弾丸の通過した痕が、危険信号のように三ヶ所同時に疼くのをフィアスは感じた。敵機の存在を感知した対空レーダーのごとく。心拍数の上昇により血流の流れが激しくなったためだろう。相変わらずこの身体は、彼女の存在に拒否反応を示している。
 長い廊下の先に、ほっそりとした女性と、女性の後ろを守護獣ガーディアンのようについて歩く、巨躯の男の姿が見える。BLOOD THIRSTYの女首領・フィオリーナ・ディヴァーと、その側近・シド・ヴァレンシアだ。
 ごくりと唾を飲み込むフィアスの隣で、フォックスも同じように喉を鳴らした。
 水中に差し込む光のように緩やかな足取りでフィアスの元へやってくると、ブルーの瞳を細めて彼を見上げる。それから肩に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「目覚めてくれて良かった……この五日間、わたくしは生きた心地がしませんでした」
  抱擁を解くと、フィオリーナは悲しげな顔で、フィアスの腕に触れる。
「傷痕が増えてしまいましたね。すみません」
「別に……貴女のせいじゃない」
頭を下げるフィオリーナに、とりあえずそれだけを告げるとフィアスは口を閉じる。〈ベーゼ〉から〈サイコ・ブレイン〉のアジトまでに知り得た情報が膨大過ぎて、上司と話をするだけで口走ってしまいそうだったのだ。
この場で業務報告をするには、人数があまりにも多すぎる。聞かれたくない情報もある。フィオリーナもフィアスの内情を察したのか、微かに頷くと、静かに告げた。
「傷の手当てが終った後で、話を聞かせてください」
それから、長身の男たちの背に隠れていた龍頭凛の前に来て、
「リンさん」
彼女の名前を呼んだ。彼女の肩をそっと抱く。母親のような、愛情を込めて。
大して年も違わないはずの二人の間には、確かに重厚な時の隔たりがあった。
 ごめんなさい、フィオリーナの小さな声が凛の耳元を掠める。
「貴女に、懐かしさを感じてしまうのです」
 肩にかかる長い金髪に埋もれながら、凛は戸惑ったようにフィアスを見つめる。どうすればいいの、これ?
フィアスは微かに首を振る。仕方なく凛はフィオリーナの背中に手を回し、抱擁に応じた。
親しみのこもった抱擁を終えると、フィオリーナが口を開いた。
「フィアスから話を聞いていますか?」
「話? 何のこと?」
「それならば良いのです。大したことではありません」
フィオリーナは凛の頬に手をあて、にっこりと微笑む。大きな黒い目を瞬かせ、凛は腑に落ちない顔で首を捻る。一体、何のこと? 再び質問が繰り出されるより先に、フィオリーナは凛から離れ、真一にもにっこり微笑みかける。
「ホンゴウさんも、お元気そうでなによりです。再びお目にかかれて、嬉しく思います」
「フィオリーナ、アンタに会うのは一年ぶりか?」
「NYでお会いしたとき以来ですね」
「相変わらず綺麗だなあ」
 一年前と同じように、きっかり一分彼女を鑑賞し真一は溜息を吐く。フィオリーナは笑みを深くし、THANK YOUと返した。
 そのような彼らのやりとりを横目に見ながら、フォックスは小さく足を鳴らしていた。苛立ちが心の中で増長し、我慢ならなくなっていたのだ。恐れを知らない奴だ、ぼそりとつぶやいたフィアスの言葉にフォックスは大袈裟な舌打ちする。
「お嬢」
れた呼び方で、自分より年上なのか年下なのか分からない女上司の視線を奪うと、フォックスは三人の会話に割って入った。
 蘇った怒りと共に、フォックスの整った顔に唾を吐きかけようとする凛の口を真一がふさいだ。もごもごと口を動かしながら二歩も三歩も後ろへ引きずられる凛。真一の腹に肘鉄砲を喰らわせると、腕をかいくぐってフィアスの方へ駆けだす。
