真一たちが部屋に戻ると、フィオリーナは床に膝をついて武器の手入れをしていた。三人の姿を見とめると、大きな目を細める。
「フィアスなら寝室で眠っていますよ」
「俺もなんだか眠くなってきたよ」
ソファに腰を下ろし、真一は大きく伸びをする。
「疲れてんだなー、俺たち」
なぁ? と同意を求めるように凛に目をやるが、反応が返ってこない。
 凛はいつになく神妙な顔でテーブルの一点を凝視していた。彼女が考え事なんて珍しい。誰もがそう思いつつも、渦巻く思考の海の中から彼女を呼び戻そうとしなかった。真一は夢の世界へ足を踏み入れつつあったし、シドは別の心配事で頭がいっぱい、フィオリーナにおいては相手の意向の分からぬうちは手を出さないと決めていた。
「フィアスの様子、見てくる」
長い沈黙のあとで呟くように凛は言った。
「ね、いいでしょ?」
フィオリーナは笑みを絶やさない。
「もちろん、どうぞ」
 寝室のドアが閉まるのを見届けると、待ちわびたようにシドは立ちあがった。横目で真一が眠っていることを確認し、フィオリーナの元へ駆け寄る。ウェーブのかかった柔らかな金髪をかきあげると、見えた。部屋に入った瞬間からずっと気になっていたのだ、白い首筋についた鬱血の痕が。五本の指の形にくっきりと残っている。長い髪の毛に隠されているとはいえ、真一や凛が彼女の身体の変化に気づかないというのは、側近のシドには信じられないことだった。
 自分が席を外していた間に彼女の命が危険にさらされていたのだと思うと、思わず背筋が寒気立つ。さらに恐ろしいことに、彼女の首を絞めたのは怨恨を持った人物ではない。
 誰の仕業か分かっている。分からないのは、その理由だ。
 シドは恐る恐る尋ねた。
「話してくれないか?」
けれど、フィオリーナの表情は変わらない。真一が部屋に入って来たときと同じようににこにこしている。三日月型に閉じられた唇からは何の言葉も出てこない。それはシドに心配をかけまいとしているようにも見えたし、余計な詮索をするなと釘を刺しているようにも見えた。
 女神の頬笑みを前に、シドにはなす術がない。強張った大きな身体から、みるみる力が抜けていく。このもどかしさは何度も経験した。彼女の下に仕えてから、今までに何度も。
 今日もまた、鉄壁の笑顔は沈黙を守りとおすのだろう。
 厚い唇から小さな溜息を吐くと、シドは言った。
「フィオリーナ、貴女のために紅茶をいれよう」


 床を覆い尽くす見事なペルシャ織の絨毯の上を抜き足差し足で進みながら凛はベッドに近づいた。五感の鋭いフィアスのことだから、部屋に入った瞬間に目を覚ますのではないかと思ったが、枕元に立って彼を見下ろすことまでしても、灰青色の瞳は長い睫毛に隠されたまま。すうすうと、気持ち良さそうに眠っている。遊び疲れた子供みたいな寝顔だ。
 手を伸ばしてフィアスの金髪に触れる。髪の毛が汗で湿っていたので、ぐしゃぐしゃと撫でて内にこもった熱を飛ばしてやる。ここまでして目を覚まさないのは不自然だ。どうやら彼には眠り続ける理由があるらしい。
「貴方は謎めいた人ね、フィアス」
小さい子供にするように白い額にキスをして、凛はベッドの空いたスペースに腰かけた。繭のように包みこむ眠りのにおいに誘われて、彼女もまた小さく欠伸をした。
 四十分後、泥のような眠りの底からフィアスは覚醒した。無意識から意識へとスイッチを切り替えたように唐突な目覚めだった。腕時計を見ると、あれから三時間が経過している。フィオリーナの言う通りだ。どんどん人間離れしている。
