呼吸が元に戻らない。肩で荒く息をつく。心臓も激しい伸縮を繰り返すばかりで収まりがつかない。ペイント弾に含まれるシンナーのツンとしたにおいが鼻を突く。
 フィオリーナの胸元で散ったインクは、化学薬品らしい鮮やかさのある水色だ。フィアスは初めて自分が撃っていた弾の色に気がついた。
 視界に入っていたものの、戦いに必死で、色彩を認識する余裕がなかったのだ。
 その色は、フィオリーナの瞳の色に似ていた。彼女が普段つけている、フェイクのカラーコンタクトの色に。
「フィアス」フィオリーナは、静かに呼びかける。
「いつまでわたくしの上に乗っているのですか?」
 ハッとして自分の置かれている状況に立ち返る。自分は彼女に馬乗りになって、その心臓へ銃を突きつけている。つまるところ勝利を獲得した一分前から、ずっと同じ体勢のままだ。
 慌てて身体をどけて、フィオリーナに手を差し伸べる……しかし、その手には銃が張り付いたままだ。ダクトテープを剥がそうにも、粘着力が強すぎて、片手では中々上手く行かない。
 苦心するフィアスを見て、フィオリーナはクスっと笑う。
「手伝いましょう」
上体を起こしたフィオリーナは、傍へ腰を下ろすと、美しい貝殻のような爪を立ててカリカリとテープを剥がしにかかった。
 フィアスは所在ない右手を開いたり閉じたりしながら、やがて小さな声で言った。
「すみません……」
「なんの、お安い御用です」
包帯が外れるように、絡まることなくテープは、巻かれた道順通りに剥がれてゆく。
「それにしても」テープを剥がしながら、フィオリーナは言った。
「貴方は性格の割にエキセントリックな戦い方をする。西部劇の早撃ちが始まったと思ったら、お次は拳銃武術だなんて」
 訓練所の壁の前、中国武闘を駆使してフィアスを追い詰めた際、フィオリーナは勝利を確信していた。しかし、思いもよらないことが起こった。彼がリボルバーを取り出し、ファニング・ショット片手早撃ちを繰り出したのだ。
 熟練の勘で退避出来たが、続く拳銃と体術の合わせ技は打破しようがなかった。
「再装填の隙を埋めるためとはいえ、 銃撃と打撃を組み合わせるなんて、予想していませんでしたよ」
ああ、と思い出したように相槌を打ちながら、フィアスは微苦笑する。
「苦肉の策です。ああでもしないと、貴女には勝てないと思ったので」
「貴方の突飛な行動にはいつも驚かされます。一年前だって――」
そこでフィオリーナは少し口をつぐむ。
肩にかかる金髪を払うと、様子を伺うように灰青色の瞳を見つめた。
「――一年前、NYの倉庫で、貴方はホンゴウさんを守るために相打ちして敵を倒した。しかし、貴方の腕は鈍っていなかった。生命を削るような戦い方をしなくとも、十分な勝算はあったはずです」
「……」
「わたくしには、貴方が戦いの中で、死に場所を探しているように見えました」
長い沈黙のあとで、左手から銃が落ちた。
 重たい、金属音。
「アヤが死んだ」フィアスは言った。
「アヤが死んだのに、俺が生きているのは理不尽だ……そう思っていました」
「今はどうですか?」
 しばらくの間、フィアスは手元を見ながら思案を巡らせていた。
 微かに開いた唇から、「いや」と掠れた声が聞こえ、言葉を紡ぐ。
「そうは思わない」
瞳を閉じて、何かを確かめるように首を振る。
「うん……そうだな。今は、そうは思いません」
フィオリーナは微笑む。
「良かった」
すっくと立ち上がると、今度は色白の手がフィアスの前に差し出される。透き通った声で彼女は宣言した。
「なにはともあれ、わたくしの負けです。貴方が目指す道をつつがなく行けるよう、力を尽くしましょう」


 駅の雑踏、構内の電話ボックス。
 凛は受話器を握りしめ、通話の始まりを待っていた。
 艶やかな黒髪をワークキャップで隠し、ボーイッシュな格好をした彼女は、細身の体躯も相まって男の子のように見える。身をやつすというほどではないが、よほど近くへ寄らない限り、彼女の正体に気づく人間は少ないだろう。
 しかし、油断はできない。
 ここへくる途中に調達したディパックで腰のエスコートを隠しつつ、絶えず周囲に目を配る。その間もコール音が無情に続き、合わせて苛立ちも、どんどん積み重なっていく。
 正宗、早く出て……。
 祈るような気持ちで応答を待つ。
