賭け事は好きだ。それが生死をかけたギャンブルならなおのこと。一度味わえば体内を巡るアドレナリンの心地よさはやみつきになってしまう。何より命を賭したゲームは後腐れがない。勝てば官軍、しかし負けたところで敵の配下に下ることも、莫大な借金を背負うこともない。喪失のショックを受ける前にすべてを喪失するだけだ。
 自己愛と表裏一体となった自己客体。スイッチを切り替えたようにフォックスは自我を切り離す。BETできるチップとしてしか自分を見なせなくなるから、痛みも恐れも感じない。どこか浮遊感に包まれながら自分の足を動かして、フォックスは見覚えのあるビルへやってきた。メタリックガラスが張り巡らされたスカイタワーの玄関口は弾痕の傷ひとつなくきれいに修復されていた。人の気配はしなかったが、ビルの明かりはついている。自動ドアも滑らかに開いた。
 H&KMP5を構え直し、慎重に廊下を進んでいく。内部も修復が行き届いており、一滴の血の痕も見当たらなかった。中央ホールの手前、フィアスがちょうど撃たれた場所へやってくると、フォックスは吹き抜けになった天井へ向けて叫んだ。
「取引がしたい。リーダーはいるか?」
 返事はない。フォックスはふん、と鼻を鳴らすとブーツを響かせて階段を登っていった。手入れされていたのは玄関と一階だけで、二階から上は銃撃戦が起こったままの状態で保存されていた。防音措置を施したように、白い壁のあちこちに弾痕が残っている。乾いた血痕が壁の低い位置に飛沫している。命まで奪うのは忍びないと思ったのか、足を撃ったようだ。
「ふん、甘ちゃんの戦い方だな。これでお嬢の片腕って言うんだから笑っちまう」
銃を肩に担ぎ直すと、フォックスは血痕の壁を軽く小突いた。続く三階、四階へと足を運ぶが誰の姿も見えない。〈ベーゼ〉と呼ばれていた彼らの秘密基地のような無菌状態の廊下が続いているだけだ。誰の気配もしない。フォックスは適当に扉を開けてみる。白い壁に小奇麗なソファが配置されただけのシンプルな部屋にたどり着く。ここは何をする部屋なのだろう。白いシャッターが掛けられた窓から、日の光が燦々と降り注いでいる。
 マシンガンを構えると、蹴散らすように部屋へ発砲した。ソファに穴が空いて黄色い詰め物が飛び出す。激しい音を立てて窓ガラスが割れ、丸い焦げ跡が壁の四方に刻み込まれる。轟音が止むと、火薬の白い煙が部屋に漂った。まるで意味のないことをした。
 ちっ、と舌打ちをすると、フォックスは乱暴に扉を閉める。
「ネオ! 俺を苛つかせるな! さっさと出て来い!」
 再び声を張り上げたとき、何か液体のようなものがフォックスの頬を掠めた。突然、水の気配がしたのだ。もちろん、出所は分からない。慌てて身体を捻って交わすと、足元の床に薄く色のついた液体が広がった。甘酸っぱい果実の匂いが鼻を掠める。オレンジの匂いだ。頬についた液体を手にとって舐めてみる。果汁よりも砂糖とシロップがたくさん入っていそうな、甘ったるいオレンジジュースの味がする。コケにされているのだ。
 クソッ、と毒づくとフォックスは得物を担ぎ直し、駆け足で階段を登っていく。クスクスと、どこからともなく子供の嘲笑が聞こえてくる。苛立たしかった。六階の階段の踊り場で、アーミーブーツが丸い物を踏みつけた。赤い飴玉だ。数歩おきに点々と廊下の先まで続いている。自分を導いているらしい。童話の世界じゃあるまいし、なんて悪趣味な案内だろう。
 辺りを警戒しつつ、赤い飴玉を追って行くと、ある部屋の前で目印は途切れていた。ドアはピタリと閉じられている。扉を開けようと取っ手に手をかけ、思いなおしてフォックスはドアの壁に耳を傾けた。微かだが、音が聞こえてくる。糸をキリキリ引くような音が。フォックスはドアから離れ、横の壁に背中を預けると、一つ小さく呼吸をして取っ手を捻った。開扉すると同時に扉から手を離す。
