「貴方は、彼らの生命を最優先に考えるあまり、身動きが取れなくなっている。ガードを外れることで、守りに徹していた力のすべてを〈サイコ・ブレイン〉壊滅に注いでほしい……これがわたくしの示す道です」
フィオリーナの言葉を受けて、フィアスは拳を握りしめる。
自分のものとは思えないほど、発する声が震えている。
「俺が守らなければ、あいつらは殺される。一瞬だ」
「安心してください。リンさんとホンゴウさんには、しばらくの間、日本を離れてもらいます。特にリンさんは、この戦いの鍵となる重要人物です。誰の目にも触れさせない、絶対防壁の秘密のアジトに隔離します」
「絶対防壁……」
つぶやきながら、記憶をたどる。
 世界各国、ありとあらゆる場所に設置された〈BLOOD THIRSTY〉のアジト。その中で、防衛に優れた施設はあっただろうか。
「そこは、貴方も知り得ない場所」
 フィアスの考えを見抜くように、フィオリーナは言う。
「わたくし以外、誰一人として居場所を知る者はいません」
「そして、誰にも教えない」
ええ。フィオリーナは頷く。
「人間は心変わりをする生き物です。貴方でさえ、拷問に掛けられれば口を割らない保障はないのです」
「……リンを、マサムネと同じ目に遭わせる気か」
「どういうことです?」
「リュウトウマサムネは、幽閉された施設で生ける屍と化していた。リンに父親と同じ道を辿らせる気か」
「彼女の生命を第一に考えるならば、多少の孤独は致し方ありません」
「孤独どころの話じゃない。そんなところへ閉じ込めたら、彼女の精神は崩壊する。彼女は……リンは、俺たちが思っている以上に、脆いんだ」
暗く沈んだ灰青色の瞳を見て、フィオリーナの赤い瞳も微かにかげった。
だがそれも、心の奥に根ざした信念の光にかき消されて見えなくなる。
現存する体術の型を混ぜ合わせた彼女独特の構えを取ると、フィオリーナは地面を蹴って跳躍の一歩を踏み出した。フィアスも懐から銃を抜く。
彼女の気配が間近に迫り、のけぞって反らした頬のぎりぎりを、鋭い蹴りが掠め飛ぶ。流れるように続く回し蹴りの軌道の先へ発砲すると、彼女は身体を捻って銃弾を回避した。
両手を地面につき、寝転んだ体勢から足払いを仕掛けてくる。
フィアスは右手に銃を持ち替え、足元をめがけて引き金を引く。
フィオリーナは軽やかに後方へ飛び上がった。体操競技のように身体を回転させながら逃げてゆく後に、ペイント弾の青い絵の具が点々と溜まりを作る。
フィアスは撃ち続け、地面に倒れる直前に、左手で受け身をとった。
素早く体勢を立て直す。
フィオリーナにとって今の一戦はウォーミングアップだったようで、遠距離の間合いの向こうで手首を軽く振っている。
「貴方は、この計画に異論があるようですね」
「当たり前だ! 外部とのコミュニケーションが遮断された空間で、人間が生きていけると思うか? あんたらしくないぞ、フィオリーナ!」
「でしたら、貴方が考える最善の道を示してください。強さによって、わたくしの考えを否定しなさい」
言うや否や、フィオリーナは銃を抜いて発砲した。フィアスはコンクリートの防壁へ飛び込み銃弾を回避する。今しがた自分が立っていた位置にペイント弾が弾け飛んだ。
壁から壁へ移りながら、敵の位置を探る。
足音は聞こえない。
あるポイントで立ち止まり、壁に背を預けて目を閉じる。息を整えて、過去の一秒から未来への一秒へ移り変わる周囲の変化を辿っていくと、人為的じんいてきに作られた空気の揺らめきが髪の先をわずかに揺らした。

……頭上だ。

身をひるがえして退いた場所にフィオリーナのひざ蹴りが落ちてくる。彼女は銃を持っていなかった。
フィアスが銃を懐に戻した数コンマ後に、逆立ちのハイキックが宙を掠めた。銃を構えていたら弾き飛ばされていただろう。
フィオリーナは素早く立ち上がり、飛んできたフィアスのストレートを両腕を使ってガードする。彼女も即座にボクシングの構えを取る。巧妙にパンチをかわしつつ、隙をついてジョブを繰り出す。
彼女のガードは鉄壁で、動体反射能力はプロボクサーなみに鋭い。
一進一退の攻防が続く中、ある時点でフィオリーナは構えを解いた。
ワルツを踊るように、くるりとその場で身を翻すと、遠心力を利用しながら手刀に開いた突きを繰り出す。
首筋めがけて放たれた拳を同じく手の甲でフィアスは受け止める。右脇腹に鋭い痛みが走る。フィオリーナがもう片方の拳を固め、強力な正拳を繰り出したのだ。
二度目を喰らう前に抑えていた彼女の片腕へ、腕を絡めて振り払う。
フィオリーナは実践の中で、彼女が駆使するいくつかの体術をフィアスに教えていた。
どれも型を重視する東洋の武術で、フィアスが用いる近接格闘術とは根本的に異なっていたが、最低限の護身(相手の攻撃を避ける・受け流す)くらいは付け焼き刃ながら覚えることが出来た。
ボクシングから中国武道へ一変した彼女の手技をなんとかしのぐ。
それでも時が経つごとにずるずると後方へ押し流されてしまう。一瞬でも隙を見せれば、急所を突かれておしまいだ。
拳を避けることに精一杯で、攻撃へ転じるタイミングを見極める余裕がない。
おまけに戦いの興奮が後天遺伝子を今にも呼び起こそうとしていた。五感が一層鋭くなり、心臓が脈打つごとに体内をめぐる血が対戦闘用へ変化しているように感じられる。

