シドがベッドに腰かけると悲鳴のような音を立ててスプリングが軋んだ。
 赤紫色に腫れあがった右腕を見て、ちっ、と舌打ちする――あいつ、思い切りやりやがって。
「思い切りやられていたら、あんたは今頃死体安置所だ」
「こういう時に自分の弱さが憎くなる」
「だから銃が発明されたんだろう。強さを等しくするために」
 それはお前の吐く台詞じゃない! というシドの文句に呼応せず、フィアスは呑みこむような欠伸をする。
 眠気が波のように襲いかかってきた。大量に出血したせいで血中濃度が下がっているのかも知れない。
 腕を組むと、フィアスは静かに目を閉じる。思えばここ数日間、気を失ってばかりいる。電撃を流され、得体の知れない実験薬を投与され、三発の銃弾を撃ち込まれ……。
 ひどい寝方をしているせいで、一体どのように生活すれば午後十時に寝室のベッドで穏やかな眠りにつくことができるのか忘れてしまった。
「大分、やつれているわね」
 気がつけば凛が、ベッドの前に立ってフィアスを見ていた。
「傷痕、ちょっとだけ見せてくれない?」
「傷痕?」
「銃創の痕よ」
赤いマニキュアの塗られた指が、スーツの上からできたての銃創をなぞる。ふさがってもいない傷口に刺激を与えるような真似はやめてほしいと思ったが、そんなことを言ったところで彼女が止めるとは思えないのでフィアスは黙ったまま――さながら飼い主に頭を垂れる従順な黒犬のように――凛が一人遊びに飽きるのを待った。
 ここと、ここと、ここね。銃弾が貫通した位置を確認すると凛は一人ごちるようにつぶやいた。
「残念ね。貫通していなければ、応急処置、してあげたのに」
「応急処置?」
「そう。あたし、弾丸取り出すの、上手いのよ。」 
凛の、傷口を掴む手に力が入る。激痛が上肢をまわって心臓へ駆け抜ける。
 フィアスは息を飲んだ。
「り、リン……」
「例えばここに銃弾が埋まったとするじゃない? そうするとアドレナリンの役割で最初の数分は痛みを感じないわけ。あたしはその数分間を狙ってね、麻酔なしでこうやって――肩先を麻痺させながら指で――こう、ねじ込んでね。つまみだすの」
凛はわずかに逡巡したのち、
「それからこう。こうね……あら、出血しちゃった。でも大丈夫。感染症にだけ気をつければ、血なんて勝手に止まるから。あたしはこのやり方で何人もの男を死の淵から救い出したのよ。血圧が急激に下がるもんだから途中でみんな気絶しちゃうんだけど、あんたは気骨があるから顔色が悪くなるだけで済むと思う」
凛は照れたようにも怒ったようにも見える不思議な表情のまま、にやりと唇を吊り上げた。
「今度撃たれたら、あたしが助けてあげる」
どうやら、はにかんでいるらしい。
 料理といい、応急処置といい、この娘の好意はどうして苦痛とセットなのだろう。稲妻を放つ右手からやっと解放されると、フィアスは肩をさする。彼女の救済心が激痛を伴って心に染みて、
「もう二度と、無茶はしない……」
殊勝に頭を下げるだけで精いっぱいだった。