 足元に自分とは違う体温を感じた。見れば猫のように身体を丸めて、龍頭凛が眠っている。細い両腕が無防備にベッドの上に投げ出され、黒蝶のタトゥがワンピースの胸元からのぞく。呼吸に合わせて皮膚が動くと、蝶がまるで羽を動かしているみたいだ。今にも飛翔の瞬間が訪れそうな気がしたが、そんなことはあり得ないし、ずっと眺め続けていてはあらぬ誤解を招く。黒蝶から目をそらすと、フィアスは冷たい肩先を揺すった。
 んんん、と不機嫌な呻き声が凛の唇から洩れる。
 放っておいてよ、と尖った爪の先で手の甲を引っ掻かれた。放っておいてやりたいのは山々だが、誰かの手助けなしには足がしびれて動けないのだ。フィオリーナの鉄槌がまだ利いているらしい。
 数分ほどうんうんと唸って、ようやく凛は上体を起こした。しばらくは恨めしそうにフィアスを睨んでいたが、一つ大きく伸びをすると、まったりとした笑顔に変わった。あたしの寝起き、最悪でしょ。そう言いながら、先ほどとは打って変わってにこにこしている。
「予測不可能な君の行動にもそれほど驚かなくなってきた」
「嬉しいわね。これから毎晩、同じベッドで寝ましょうか」
「体中、引っ掻き傷だらけになるのはごめんだな」
凛はにっこりと微笑んだ。
「ま、そんなくだらない話は置いておいて、答えてほしいことがあるの」
「なんだ?」
ベッドの上を這うように進んで、凛はフィアスの隣に腰を落ち着けた。乾いたショートカットの頭をフィアスの肩にもたせかける。目を閉じたまま、彼女はしばらく何も喋らなかった。飛ぶことに疲れた小鳥が木の枝で羽根を休めるように、微かに上下する肩の呼吸を聞きながらじっとしていた。このままもう一眠りしてしまうみたいに見えたが、やがて大きく深呼吸をすると話し始めた。
「あの日、どこへ行っていたのか知りたいわ」
「あの日って、いつだ?」
「花火があった日よ。あたしのガードを外れてどこへ行っていたの?」
「ああ」
凛は〈ベーゼ〉のことを聞いているのだ。
「どうしてそこでネオに捕えられてしまったのかも、教えて」
 もっとも、彼女はその存在を知らない。〈ベーゼ〉に、凛の父親・龍頭正宗が幽閉されていたことも。
 正宗は今、どうしているのだろう? フィアスは咄嗟に思いめぐらした。あれから様々な出来事が立て続けに起こったため、彼のことを考える余裕がなかった。あの状況で、無事に脱出できたとは思えない。再び囚われの身になってしまったか、既に殺されているかも知れない。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「聞いてはいけないことなの?」
そう言った凛の目は、不安で揺れていた。
「病院でフィオリーナに抱きしめられたとき、変なことを聞かれたわ。〝フィアスから話を聞いていますか?〟って。あたし、何も聞かされていないわ。何も知らないのよ」
 生死不明な正宗と、彼の妻・龍頭葵の末路、そして凛の遺伝子の秘密。すべてが瞬時にフィアスの脳裏を駆け巡った。ここで秘密を打ち明けたくはなかった。母親や凛のことについては時と場所を選ぶ必要があったし、正宗の安否に関しては、はっきりとした情報が入って来ない限り誤解を招くようなことは言いたくない。
 悲しげな顔で凛はフィアスを見た。
「あたしが〈サイコ・ブレイン〉の仲間だったから?」
「違う。そんなことは関係ない」
「それじゃあ、どうして教えてくれないの?」
「それは……」
言葉に詰まってフィアスは口を閉じた。ごまかしが利かない。彩と同じ、何もかもを見透かす瞳が真摯にフィアスを見つめている。純粋で、厳しすぎる眼差しだ。
「信じてくれたと思ってた」
「信じている。だからこそ、教えられない」
「どうしてなの? 仲間ならどんな情報も共有できるはずでしょ?」