「くそぅ、どうして俺ばっかり……」不服の声をあげながら、真一は腹をさする。
 何がおかしいのか、一人壁にもたれたシドが、くっくっく、と不気味な声で笑っている。
 フォックスに殴打された傷に伸ばしかけた凛の手を掴んで、フィアスは傍へ引き寄せた。両肩に手を置いて、すばしっこい小さな子供を諌めるように姿勢を固定する。
「フィオリーナが、お前の溜飲を下げてくれるそうだ」
 二人の視線の向かう先で、
「お嬢! どうしてだ!」
フォックスがフィオリーナに喰ってかかっていた。威勢の良さとは裏腹に、瞳はショックに耐えかねて大きく見開かれている。どうしてだ! フォックスは再び吠えた。
「俺は戦える! 待ってくれ、お嬢! フィオリーナ!」
「貴方は独善的な行動が多すぎます。最早、看過かんかできません」
「俺が戦わなければ、フィアスを取られて事態は不利のままだった!」
「その言い分こそが独善的だというのです!」
ぴしゃりと切り捨てられ、フォックスは言い淀む。
 すぐさまフィオリーナの脇に立ち、怒れる恋人を宥めるように柔らかな口調で、
「フィオリーナ、よく考えろよ。俺とフィアス、どちらが信頼に足ると思う? あいつが姿をくらましていた三年間、俺は組織のために身を粉にして働いた。当然、業績に適った優遇をされるべきだと思わないか?」
しかし、フィオリーナは細い首を横に振るばかりだ。
 違います、美貌の女上司は押し殺した声でつぶやく。
「貴方は勘違いをしている。この戦いはビジネスではない。それぞれが業から解き放たれるための試練なのです」
 フィオリーナはフォックスをじっと見つめる。だがその視線はフォックスの顔を通り越し、彼の背後に向けられている。
 フィアスと凛。父親たちに背負わされた「業」の重さを、彼らはどの程度、自覚しているのだろう。二人は子どものように顔を寄せ合って、ひそひそと話をしている。どうやら英語の分からない凛に、フィアスが今の会話を通訳しているようだ。
 すべてを聞き終えると、凛が憤慨した様子で何か言った。唇の動きを日本語に当てはめると――〝あの男にお金払えば、自分で自分の顔を殴ってくれるわけ?〟
 フィオリーナは溜息をついた。
「国に帰りなさい、フォックス。わたくしのオラトリオに貴方の出る幕はない」
 待ち構えていたように、シドが動いた。反射的に振り出したフォックスの拳を岩のように硬い手が受け止める。
「往生際が悪いな。女に嫌われるぞ」
 フィオリーナと阿吽あうんの呼吸で、フォックスの身体を拘束する。陽炎のように揺らめく動きで、フィオリーナは彼の片手からシースナイフをたたき落とし、背後からねじあげた。身体の自由が利かないよう関節をいくつか外すことを思いついたが、思いの外、フォックスは素直に「説得」に応じた。多勢に無勢の状況で悪あがきを試すほど、フォックスも愚かではないようだ……口元だけは今にも噛みつかんばかりに、歯をむき出しにしているが。
「病院のエントランスまでシドが貴方をお送りします。くれぐれも道中で殺害しないように。わたくしは彼の命を貴方と同等に扱います・・・・・・・・・・・・・・・・
 クソッ! 押し殺した声でつぶやくと、フォックスはうなだれたまま、廊下の果てへ連れられて行く。
 しかし、彼の矜持は屈しようとしなかった。燃えるような赤毛が廊下の角に消えてすぐ、シドの巨体が廊下の突き当たりに弾き飛ばされた。
「赤い目の血統がそんなにすごいか!」
 獣の咆哮のように病院中に響き渡る低いイギリス英語。フィオリーナが駿馬のごとくシドの元へ駆けつけたとき、フォックスは既に姿を消していた。