フィオリーナが扉を開けると、真っ先にシドが駆け寄ってきた。
 白く華奢な手を取って、彼女が怪我をしていないか、慌てふためきながら点検している。そんなシドを優美な笑顔で見つめ返し、彼女は大男の肩を優しく叩いた。
「大丈夫ですよ、シド。わたくしは無事です」
しかし、シドの顔は曇ったままだ。
「貴女の戦いに俺の力など役に立たないことくらい知っている……しかし、フィオリーナ、貴女と同じように感じる心が俺にもある」
怒っているような、悲しんでいるような。感情の底から沸き上がった深みのある声に、フィオリーナは少しだけ驚いたようだった。
 シドはほんの一瞬、沈黙の中に閉じたあとで、苦笑した。
 浅黒い大きな手がフィオリーナを離れ、細く編んだ自毛の先を指でくるくると回す。
「すまん。本音が漏れた」
「シド……」
「仕事に私情を挟むとは、俺もまだ半人前だな」
「いいえ、シド。わたくしが浅慮でした。謝ります」
長い睫毛が大きな瞳を覆い隠し、彼女は静かに頭を下げる。と同時に、小さな声で彼女は言った。
「貴方は、役に立っていますよ。いつでも」
再び開かれた視線は、今度はフィアスに注がれた。青い瞳がゆっくりと細まる。
 微笑んでいるように見えるその瞳は、光と闇が幾重にも折り重なり、底が見えない。
先天遺伝に染められた彼女の瞳は本来赤い。その目をずっと見つめ続けていると、無意識のうちに闘争心が湧き上がる。
 フィアスは拳を握りしめ、興奮に似た本能のうずきを心の内側で抑える。
「どこへ行っていたんだ?」
「聞かずとも、貴方には分かるでしょう?」
「ネオのところか」
「そうです」
「理由は?」
「わたくしに警告したいことがあると」
「どんな警告を受けたんだ?」
「フォックスが、我々を皆殺しにするだろうと」
「なるほど。最悪のシナリオが成立してしまったわけだな」
「ええ、残念なことに」
淡々と会話する二人の左右で真一とシドが唖然としている。フィオリーナが、躊躇なく秘密の行動を開示しているのだ。
 しかも、その内容にどう対応すれば良いのか分からない。
 フィアスは腕を組んだまま、凛の自室に繋がるドアに目をやる。フィオリーナも倣って開く気配のない扉へ目を向けた。
 二人はしばらく同じ方向を見つめていた。
 ややあって、口火を切ったのはフィアスだった。
「このアジトを拠点にしてから、三週間経つ。撃たれた傷も回復した。そろそろ次の手を講じて良い頃だ」
「次の手……、そうですね」
フィオリーナは視線を戻し、フィアスを見つめる。
微笑んで彼女は言った。
「わたくしも、心が決まりました。貴方に命を与えます」
まただ、とフィアスは思う。
 電話で話したときに感じた、人を寄せ付けない厳しさが彼女を取り巻いている。
 端麗な顔に湛えた微笑みは、以前のように張り巡らせた知略の上で踊る駒を見るときの、予定調和や寛大さにともなうものではなくなっていた。
 それは、反逆を許さない、絶対的な王者の盾だ。
「訓練所で待っています」
フィオリーナは部屋の出口へ向かって歩き始める。揺るぎない背中に掛ける言葉をフィアスは見つけられない。
「フィオリーナ」
部屋を出ていく彼女を、呼び止めたのはシドだった。
 赤茶色の瞳で彼女をじっと見つめながら、厳然とした声で言った。
「同行させてくれ。どんな時でも貴女に付き従うのが俺の使命だ」

 フィオリーナとシドがリビングからいなくなるのを待って、真一はそっとフィアスへ近寄った。
 フィアスは顎に手を当てて、相変わらず思案にふけっている。顔の前でぱっぱっと手を振ると、うっとおしそうにその手を弾いた。
「そんなことをしなくても、お前のことは見えている」
「びっくりしたよ。フィオリーナがネオと会っていたなんて」
「そうだな……と言いたいところだが、大方の予想はついていた」
「どうして分かったんだ?」
「シックスセンス――直感だ」
「考え事ばかりしてる割に、肝心なところは勢いで行くよな、お前って」
 そうかも知れない、とフィアスは思う。この直感に従うのなら、次の戦いは単なる訓練ではない。
 フィオリーナの背後には、二つの道が大きく隔たり闇の中に続いている。進むべき道を勝ち取るためには、彼女を乗り越えなければならない。
 後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐する。
 しかしそれは、自分の望む解決法ではない。
 暗い目をしたまま、じっと地面を見つめるフィアスの背中を真一は叩く。
 景気付けのつもりだったが、思いのほか力が強すぎたようで、恨めしげな青い視線に当てられる。
 慌てて真一は言った。
「アンタが勝つって俺には分かるよ」
「それは直感か?」
「そんな力、俺にはないよ」
「だとしたら、何だ?」
真一は頭の後ろで手を組み合わせて、照れたように、ははっと笑った。
「友情――友達を信じる気持ち」