 アジトの上階にあるホテルの電話から足がつくのを恐れて三駅先にある繁華街へ出た。しかし、互いを知らない人の群れに入るのは得策ではなかった。
 木を隠すには森の中。そんな言葉があるように、不審人物が人混みからいきなり飛び出してきても対処できない。周囲を警戒しながらの電話もそろそろ辛くなってきた。
 ワークキャップを深く被る。
 ……誰も、あたしを見つけないで。
 コールが切れた。十円玉がカチンと音を立てて、小銭受けへ落ちる。
「もしもし」
 凛は背筋の凍る思いがした。
 聞こえてきたのは、落ち着き払った静かな声。ノイズの影響を考慮しても全然違う。
 正宗じゃない。
 女だ。若い女の声。
 電話を取り落とさないよう、震える手でしっかり掴む。
 女はしばらく間を空けて、
「貴女の正体を当てましょうか」
続けざまに、
「龍頭凛」
きっぱりと言い放つ。
 凛はごくりと唾を飲んだ。その間がしっかりと受話器先の相手に伝わってしまったらしい。
 謎の女は不敵に笑う。
「図星のようですね。そして今、貴女の傍には誰もいない」
「……」
「だんまりを決め込むつもりなら、それでも良い」
「……」
「父親に会いたいでしょう?」
凛は唇を噛みしめる。
 フォックスから渡された電話番号が、直接正宗に繋がるとは思っていなかった。しかし、フォックスではない謎の女性が電話に出るとも思っていなかった。交渉の手段が分からない。
「……あんたは、フォックスの一味なの?」
長い思慮の後、思い切って凛は聞いてみた。
「イタリア人?」
「いいえ。私はただの通訳です。日本語が分からない彼のために、代行して電話に出ているだけです」
今から言う場所へ来てください、と女は告げる。
 凛はディパックからメモ帳を取り出して、慌ててメモを取る。手が震えて、上手く字が書けない。何度かやりとりしたあとで、ようやく間違いのない情報を書き記すことが出来た。
 指定された場所は、山下公園近くの広場だった。駅前に出て、タクシーを拾う。
 窓を流れる高層ビルを見ながら、凛は両手を握りしめ、自身の震えを止めようとしていた。


「本当に、龍頭凛をおびきだすことが出来るなんて……」
横浜のホテルの一室。通話を終えた小麗はつぶやく。ここは彼が日本へ来てすぐに雇った部屋らしい。
 〈サイコ・ブレイン〉のアジトを出たフォックスは、置いてある荷物を取りに戻ってきた。ネオからフォックスの面倒を見るようにと仰せつかっている小麗も、いやいやながら彼の部屋へ同行した。
 自室に戻ってすぐ、フォックスはかねてから考えていた作戦を打ち明けた。父親を餌に龍頭凛をおびき寄せて捕まえる。そして凛を人質に、BLOOD THIRSTYを壊滅させる。そのために必要な仲介役を、小麗は請け負うことにした。
 これほどまでにすんなりと事が運ぶとは思いもしなかった。凛の単独行動をBLOOD THIRSTYが許すわけがないと思っていたのだ。
 その中でも、特に№2……彼が凛の考えを聞いたなら、力ずくでも思いとどまらせたに違いない。
「龍頭凛は、奴らを信用していないのさ」
ぶっきらぼうにそう答え、フォックスは窓から巨大な高層ビル――「スカイタワー」を見やる。最も、そこが〈サイコ・ブレイン〉のアジトであったのは昨日までのこと。新たに拠点を構えた今、ビルは別の人間の手に渡り、今はもぬけの殻だ。
「どうしてそれが分かったのですか?」
フォックスは答えない。不機嫌な顔で街路を行く通行人を目で追っているだけだ。いつもの軽口を叩くこともなければ、ニヤけた笑顔もない。彼の周りを殺伐とした空気が取り巻き、彼自身も静かな怒りの中にいる。
「フォックス……?」
急激な不安に陥って、小麗はおずおずと彼の顔色を伺った。
 フォックスは緑色の目を向けると、苛立った声で言い放つ。
「俺は、あの女を殺したくてたまらない」
「あの女って……龍頭凛?」
 フォックスは歯をぎりぎりと鳴らしながら、心に去来した怒りを抑えているようだ。深い仲になったわけでもないのに、どうしてそこまで憎めるのか。小麗自身、龍頭凛に複雑な感情を抱いてはいるが、フォックスほど憎悪に塗れた思い入れはない。
 確かに凛は〈サイコ・ブレイン〉を裏切り、BLOOD THIRSTYに身を投じた。彼女が特別な人間でなかったら、万死に値するほどのタブーだ。
