お嬢ちゃん、俺はお前の父親の居場所を知っている。お望みならば、会わせてやることもできるだろう。
 ただ、あくまでこれは俺たちの個人取引だ。進行中のミッションとは関係がない。だからお前のお仲間に打ち明けるべきことじゃない。分かるだろ?
 簡易な英語で、このような趣旨のことをフォックスは言った。病院の、踊り場でのことだ。
緑色の目を細くして、フォックスは優男の笑みを浮かべる。
差し出された紙には日本語で宛名が書かれていた。
『凛へ』。
「声を聞かせてやるからさ、とにかくコールしてみろよ」
そのときのフォックスの嬉しそうな声を忘れられない。


 凛は今、ホテルのロビーにいる。
 エレベーターの近くに三面ガラス張りの電話ボックスが設置されていて、かれこれ十分ほどその中で立ち往生している状態だ。意味なく受話器を上げたり下げたりしている。
 紙に書かれていた十一桁の電話番号の先に、果たして父はいるのだろうか。
 父、龍頭正宗。彼は十五年以上も前にまだ幼かった双子の姉妹を〈サイコ・ブレイン〉に売り渡した。それからほどなくして彼は、連続殺人事件の犯人として逮捕された。
 生きているかどうかもわからない。仮にもし生きていたとしても、極刑は免れない。どこかの刑務所に収容されているはずだ。
 大犯罪者といえども日本国内で起こった事件の犯人に過ぎない父親と、イタリア生まれのBLOOD THIRSTYとの間に接点があるとは思えなかった。これは何かの罠であるに違いない。そう考えて、ダイヤルを回す手を止める。
 そもそも、自分は正宗との再会を望んでいるのだろうか。
 生きることに精いっぱいで、凛はこれまでに父親を顧みたことがなかった。自分の人生をめちゃくちゃにした元凶だと思ってもしっくりこないし、父の顔すら意識の風化を受けてうる覚えだ。仮に出会えたとして、どんな言葉を掛ければ良いのか分からない。
 あたしは父親に対して何の感情も抱いていないんだ、そう凛は判断した。
 それならば、こんなに怪しいメモ用紙など、見なかったことにして捨てるべきだ。そう思って一度はぐしゃぐしゃに握りしめた紙を、開き直して溜息をつく。
 無数に折り目のついた紙の中で、父とを繋ぐ数字の羅列は忘れたくても忘れられない思い出のようにくっきりと刻みこまれている。
「ここにいるのは六歳のあたしだわ」
凛はつぶやいた。
「六歳のあたしが、父さんにしがみついているんだ」


 ラウンジのカフェテリアに戻ると、真一が大きなソファにもたれてうとうとと眠り込んでいた。警戒心の欠片もない。仮にも命を狙われている身なのに、肝が据わっているというかなんというか……凛は苦笑するほかない。
「大丈夫だ、俺が見張っている」
そう答えたのは巨漢のシドだ。
「あんた強いの?」
「強いかどうか分からないが、目は良い方だ。ここからでも電話ボックスが良く見える」
シドは訝しげに凛を見た。
「誰に電話をかけていたんだ?」
「誰でもないわ。テレホンセックスして遊んでいただけよ」
「大笑いして済ませたいところだが、仕事中は逐一上司に報告しなくちゃいけない決まりなんでな」
「真一くんは有名ホテルの三つ星珈琲を飲みに、あたしは電話ボックスでセックスしてたって伝えなさいよ」
「リュウトウリン、ジョークは上手いが隠し事は下手くそだな」
シドの炯眼けいがんに睨まれ、観念したように凛は溜息をついた。
「この間まで滞在していたホテルに電話をかけていたのよ。部屋にある荷物を全部処分してほしくて」
「フィアスの武器はフィオリーナが回収してきたはずだぞ?」
「男と女が一緒の部屋に暮らしていると、武器以上に危険なものがたくさんあるのよ。間違ってもあんなもの日の目にさらされちゃ困るわ。まあ彼のメンツにかけて、何がどうしたとは言わないけれど」
「そんなにすごいのか?」
「まさにケダモノよ。ベッドの上で二、三人殺しているんじゃないかしら。まあ彼のメンツにかけて、何がどうしたとは言わないけれど」
「人は見かけによらないんだな……」
「あんたの上司も分かんないわよ」
シドはあからさまにショックを受けた顔をした。


 目を覚ますと、また風景が変わっていた。額に手をあて、視線だけを動かして辺りを見回す。来たことのない部屋だった。コンクリートの壁に囲まれて、少し肌寒い。頬に触れる空気が湿っている。地下だろうか。
 部屋を出ると、リビングと思しき部屋のソファにフィオリーナが座っていた。眠気を押し殺して向かいに座る。