 硝煙と轟音。弾丸雨注が弾幕となってフォックスの視界を奪う。わずか数秒の間に白い壁が弾丸の熱に焼かれて真っ黒に焦げ付いた。重機関銃とはタチが悪い。素直に扉を開けていたなら、自分の上半身は原形を留めぬほど、穴だらけになっていただろう。
「取引をしにきた相手に随分な仕打ちだな」
蝶番の外れかけたドアを蹴破ると、フォックスは中へ入る。真っ白な部屋の中央、マホガニーで作られた机の中央に置かれた一丁の大型銃を挟んで、二人の人間が鎮座していた。向って右側、両足をきちんと揃えてしおらしく机に腰掛けている女は小麗。
 黒いパンツルックはいつもと変わらないが、細長い首筋には先日には見られなかった太い包帯が巻いてある。無表情に口を閉ざしたまま、彼女の目はフォックスの身体を貫いてどこか遠くを見つめていた。小麗の隣にはネオが座っている。宙に浮いた両足を所在なく揺らしながら、天使の微笑みを浮かべてフォックスを迎え入れた。彼の小さな手に促されるまま、フォックスは異様な空気を放つ、無菌の部屋に足を一歩踏み入れる。
 無装填の重機関銃を机の後ろに隠すと、ネオは床に降りたった。差しのべられた手を支えに、小麗もするりと床へ降りたつ。隙もなく銃を構えるフォックスを見て、ネオは微かに首を振る。
「君の強さを試したかったんだよ」
流暢なイタリア語だ。
「納得したか?」
「まあ、ね」
「俺の言い分を聞いてもらいたい」
「聞かなくても分かっているよ。強くなりたいんだろう?」
赤い瞳を見開いてネオはフォックスを見据えた。
「僕のようにね」
フォックスは笑った。同時に、今すぐにでも短機関銃を使って、この子供の頭を吹き飛ばせないか考えた。
 見たところネオは銃を持っていない。弾の切れた重機関銃は机の後ろへ隠してしまったし、この部屋に武器になるようなものはない。小麗の怪我の回復も完璧とは程遠い。自分が本気を出せば恐らく一秒にも満たないうちに、銃弾を放つことができる。しかし本能が知らせてくる。今ここで銃を抜けば、自分は死ぬ。ネオを殺すことなど無理な相談だ――少なくとも、今は。
「何を考えているんだい――アンジェロ?」
心臓のうずきを感じた。握りしめた拳に爪が食い込んで血がにじんでいた。
「その名前で、呼ぶんじゃない」
声が震えるのは、怒りからか、それとも思わぬ場所で再会した過去の思い出に驚いたためか。
「生まれたばかりの君は、天使に似ていたのかな?」
 ネオの隣で小麗が微笑をもらした。指先から垂れた血筋が床に届くより早くフォックスはネオに殴りかかる。だがそれも、蹴り上げた小麗の長い足にはじかれた。逆光が彼女の脚線美を照らし出し、カミソリの刃のように鋭い小麗の瞳が、フォックスを捉える。
「次は、私、止めませんよ。一日一善ですから」
薄い唇から漏れる声は、首筋の傷が影響しているのか低くかすれていた。熱いかすり傷のついた手の甲を一舐めすると、かすかに血の味がする。フォックスはニヤリと笑うと彼女の頬に手を伸ばす。当然、ものすごい勢いで払いのけられた。調子に乗るな、と彼女の静かな目が語っていた。フォックスは声をあげて笑う。彼女のおかげで心が落ち着いた。いや、鬼神の世界から心が戻ってきたと言うべきか。
 二人を交互に見つめながら、ネオもにっこり微笑んだ。
「二人が仲良くなってくれて僕はとても嬉しいよ」
「誤解です、ネオ!」
「小麗、友達は良いものだよ。僕なんか敵対する組織にもたくさんの友達がいるよ」
「それも誤解だと、思いますけど……」
「さあ、二人とも握手して」
「俺はキスの方が好きだな」