……俺は、こんな結末を望んでいない。

外部と内部の危機に追い詰められながら、フィアスははっきりと自覚した。
フィオリーナの示す道も、後転遺伝子の支配も、凛を隔離することも、何一つとして望んでいない。

……それなら、どうする?

頭で考えるというより心が直接訴えてくるような、切実な願望が後転遺伝子より早く身体中をかけめぐった。

抗えっ!

知性が司令を下すより先に、右指がサイドアームのトリガーを引いた。フィオリーナの目が大きく開いた。
腰から銃を抜き、撃鉄を起こす。0.5秒にも満たないうちに回転式拳銃リボルバーから発射された弾丸は、動物的直感で退いたフィオリーナの毛先を掠めて地面に炸裂する。
彼女のポニーテイルに弾け飛んだ青色の飛沫がかかった。
片手で撃鉄を起こしながら、防壁へ消えてゆくフィオリーナを追撃する。装填の時間はない。
フィアスはサイドアームを捨て、懐からいつものオートマチックを取り出す。
彼女の跡を追いながら、この戦いの切り札――小さなダクトテープを取り出し、グリップにぐるぐると巻きつけた。粘着の強いテープによって左手が銃に固定される。
体術で彼女を打ち負かすのは不可能に等しい。銃で制圧しようにも、動作の隙に付け込まれる。
これらの弱点を解消するには、一世一代の賭けに出るしかない。

フィオリーナは訓練所のエントランスまで退却していた。態勢を整えつつ、やってきた自分を返り討ちにする算段でいるらしい。
防壁を抜け、重い扉が静かに佇む入り口付近へ躍り出る。彼女との距離は20メートル。堂々と佇む彼女の背後に、二人の見物人が見える。
事前に作戦を伝えていた真一は、フィアスの左腕を見てニヤリとした。
「いいぞー! やっちまえー!」
フィオリーナは地面を蹴って飛躍する。迎撃を誘っているのだ。発射ファイア再装填リロードの隙を。
フィアスは安全装置を外して、フィオリーナに狙いを定め……そして退いた。
フィオリーナのきついかかと落としが地面を叩く。彼女が二手目に移る前に、銃を握った左手でその身体を薙ぎ払う。
と同時に発射された弾丸を、背中をそらしてフィオリーナは回避した。
右ストレートが彼女の脇腹へ強く食い込む。
手応えがあった。
左方へ飛び退ったフィオリーナに、続けざまローキックをお見舞いする。当たるとは思っていない。彼女お得意の、身をかがめた足技を封じられればそれで良い。
フィオリーナは身をひねって回避すると、側転に近い動きで立ち上がる。
フィアスの右拳を悠々と交わすが、それはフェイクだ。左手に構えた銃口が火を噴く。
彼女のポニーテイルが弾丸の軌道に貫かれて二つに分かれる。
そのまま、硝煙の臭いがする左フックが彼女の右肩に炸裂した。
「……っ!」
フィオリーナは一歩退いて間合いを取る。
日本武道に構えが変わった。
擦るような足音ともに目にも止まらぬ速さで間合いを取られる。
繰り出した鋭い突きを右胸に届くギリギリのところでフィアスは防いだ。奇跡的な防衛だった。右腕でガードしたまま、正拳に固めた拳から繰り出されたような弾丸が胸元目掛けて飛んでいく。
目もくらむ一瞬のうちに、フィアスは考えていた。

これも、きっと彼女は避ける。
右か左。
どちらに避けるか、頼れるのは直感だけだ。

〈ベーゼ〉でネオを蹴り飛ばした時のように、頭で考えるより早く、右脚を振り上げる。
硬い革靴の先に、フィオリーナが飛び込んでくる。
重い一撃が食い込んだ。フィオリーナの身体が地面へ叩きつけられた。

仕留める!