「あれからきっかり三時間経ちました。覚えておいてください、貴方は一度倒れると三時間、目を覚ましません」
フィアスは気だるそうに頭を掻いた。
「リンとマイチは?」
「シドと一緒にラウンジにいます。私が二人を連れ出すようにお願いしました」
「何故?」
「貴方だけに話があるから」
そう言うと、フィオリーナはウェーブのかかった長い髪をかきあげた。絹糸のようにやわらかな金髪が扇状にふわりと舞う。着ていた上着を脱ぐと、シルクのブラウスに包まれて女性らしい身体のラインが見えた。BLOOD THIRSTY最強と謳われ、そこにいかなる戦闘力を秘めていようとも、外見は二十代の女性と変わらない。
 戦闘が腕力の差で決まるわけではないことを、彼女に会うたび思い知らされる。
「気分はどうですか?」
「良くも悪くもない」
「吐き気は? 激しい運動に耐えられそうですか?」
「激しい運動だって?」
嫌な予感がして、フィアスは膝の上に置いた手を握りしめた。その心を見透かしたように、フィオリーナは済まなそうに眼を伏せる。
「武器を私に預けてください」
「どうして?」
「出来る限り被害を最小限にとどめたいのです。ご承知ください」
 フィアスはジャケットを脱ぐと、ホルスターごと銃をテーブルの上に置いた。〈サイコ・ブレイン〉のアジトで敵から奪った武器――Glock22がごとりと重い音を立てる。
 フィオリーナは部屋のクローゼットから、見慣れた黒いガンケースを取り出すとその中へグロックをしまい、がっちりと錠をかけた。本来ならば、ガンケースにはM5906が入っているはずだった。好きな相手を寝取られたような、なんとなく嫌な気分になるのは執着のし過ぎだろうか。
「腕時計を外してください。貴方の場合は左耳のリング、それからネックレスも。念を入れて、煙草とライターも頂きましょうか」
「なぜそこまでする必要があるんです?」
「貴方が傷つかないための配慮です」
「意味が分かりません」
フィオリーナは答えなかった。没収したものをすべてキャビネットの中にしまうと、リビングでは障害物が多すぎると判断したらしい。フィアスを寝室に招いて内側から鍵をかけた。自身も首につけていたヒスイのネックレスを外してベッドの上に放る。
 身軽になった身体を持て余しながら、フィアスは腕を組んで続く上司の台詞を待った。
 部屋中に流れる沈鬱な空気をかき消して、フィオリーナは言った。
「後天遺伝の能力を使うと人間の闘争心を限界にまで高めることができます。麻薬のような興奮物質が脳内に分泌され、五感の働きが鋭くなり、精神も激烈に高揚します。トランス状態に陥り、普段より何倍も高い戦闘能力を引き出すことができるのです。
 ただし、その能力は短時間しか維持できません。神経に負担がかかりすぎるため、脳が生命危機を感じて意識を遮断してしまうのです。
 先程も申し上げましたように、貴方は後天遺伝の能力を発揮したあと、三時間目を覚まさない。それは、すり減らした神経系の回復に三時間の休眠を要するということです」
「戦っている最中に昼寝するなんて、傍迷惑はためいわくな話だな」
「ですから、貴方には安易にこの能力を使ってほしくないのです。身体に負担がかかることですし、後天遺伝に関する研究データが少ないので使い過ぎるとどんな影響が身体に現れるか分かりません」
「問題ない。戦っている最中にハメを外さないように、気をつければ良いだけだろ」
フィオリーナは困ったように微笑んだ。
「そう簡単には行かないのです。この力は人間の本能に根付いたものですから」
「本能?」
「そもそも、なぜルディガーは息子である貴方に遺伝子を改竄するような危険な薬を投与したのでしょう?」
「追手から、身を守らせるためじゃないのか」
「もちろん、それが大前提でしょう。しかし、彼の性格を考えると、それだけではないように思えるのです。ひときわ正義感が強く、人々の平和を願っていた彼は貴方に一つの望みを託したのではないでしょうか。だから、彼は後天遺伝子に特別な動作反応を付与させた……」
「ちょっと待て。特別な動作反応ってなんのことだ?」
「説明するまでもありません」
フィオリーナは両目に指をあてがうと、ゆっくりとそこにあるものを取り出した。カラーコンタクト。彼女の目を鮮やかな青色に変えていたものの正体だ。再び顔をあげたとき、彼女の目は血のように毒々しい――ネオと同じ暗紅色に変わっていた。
 後天遺伝の血が騒ぎ出す。