 重い扉を開けると、スポットライトの眩しい光が差し込んだ。
 百歩歩かなければ四方の壁に行き着かない広範囲のスペースに、コンクリートで出来た防壁がランダムに配置されている。人一人を覆い隠せるほど大きな壁だ。
 表面には日頃の訓練で使用しているペイント弾が、前衛的な芸術作品のように様々な色を炸裂させて付着している。地盤を操作できるのか、訓練のたびに防壁の配置は変化した。
 初めて訪れた場所であるかのように、今日も地形は一新されている。
 フィオリーナは防壁の前に立って、金髪を太いポニーテイルにくくっているところだった。女性らしい華奢な身体に、ぴったりとした黒いシャツとレザーパンツを身に着けている。
 腰元に小さなヒップホルスターが掛かっているだけの軽装備で、弾薬の補充は考えていないらしい。
 体術を武器とする彼女に、余計な重みは不必要なのだ。その考えは、スピード攻撃を持ち味とするフィアスにも当てはまる。
 彼はスーツの懐にメインアームとマガジンケースを、ヒップホルスターにサイドアームを身に着けただけの、いつもと変わらない装備のまま訓練所を訪れた。平生と違っていたのは、ポケットに小さなダクトテープを忍ばせていたことだ。
 これが唯一の作戦であり、いざというときの切り札だった。
 真一はシドと合流すると、砂を散らした床の上にどっかりと腰を下ろす。その手にはポテトチップスの大袋とコーラの瓶が二本握られている。
「はいよ」
一本を大男に渡すと、栓を抜いてごくごくと飲み始めた。ぷはっ、と息をついて唇をぬぐう。
「どっちが勝つかな」言いながら、真一の目はキラキラしている。スポーツ観戦でもしているかのような口ぶりだ。
「真一君のような楽天家がいると、絶望的な状況もどん底に落ちなくて済む」
「どんな時でも楽しめ! が俺のモットーだからね。あいつが〝苦〟を取りに行くぶん、俺は〝楽〟を取りに行く。全力で楽しませてもらうよ」
「ははは、そりゃあ良い! バランスの取れた良いコンビだな」
「よせよ。あいつに聞かれたら、怒られちまう」
「そうしたら、君は笑ってごまかすんだな」
「あははははっ、シド、上手いこと言うな―!」
 お望み通り怒ってやろうか、とフィアスは思う。
 鋭くなった聴覚のせいで、遠巻きの会話が丸聞こえだ。緊迫した状況でなかったら、真一の額にペイント弾を撃ち込んでやるところなのだが。
 意識をギャラリーからそらし、正面の彼女に向ける。
 フィオリーナは両目からカラーコンタクトを取り外す。赤い双眼がフィアスを捉える。
 殺してやると瞬時に思い、フィアスはその考えを頭の中から追い出す。
 騒ぎたつ血をこらえるように、利き手の左腕を強く握った。
 後天遺伝が瞳を支配する感覚を、フィアスは覚えていた。五感が痛いほど鋭くなり、肉体と精神がきりはなされたように軽くなる。トランス状態。そして暗闇。
 本能に乗っ取られるわけにいかない。
「ネオが言っていました」
フィアスの精神状態を知ってか知らずか、フィオリーナは口を開いた。
「“フォックスに後天遺伝子を投与した”と。おそらく、十七年前に貴方が受けたものから手を加えられた改良型――限りなく先天遺伝子に近い性質のものであるはずです」
「ああ、想定の範囲内だ。フォックスが後天遺伝子の能力を知って、飛びつかないはずがない」
「今やフォックスの戦闘力は未知数です。わたくしをも凌駕りょうがする力を宿しているかも知れない。戦禍せんかは益々激しく燃え立つでしょう。その中で、貴方を強くするために、わたくしは心を決めました」
フィオリーナは厳しい目つきでフィアスを見つめて、躊躇することなく宣言した。

「わたくしに敗北した場合、リュウトウリン、およびホンゴウマイチのガードを解除します」