再起される前に、彼女の上へ飛びかかる。
両手で銃を構えると、心臓を狙って引き金を引いた。


ベッドの上で凛は目を覚ました。
気づかないうちに眠ってしまっていたらしい。
横向けの体勢で、だらしなく伸びた腕の片方に血が巡らなくなっている。ひどく冷たい。
起き上がって腕をさすると、滞っていた血が体温とともに循環し始めた。
凛は自分の爪をなんとはなしに眺めやる。丁寧に塗った赤いマニキュアが剥がれかけている。塗り直そうかと思い立って、すぐやめた。
凛は黒いワンピースを脱ぎ捨てると、クローゼットの前に立ち、服を物色し始める。
普段の好みは、シックなデザインのワンピースやスカートだ。真っ直ぐに切りそろえたショートボブには古風な形の服が似合う。
けれども、今日はボーイッシュな、なるべく女の子らしくないファッションを着る。そう、決めている。
以前、真一が買ってきてくれたブランド物の服の山に、シンプルなブルージーンズがあった。そうそうこれこれ。足を通すと丈もピッタリ、ウエストだって窮屈じゃない。
凛はほっと息を吐く。
何週間も、この辛気くさい地下室に缶詰になっているのだ。食べたものが燃焼されず、どんどん身体に溜まってゆくような気がして心配していた。
その考えは杞憂だったようだ。
思えば、いくら食べても太らない体質だった。血を分けた姉妹の彩だって、肉付きが良くなる思春期の頃でさえ、ほっそりとした体型をキープし続けていたではないか。きっと家系的なものなのだ。
記憶の中の父親も、高身長の割にすらりと細い体躯をしている。これは思い出に美化されたものではない。
正宗は、暴力的な家業の割に線の細い男だった。
薬漬けのミュージシャンみたいな、影のある不健康さをまとった繊細な顔立ちと体つきをしていた。

「正宗」
声に出してつぶやく。
「父さん」
しっくりこない。
「正宗」

そうだ、正宗だ。

 あたしは正宗に恋していたんだ、と凛は気づく。
すっかり忘れていたけれど、幼き日の自分は、正宗のことが大好きだった。好きで好きでたまらなかった。
父さんではなく、正宗。
あどけない少女は女として、男である正宗が好きだった。
 凛は膝をついて、胸を抑える。小さな心臓がしくしく痛む。
子供の自分が泣いている。正宗に会いたがっているんだ。

 ジーンズにぴったりの上着は見つからなかった。
キャミソール姿のまま、凛はこっそりと部屋を抜け出す。先程から人の気配を感じなかった。
案の定、共用スペースには誰もいない。テーブルの上に飲みかけのカップが三客置いてあるだけだ。
 凛はソファの脇を通り抜け、あるドアの前に立つ。貝殻のように形作った手を耳にあて、人の気配を探ってみる。
たぶん、いない。ノックをしても返事はない。
思い切ってドアを開ける。
 やっぱりフィアスは留守のようだ。自分の部屋と同じ間取りの、自分の部屋より遥かに片付いている彼の部屋を歩き回る。
テーブルの上に読みかけの新聞紙が置いてあるのと、シンクの中に洗っていないロックグラスがあるだけで、私物は見る影もない。
相変わらずというか何というか……生活感のない部屋だ。
テーブルの引き出しやクローゼットの中を暴き立てる。予備の銃、銃弾の入った箱、ホルスター、防弾ベスト、警棒、サバイバルナイフ、謎のアタッシュケース……無骨なものばかり出てくる。
凛は肩をすくめる。弾丸を食べて暮らしてるのかしら?
部屋を物色しているうちに、ベッドの下から大量の本が出てきた。
しかし、エロくない。
どれもが分厚い専門書で、中身はびっしりと英文が印字されている。読み込まれている本もある。
ページを繰ると、空白を埋め尽くすほどびっしりと英語の走り書きでメモが書いてある。
読めないし、全然エロくない。
「あの人は本の読み過ぎで、霞を食って生きていけるようになったのかもね」
ふふふっ、と笑う声も、みるみる気弱にしぼんでいく。
気を取り直して、凛は任務を再開する。
衣類の入った引き出しを開けると、男物のシャツがしまわれている。
スーツが標準装備のフィアスも、たまに私服を着ていた。寒色系のシンプルなシャツに、ブラックジーンズ。
一つ一つを手にとって、自分でも着られそうなものを探す。
濃紺のTシャツに首を通すと、ふわっと馴染みの香水のにおいがする。
「貴方のこと、信じている」
凛は目を閉じて、味わうようにその香りを嗅ぐ。
「ただ……これは、あたしの問題なの。あたしが解決しなくちゃいけない問題」
ごめんね、と心の中で手を合わせた。

凛はヒップホルスターと、ボディーガードと呼ばれるS&W M36を見つけていた。五発装填可能の小型リボルバー。動作を確認し、ホルスターにしまう。腰のベルトにくくりつけ、シャツで隠す。
これで準備は万全だ。

正宗に、会いに行く。

決意を固めた凛の目に、キラリと光るものが見える。それはベッドサイドの小さなテーブルの上に置かれている。
眠る前に外して、そのままになっていたのだろう。普段、フィアスがつけているネックレスに、凛は注視したことがない。
シルバーの細いチェーンの先に、シンプルな装飾の指輪がついている。
とても小さな指輪……女性のものだ。
そして、このデザインをかつて目にしたことがある。
凛はネックレスをそうっと自分の首につける。
「行こう、アヤ」
胸元で光る姉妹の形見を握りしめ、つぶやく。
「あたしたちの正宗に、会いに」