――こちらの準備はオーケーだ。
 フィアスは電話を切ると、クラフト紙に書き記された11文字の番号を押した。静まり返った部屋に、スピーカーフォンから流れるコール音が鳴り響く。刻一刻と迫る運命の瞬間を、カウントダウンするように。
――……ドカーンッ!
悪意に満ちた大声が部屋いっぱいに反響した。
――なーんて、爆発しなくて良かったな。
「フォックス」
――思っていたより早かった。さすがは元・米国の追跡犬だ。
「フォックス、英雄ごっこの次は鬼ごっこでもするつもりか? 俺たちは、お前のくだらないお遊びに付き合っている暇はない」
――相変わらず強気な態度だな。まだ自分の置かれている立場が分かっていないと見える。
「自分の立場を分かっていないのはあんたの方だ。俺は知ってる。あんたが日本にやってきたのは、国を追われたからだ。イタリア中の悪党の恨みを買って、ついに首が回らなくなった。だから尻尾を巻いて逃げてきたんだろう? 救世主が聞いて呆れるな」
フォックスの哄笑こうしょうが響き渡る。楽しくて仕方がないと言った心からの笑いだ。挑発をもろともしない。
 この戦いの切り札――龍頭凛を既に手に入れている、とフィアスは確信する。
 普段の彼からは想像もつかない寛容さでひとしきり笑うと、フォックスは言った。
――犯人説得の仕方としちゃ落第点だが、まさにその通り。女のハートを奪いすぎて、野郎どもから目をつけられた。モテる男の宿命だな。
 そのとき、電話口から微かに違和感のある音が聞こえた気がした。
 フィアスは眉を潜める。
 それは一瞬、耳を掠めると、ノイズに紛れてすぐ消えた。
――そろそろ本題に入ろうか。
 フィアスはフィオリーナに目をやる。彼女が頷くのを見て、その名前を口に出した。
「リン。リュウトウリンはどこにいる?」
――彼女なら、俺の隣でおねんねしてるよ。すやすやと、気持ち良さそうにな。
 嫌な音がして、握った携帯電話が微かに軋んだ。沸き立つ血の中を駆け巡る後天遺伝子を抑えつけるように、フィアスは低い声で告げる。
「殺すぞ、フォックス……」
――おうおう、ようやくその気になってくれたな。女を賭けた本気の戦いってのも、中々洒落て良いもんだ。
――明日の朝五時、もう一度この電話に掛けな。
「待て! 話はまだ終わってない!」
――それじゃあな、せいぜい全力を尽くせ。
「フォックス!」
――ああ、そうそう。
通話の最後にふと思い出したように明るい声で、フォックスは言った。
――リュウトウリンは、〝組織の女〟だったんだってなぁ!
フィアスは灰青色の目を見開いた。

 ばれた。
 フォックスに、凛の過去が、ばれた。

「や、やめろ、フォックス! 切るな、フォックスっ!」
すぐさま呼びかけるが、電子音に変換された無音の集積が、微かなノイズを鳴らすばかりだ。
「くそっ!」
悪態をつきながら、再びシドへ電話を掛ける。
 通話が開始されると同時に、フィアスは怒鳴った。
「逆探知はっ? シド、フォックスの居場所だ!」
――す、すまん。回線の経由が多くて、場所を特定できなかった。
「それなら録音した通話から手掛かりになるような情報を洗い出せ! 出来るだけ早く! マイチ! 傍にいるなら、俺の声が聞こえるな? 赤髪の男を探せと配下のヤクザに指令を下せ。手掛かりを見つけ次第、すぐ連絡しろ!」
電話を切ると、握りしめた左拳で壁を叩いた。大きな振動が部屋を震わせ、天井の埃を飛び散らせる。そのまま、彼は思考する。情報を精査し、計画を練り、行動に移すためにフル稼働させた知性が一瞬のうちに答えを導き出すと、鬼気迫った灰青色の眼差しがフィオリーナを強く見据えた。
「ネオとの連絡手段は生きていますか?」
「フィアス! 貴方は何を……!」
「ネオからフォックスの居場所を聞き出す。すまない、フィオリーナ。悪手あくしゅだが、それ以外にリンを救う方法はない」
「待ってください。リンさんを助けたい気持ちは分かりますが、貴方の取り乱し方は尋常ではありません。落ち着いて、まずは話をきかせてください」
「その前に答えを聞きたい。ネオと連絡は取れるのか?」
フィオリーナは毅然と首を振る。
「無理です。やり取りをした電子機器は処分しました。彼も手元に追跡される可能性のあるものを残しておくことはしないでしょう」
 フィアスは苦しげに顔を歪めたまま、フローリングの床を見つめる。
 携帯電話を切る直前までに見聞きしたこと、警察時代の経験則、膨大な量の書物から得た知識、それらを記憶している脳の隅々まで思い巡らし、考えても、考えても、出てくる答えはただ一つ。
 凛を救う手立ては、ついえた。
 フィアスは壁に手をつく。手の甲に額を押し付けて目を閉じる。高ぶる殺戮衝動さつりくしょうどうを意識の外へ追い出し、気絶に繋がる感覚過敏が訪れる前に、なんとか感情を封じ込める。
「リンは、殺される」
口に溜まった唾液を飲み込んで、彼は言った。
「……フォックスは、娼婦を殺す」