 けれども、それは〈サイコ・ブレイン〉我々が持つべき怒りであって、彼とは直接関係がない。
 それならば、他に理由があるのか。
 小麗はしばらく考え、やがて言った。
「彼女が、フィアスと関係する人物だから?」
女性らしい憶測に、「違う」。フォックスはぴしゃりと切り捨てる。
「あの女が、売女だからだ」
 思わぬ言葉が飛び出し、小麗は戸惑う。
 売女……確かに、定義できなくもない。
 龍頭凛は先端遺伝子の生殖に適した特別な遺伝子を持っている。被験体として、十代の頃から過酷な実験に甘んじていたと聞く。
 そして彼女自身も数多の男を手篭めにして、自身に施された実験のことや、それを行う組織の意図を探っていたことも事実だ。
 しかし……
「貴方が厳格なキリスト教徒だとは、思いも寄りませんでした」
小麗の言葉を受けて、フォックスは乾いた声で笑った。
「俺は教会で生まれ育ったが、神とは縁もゆかりもない。単に娼婦が嫌いなだけだ。奴らは諸悪の根源だ。根絶やしにしなければならない女たち。それを生け捕りにしなくちゃいけないってのは、苦痛だぜ」
 返す言葉が見つからず、小麗は何の気はなく腕を組む……否、無意識のうちに、一人の女性として、警戒態勢をとっていることに気づく。
 そんな心の内を、如才ない伊達男は察知したらしい。
 フォックスはいつもの調子に戻って、いかにも軽快にひらひらと手を振った。
「心配すんなよ、嬢ちゃん。俺は請け負った仕事は完璧にこなす。龍頭凛は、傷一つ付けずにネオの元へ届けよう。ただ、こっちとしても切り札を持っておきたいんで、俺の悲願が達成されるまでは手元に置いておきたいだけだ」
「信用出来ません。そんな話を聞いた後では、龍頭凛を預けておけない」
真剣な表情の小麗とは別に、フォックスは呑気だ。頭の後ろで手を組み合わせて、陽気に笑う。
「一日だけ時間をくれ。その間に、俺は〈BLOOD THIRSTY 〉を潰す。そうしたら嬢ちゃんは、龍頭凛を連れて自分の家に帰れば良い。……な、悪くない話だろ?」
小麗は迷う。本当のところ、凛を捕縛次第、一刻も早く退散したいのだが、この状況下でフォックスの目をかいくぐるのは難しい。
 下手な真似をすれば、自分や凛に危害を加えてくる恐れがある。ここは事を荒立てず、彼のやり方に従う方が得策かも知れない。
「貴方は、たった一人であの組織を潰そうというのですか? もう一人の後天遺伝子、そして先天遺伝子までもが、所属しているあの組織を?」
沈黙は空気を険悪にすると思い、何気なく小麗は口にしただけだった。それが、彼の興味を引くことになるとは思いもしなかった。
「嬢ちゃんは、俺のことを心配してくれるんだな」
 楽しげな緑の瞳に見つめられて、慌てて目をそらす。フォックスはもたれていた壁から離れ、こちらに向けて歩いてくる。小麗は思わず後ろへ後ずさるが、二歩も進まずに漆喰の壁に背中がついた。
 大きな手が、小麗の顔の真横に添う。街頭で女に声を掛けるような気軽さで、フォックスは戸惑いを隠せない生娘の退路を塞ぐ。そして身をかがめると、彼女の耳元でひそやかに囁いた。
「嬢ちゃん……いや、シャオレイ。俺のことを好きになりかけてるだろ?」
長い黒髪を撫でられる。小麗は耳元まで赤くなりながら、弱々しい力でフォックスの手を振り払う。しかし、フォックスは何処吹く風だ。銃を扱うときとは全く違う優しい手つきで彼女の頬にそっと触れた。
「なあ、シャオレイ。あんたは良い女だ。頭も良いし、顔もきれいだ。こんな日陰で、散って良い花じゃない。もっと世界を知るべきだ。世界には愛と裏切りがあって、男と女がいるってことを、その身をもって知るべきだ、シャオレイ」
「誤解しないでください。私が愛しているのは、ネオです」
「しかし、そのネオは龍頭凛に首ったけだ」
痛いところを突かれた。
小麗は自分でも知らないうちに拳を強く握りしめていた。一つ一つ言葉を噛み締めて告げる。目の前のフォックスにではなく、自分自身に言い聞かせるために。
「私は、ネオを愛しています。例え彼に愛がなくとも、私は彼を愛し続けます。この生命と、この生涯のすべてを捧げて、ネオに尽くす。それが私の幸福であり、さだめなんです」
「本気でそう思っているのか?」
「私は、本気です」
フォックスは溜息を吐いた。
「まったく、口説き甲斐のある女だな」