「俺もフィオリーナも、リンをフォローできるような精神的な余裕がない。こんな状態で大事な話はしたくない。君に、孤独の中で苦しんで欲しくないんだ。仲間だからここまで考える」
「そんなの、偽善だわ」
凛は呻くようにつぶやいた。
「情報を漏らしたくないんでしょう? あたしは、だって……〝組織の女〟だったんだもの。あたしが絶対に貴方達を裏切らないなんて保証はないものね」
「リン、寝言は寝てから言ってくれ……次は自分のベッドで」
フィアスは溜息を吐いた。神経をすり減らし、頭をフル回転させて選んだ言葉が、これほど険を持って捉えられるとは思ってもみなかったのだ。自分が疲労困憊しているのと同じように、凛も自身を取り巻く謎の中で戸惑っているのだと分かった。いくら口数を多くして、理論の壁を積み上げたところで、今の彼女には言いたいことの一つも伝わらないだろう。
 ベッドから飛び降りると、凛はリビングへと駆けて行った。すぐに別のドアを開く音が聞こえてくる。思春期の少女のように複雑怪奇な心を背負って、自分の部屋に閉じこもってしまったらしい。耳を澄ますと、隣室のバスルームから小さな泣き声が聞こえた。やがてそれも、シャワーの水音に強くかき消されてしまった。
 とにかく助けが必要だった。
 あらかじめ、小さな声で女上司の名を呼んでみた。反応がない。どうやら部屋の外にいるらしい。次に声を大にして真一の名前を呼んでみた。しばらくして、眠い目をこすりながら真一が寝室に入ってきた。俺たちは三人ともよく眠るな、と思いながらフィアスは少しだけはねていた後頭部の寝癖を直す。
よ、と気安い挨拶を投げかけると、真一は目覚めの涙をぬぐう。
「呼んだか?」
「肩を貸してくれないか。足が痺れて動けないんだ」
「足でもつったか? カルシウムが足りてないんじゃないの?」
「……激しく違うが心身ともに疲弊した後で込み入った事情を説明するのも面倒だからそういうことにしておいてくれて構わない」
「そんな説明ができるんなら、教えてくれたっていいじゃんよ」
真一の手を借りてリビングまでやってくると、フィアスはキャビネットの中から煙草を取り出し、火をつけた。もたれるようにソファに座る。真一がティーカップに真っ黒な液体を注いで持ってきた。彼独自の製法で作った強力なカフェイン入りの珈琲らしい。
 何を思ってそんなものをすすめてくるのか分からなかったが、とりあえずフィアスは口をつけてみた。悪意を感じるほど苦い。それでも足のしびれが少し緩和したような気がした。ショック療法というやつだろうか。
 真一の話によるとフィオリーナとシドは、フォックスの身元を追うために席を外しているということだった。地下のどこかにGNSS衛星測位を利用した位置記録装置があるらしい。
 お灸をすえてみたものの、高慢の塊のようなフォックスが鼻を折られるような真似をされて黙っているわけがないとフィオリーナは考えている。こちらの脅威となる可能性もあり、動向を追って損はないというわけだ。しかし、それも彼が携帯電話や腕時計を肌身離さず身につけている場合に限られる。衛星の存在に気づかないほどフォックスは愚かじゃない。組織から支給された携帯電話や通信機器はすぐに処分したはずだ。
「フォックスの性分をフィオリーナは分かっていたはずだ。俺たちの計画に加担してきた時点でさっさと始末するべきだった。放擲ほうてきするにしても、二度と引き金を引けないように牙を抜いておく・・・・・・・必要があったな」
「ずいぶんと厳しい言い方をするんだな」
「かなり容赦した発言だと思ったが」