 戦士たちの休息が熱された飴のように伸び続け、フィオリーナがスライドドアを開けた瞬間ぷつりと途切れた。
 彼女はまずシドの元へ行き、百合のように優美な手でシドの肩先に触れた。
 大丈夫だ、と言うようにシドは頷く。フィオリーナは詫びるように目を伏せると、今度はフィアスの方へ歩み出た。
 空になった点滴バッグを投げ捨てると、フィアスは立ちあがった。こうやって上司と顔を突き合わすのも一年ぶりだ。フィオリーナのブルーヒューの瞳はこの世のものと思えないほど果てもなく澄みわたり、同時にこの世のすべてを包括するかのごとく混沌としていた。
 深淵なる瞳に自分の姿が溶けて映る。
 俺の目は……、言いかけてフィアスは口を閉じる。
 しかし、すぐにまた低い声で、
「どんな色だ?」
 フィオリーナの唇が微かに震えたように見えたが、答えははっきりと聞き取れた。
「瞳の色が変わるのは、リミッターが解除されたときだけです。普段は人ごみに紛れるよう、人種本来の色のままです」
「最初から全部知っていたんだな……」
フィアスはつぶやいた。長い睫毛の間に見える灰青色の瞳が哀しげに揺れる。
「フィオリーナ、俺は貴女が分からない。貴女が何を知っていて、何を考えているのかが」
 フィアスは、対峙する女上司を見据えた。その眼差しは様々な感情を飲みこんで、ただ純粋と言えるほどに不可解な疑問を解き明かそうとする探究者の目に収斂していた。
 或る瞬間、閃光が走ったように彼は大きく眼を開いた。言葉では表せない、霊感のようなものが彼の本能にささやきかけたのだ。無意識のうちに言葉が零れた。

貴女は一体、何者なんだ?・・・・・・・・・・・・

 その問いを投げかけたとき、彼女はあぁっ、と悲鳴をあげた。
 目をつむり、手で顔を覆い隠す。暗闇の中でサーチライトに照らされた逃亡者のように。彼女は悲痛な叫びをあげた。
「私の正体を、知ってはいけない!」
 その瞬間、何故かフィアスはスーツの懐に手を入れて、ホルスターから拳銃を引き抜こうとしていた。真珠のように優雅な美貌を持つこの女性から、生臭い血のにおいがしたのだ。
 自分とは相反する者のにおい。それは、ジェノサイド根絶やしにしなければならない者のにおいだった。
 額に浮いた汗が頬を伝って流れ落ちる。魂が感情の風に吹きあげられてどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。彼女を始末しろと本能が告げていた。もちろん理性の力でフィアスはそれを抑えつけようとしたが、赤い分泌液がどんどん瞳を濁してゆく胸糞の悪さを感じないわけにはいかなかった。
 フィオリーナ。振り絞るようにフィアスは言った。
「あんたと戦いたくない……!」
 これ以上私に近づかないで、フィオリーナが厳然とした態度で告げた。
「私の目を見てはいけません!」
 フィアスは指示に従った。目を閉じ、ゆっくりと窓ぎわまで後退する。震える左手をポケットに隠し、意識の外へフィオリーナの存在を追いやった。
 徐々に自分の中で沸騰する血の衝動が収まっていくのを感じる。と同時に、どうにも頭の芯からこみあげてくるものがある。
 その正体がひどい睡魔だと知るのに大した時間はかからなかった。
 のしかかられるような重圧とともに硬い床にくずおれると、フィアスは無意識の闇の中に落ちた。


 フィアスは昏々と眠り続けた。
「どうしたんだよ? 今度こそ本当に死んじゃったのか? なあ、返事しろよ。フィアス、起きろってばぁ……」
しどろもどろになりながら真一が肩を揺するが、フィアスはぴくりとも動かない。それどころか寝息は益々深くなるばかりで、一向に目覚める気配がない。
 シドがフィアスの身体を持ち上げ、ベッドの上に横たえた。
「お次はどんな魔術を使ったんだ、フィオリーナ?」
冗談めかしたシドの質問に、フィオリーナは静かに首を振った。
「彼は防衛措置をとってくれたのです」
 白い手をベッドの上の部下の手に乗せる。すると葉を閉じる植物のようにゆっくりと大きな掌がフィオリーナの手を握り返した。深い眠りの中にも彼女の言葉を理解して、反応を示そうとする意識が残っているようだ。掌から脈打つ鼓動が伝わってくる。
 フィオリーナは空いている方の手で、子どものように明るいフィアスの金髪を撫でた。
「貴方には打ち明けなければいけませんね」
そのつぶやきは小さすぎて、誰の耳にも届かなかった。