 突き出されたフィアスの拳を彼女は片手で受け止めた。刹那に飛んでくる強烈な横蹴りをかいくぐると弧を描いて側面に回る。フィアスが裏拳打ちを繰り出すより先に、頂肘ちょうちゅうの構えを取って、一気に距離を詰めた。
 獣の直感で彼女の動きに警戒すると、フィアスは間一髪のところで攻撃を回避した。後方に飛び退り、張り詰めた空気の中で遺伝子情報に刻み込まれた宿敵と間合いを取ると、すぐにまた彼女のボディへ飛び込んで行く。スピードに特化した彼の攻撃は、後天遺伝の影響も相まって常人の目では追えないほど素早い。
 しかし彼女の方が遥かに肉弾戦に長けていた。
 フィオリーナは石火のごとく身をひるがえすと、フィアスの首筋に鋭い一撃を見舞った。
 フィアスはベッドの上に倒れ込んだ。頚椎けいついを打たれたとすぐに分かった。全身が麻痺して身体を動かすことができなかったからだ。いつの間にか繰り出されていたフィオリーナの打撃のせいで、左の利き腕は痙攣を起こしたように小刻みに震えている。
 それでも、怒りよりも純粋なフィオリーナへの闘争心が、彼を奮い立たせた。
 戦闘を終えたフィオリーナが、ヒスイのネックレスへ手を伸ばしかけたとき、フィアスは全霊をかけて彼女の首元に掴みかかった。震える左手が、血管の浮き出るほど強く彼女の首を締め上げる。
 意思と無関係に動く指先は、反吐が出るほどおぞましかった。
「俺を攻撃しろ、フィオリーナ」
荒い息を吐きながら、フィアスは言った。
「このままでは、あんたを殺してしまう」
「大丈夫、心配しないで」
フィオリーナは微笑んだ。
「これで分かったでしょう? 後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐せずにはいられない。貴方の意思に関係なく。……ルディガーは託したのです。貴方に、ネオと私の始末を」
 水滴がフィアスの頬の上に落ちてきた。一瞬だけ室内にいることを忘れて、フィアスは雨が降ったかと訝った。まさかそれが彼女の赤い目から零れ落ちたものだとは思いもよらなかったのだ。
 彼女は、悲別した人間の無言の意思に涙しているのだと気づいた。フィオリーナとルディガー。自分が生まれる遥か以前に、彼らに流れた時間の厚みを想像しないわけにはいかない。
 しかし今は、過ぎ去った出来事を詮索している暇はない。左手はフィオリーナの首を掴んだまま離さない。何とか自分の意識を閉じようと頭に働きかけてみるものの、高ぶる殺戮衝動を前に正気を保つことで精いっぱいだ。
「攻撃してくれ、フィオリーナ! さもないと貴女が……」
「フィアス、よく聞いてください」
フィアスの言葉を遮って、息も絶え絶えにフィオリーナは言った。
「ネオは私の兄です。私たちは同じ先天遺伝子を分かち合った兄妹、すべての悲劇の元凶です。私たちを止められるのは貴方しかいない。ルディガーの息子である、貴方しか……」
「始末するのはネオだけでたくさんだ!」
 歯を食いしばって全神経を右腕に集中させる。麻痺していた腕が、少しずつ意思に沿って動き始めた。フィアスは慎重に右手をフィオリーナに近づけると、彼女の首から石のように硬い左手の指を一本ずつ引き離していった。
 気管が広がると、フィオリーナは身体を折り曲げてわずかに咳込んだ。二人とも全身に汗をかいていた。フィアスはなんとか上体を起こして、力の抜けた両足を引きずりながら彼女と距離をとった。何時また「特別な動作反応」が身体を乗っ取るか分からない。
 呼吸が元に戻るまでフィオリーナは何も喋らなかった。フィアスはベッドのヘッドボードに背中を預け、冷たくなった両腕をじっと見つめた。火事場の馬鹿力とはこのことで、遺伝子上の敵フィオリーナを解放した瞬間に右腕の自由が利かなくなってしまっていた。彼女の攻撃は熾烈で、関節の痺れは収まる気配がない。
 麻痺の程度から、恐らく半日はこの状態が続くように思われた。
フィアスに背を向けると、フィオリーナは静かに言った。
「兄が先天遺伝子の創造を望むように、私は先天遺伝子の破壊を望んでいます。私たちはこの世に生を受けるべきではなかった。この気持ちは変わりません」
 ヒスイのネックレスを取り上げ、紫色の締め痕の上に再びそれをつけ直す。彼女はしなやかにベッドから飛び降りた。
 フィアスを振り返ったとき、女上司はいつものように優雅な笑みを湛えていた。
「久しぶりに貴方の体術を見せていただきましたが、銃に頼り過ぎた故の弊害が出ていますね。また一から鍛え直しましょう――来るべき戦いに備えて」