フィルターにまで届いた煙草を灰皿の上に押しつぶす。自意識にまみれて鋭く光る緑の目を思い出すたび虫唾が走る。煙草が指と指の間で小さくひしゃげた。フィアスの静かな怒りを感じて、真一は困ったように頭を掻いた。義理に厚く、縦のつながりを重視するやくざの世界を知る者に、BLOOD THIRSTYの幹部である二人の対立は新鮮に映った。
「構成員同士の対立が深いのは、戦闘を売りにする組織だからか?」
「BLOOD THIRSTYほど友好的で派閥や古い掟に無縁な組織はない」
「そうなのか? てっきり血の気の多い人間ばかりだと思っていたけど」
「うちの人間と組んでみれば分かるだろうが、表向きは虫も殺さないような外面の良いヤツばかりだぞ。依頼人には笑顔を絶やさないし、同業者には礼節を尽くす。やり手のビジネスマンみたいな連中だ」
今組んでいる〈BLOOD THIRSTY〉は友好的でもないしいつも不機嫌なつり目の野郎だけどなぁ、と真一は内心で思ったが口には出さないでおく。
「生き延びるために重要なのは、余計な敵を作らないことだ。お前がライオンだとして、同じ檻の中にいるライオンをわざわざ襲うか?」
「うーん、確かに筋の通った理屈ではあるな」
「食えない喧嘩はしない。裏社会に身をおく人間の大前提だ」
「そこまで分かっていてお互いを嫌いあうってことは、よほど深い因縁があるってことか」
「まあ、そういうことだな」
フィアスは煙草の煙を宙に吐いた。フィルターを灰皿に押しつぶして消火すると、紫煙が霧散するまで待ち、そして言った。
「厄介なことになった」


 契約したホテルへ戻るとフォックスは勢い良く扉を開けた。
 苛立ちを隠そうともせず、乱暴に次々と部屋の扉を開けてゆく。だが、どこにも見当たらない。あの男の姿がない。無精髭でホームレスのように小汚い格好をしていた、リンの父親。バスルームを覗くと使用された形跡があった。クローゼットにしまっておいた自分の服が何着かベッドの上に放り出され、試着したあとがある。
 計画を有利に進めるための人質は、助けてやった恩も返さず身綺麗になってホテルを出て行ってしまったらしい。ついでに言うとトランクの中にしまっていた日本円の現金もすっかり抜き取られている。ここまで来ると犯罪行為だ。
 無力な日本人にまんまとしてやられたことが益々フォックスを怒らせた。苛立ち紛れにクローゼットを殴りつけ(薄いベニヤ板で作られていたドアに穴が空いた)、着ていた服を脱ぎ捨てると生暖かさの残る二番風呂へシャワーを浴びに行く。スイッチを冷水に切り替えて、滝壺修行のように頭からかぶる。
 文字通り、これがフォックスの頭の冷やし方だった。衝動的な性格なのは自分でも認めるところだが、ひとたび怒りの炎に火がついたら抑制が利かない。子供の頃からそうだった。生まれ持った気質が原因で無駄な血を流したことも少なくない。
 しばらくじっとしているうちに冷静にかえってきた。新しい洋服に着替えると、フォックスは部屋をうろつきながら、これから自分がすべきことを考えた。彼はフィオリーナの寵愛の掠奪を諦めてはいなかった。並外れた戦闘力を武器に、邪魔者(№2)を殺して組織の駒の一つへと返り咲くのは簡単だが、それだけでは彼女の視線を奪えない(軽蔑の視線は、猛暑日の紫外線のように体中に浴びることになるだろうが)。
 欲しいのは注目、そして特別感。自分なしでは立ち行かない必要性を前に彼女を跪かせたい。そのためにはもちろん№2を亡き者にする必要があるが、もっと重要な「英雄の証ヒーローライセンス」が必要だ。
 白いスーツの下にあらゆる武器を忍ばせると、フォックスは全身を映し出す鏡の前に立ちエメラルドグリーンの瞳を眺めた。