横から口を挟んだフォックスに冷たい氷の視線を浴びせながら、しぶしぶ小麗は優男の手をつかんだ。不意打ちに思わぬ「口撃」を受けないように、めいっぱい身体をのけぞらせて。二人の友情をこの上なく幸せな表情で見つめながら、ネオはうっとりとつぶやいた。
「僕の大切な小麗の友達になってくれたお礼に、フォックスを強くしてあげよう」


「繋がらないな……」
フィオリーナから新しく支給された携帯電話で以前の自分の番号へ電話をかけてみるが、何度繰り返しても音信はうんともすんとも言わなかった。電源が切れているため、GPSを解析することも難しい。敵の動きを警戒して、正宗が携帯電話の電源をオフにしているだけなら良いのだが。
「その携帯、逆探知される心配はないのか?」
真向かいのソファで、真一は不安げに眉をひそめた。凛のいる寝室を横目に見て、小さく声を落とす。
「もし正宗が敵に捕まっていたら、俺たちの居場所が特定されるかも」
「その点はぬかりない。組織で使う電子機器はすべて、専用のコンピューターからアクセスしないと解析できないようになっている」
「それなら、安心だけど……」
そう言いつつも、真一の心配顔は消えない。
「凛に知らせなくて良いのか? 正宗のことと、それに……」
「凛の身体のことか?」
真一はうなずいた。五分前にフィアスが語った衝撃の事実が、今も頭の中をぐるぐる回っている。
「どうして俺にだけこんな話をするんだよ。いちばんに知っておくべきなのは彼女だろ」
「フィオリーナも知っている。おそらく、シドも承知の上だろう。なにも知らないのは凛だけだ。俺も上司も、彼女に打ち明ける気はない」
フィアスは身を屈めると、真一の黒い目を深く見据える。
「ネオが死ねば戦いは終わる。だが、凛が死んでもこの戦いは終わってしまうんだ。真実を知った彼女が行動を起こさないとも限らない」
「自殺する?」
「自己犠牲と思うかもしれない。彼女の性格を考えれば、そのように崇高で愚かな精神は持ち合わせてなさそうだが、人間は心変わりするからな」
「嫌だな、そんな終わり方」
「凛に聖女役は似合わない」
長い足を組み替えるとフィアスはソファに背中を預けた。懐からいつもの煙草を取り出し、火をつける。
「その秘密を知った代わりに全力で彼女を守ってほしい。凛が、苦しむことのないように」
「凛を守る俺をお前が守る、と。完璧だな!」
フィアスは目を閉じると、唇からゆっくりと紫煙を吐き出した。再び見開いた彼の灰青色の瞳は、いつもより暗く濁っていた。
「そうだな……」
真一が言葉を返すより先に入り口のドアが開いた。シドが身を屈めてドアをくぐり抜けてくる。ううーん、低い声で唸った。いつもなら細く何本も編み上げられた黒い髪の毛をくるくる回しているところだが(それが彼の苦悩の仕草なのだ)、今日は無意識のうちに負傷した右腕をさすっていた。フィアスが投げた煙草の箱をキャッチすると一本取り出して口にくわえた。再び飛んできたライターで火をつける。
 長い一服の後にシドは煙草の煙の混じった溜息を吐いてソファに腰を下ろした。
「大変面倒なことになってしまった」
「その面倒を、俺がなんとかするわけじゃないと良いけどな」
「残念ながら、ワーカーホリックの出番みたいだ」
唇の端を曲げてシドはくっくっくと笑う。それからすぐに真剣な表情に戻って、
「GNSSがフォックスの居場所を探知した。フォックスは〈サイコ・ブレイン〉のアジトにいる」
「GNSSで追跡できたのか」
「携帯電話からの追跡は不可能だと分かっていたから、やつの身体に発信器をつけておいたんだ」
そう言ってシドは包帯の巻かれた右腕をさすった。
「余計な怪我を負ってしまったが」
「器用なことをするなあ」という真一の感嘆と「馬鹿なことをするな」というフィアスの嘆息を受けてシドはにやりとした。